上野殿後家尼御返事
文永十一年七月 五十三歳御作
御供養の物種種給畢んぬ、抑も上野殿死去の後は・をとづれ冥途より候やらん・きかまほしくをぼへ候、ただしあるべしとも・をぼへず、もし夢にあらずんば・すがたをみる事よもあらじ、まぼろしにあらずんば・みみえ給う事いかが候はん、さだめて霊山浄土にてさばの事をば・ちうやにきき御覧じ候らむ、妻子等は肉眼なればみさせ・きかせ給う事なし・ついには一所とをぼしめせ、生生世世の間ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりも・ををくこそをはしまし候いけん、今度のちぎりこそ・まことのちぎりのをとこよ、そのゆへは・をとこのすすめによりて法華経の行者とならせ給へば仏とをがませ給うべし、いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。
夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし、此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり、されば権教を修行する人は火にやくるもの又火の中へいり、水にしづむものなをふちのそこへ入るがごとし、法華経をたもたざる人は火と水との中にいたるがごとし、法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ・阿弥陀経・大日経等を信じ給うは・なを火より火の中・水より水のそこへ入るがごとし、いかでか苦患をまぬかるべきや、等活・黒繩・無間地獄の火
坑・紅蓮・大紅蓮の冰の底に入りしづみ給はん事疑なかるべし、法華経の第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入り是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。
故聖霊は此の苦をまぬかれ給い・すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、若し大水に漂わされ為も其の名号を称れば即ち浅き処を得ん」又云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」云云、あらたのもしや・たのもしや、詮するところ地獄を外にもとめ獄卒の鉄杖阿防羅刹のかしやくのこゑ別にこれなし、此の法門ゆゆしき大事なれども、尼にたいしまいらせて・おしへまいらせん、例せば竜女にたいして文殊菩薩は即身成仏の秘法をとき給いしがごとし、これをきかせ給いて後は・いよいよ信心をいたさせ給へ、法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり、天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきは・いよいよあをきがごとし。
地獄と云う二字をばつちをほるとよめり、人の死する時つちをほらぬもの候べきか、これを地獄と云う、死人をやく火は無間の火炎なり、妻子・眷属の死人の前後にあらそひゆくは獄卒・阿防羅刹なり、妻子等のかなしみなくは獄卒のこゑなり、二尺五寸の杖は鉄杖なり・馬は馬頭・牛は牛頭なり、穴は無間大城・八万四千のかまは八万四千の塵労門・家をきりいづるは死出の山・孝子の河のほとりにたたずむは三途の愛河なり、別に求むる事はかなしはかなし、此の法華経をたもちたてまつる人は此れをうちかへし・地獄は寂光土・火焔は報身如来の智火・死人は法身如来・火坑は大慈悲為室の応身如来、又つえは妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海・死出の山は煩悩即菩提の重山なり、かく御心得させ給へ・即身成仏とも開仏知見ともこれをさとり・これをひらくを申すなり、提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外は候はず、逆即是順の法華経なれば
なり・これ妙の一字の功徳なり。
竜樹菩薩の云く「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云、妙楽大師云く「豈伽耶を離れて別に常寂を求めん寂光の外・別に娑婆有るに非ず」云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土なり」云云、法華経に云く「諸法実相乃至・本末究竟等」云云、寿量品に云く「我実に成仏してより已来無量無辺なり」等云云、此の経文に我と申すは十界なり・十界本有の仏なれば浄土に住するなり、方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、世間のならひとして三世常恒の相なれば・なげくべきにあらず・をどろくべきにあらず、相の一字は八相なり・八相も生死の二字をいでず、かくさとるを法華経の行者の即身成仏と申すなり、故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、さのみなげき給うべからず、又なげき給うべきが凡夫のことわりなり、ただし聖人の上にも・これあるなり、釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのなげき・凡夫のふるまひを示し給うか。
いかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし、古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよと・をしへ給う・ことわりにもや候らん、此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさせ給へ・秘しさせ給へ、あなかしこ・あなかしこ。
七月十一日 日蓮花押
上野殿後家尼御前御返事