Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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十八円満抄  (5/6) 言を以て之を伝うる時は行証共に教と成り
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の徳を以て量知すべき故に得意と名く、複疎とは無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり理性の円融に同じからず故に複疎と名く、易解とは三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す故に易解と名く、此れを附文の五重と名く、次に本意に依て亦五重の三観有り、一に三観一心入寂門の機、二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す、四に為果行因の一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す、五に付法の一心三観・五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く、山家の云く塔中の言なり亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名くと。

問うて云く天真独朗の止観の時・一念三千・一心三観の義を立つるや、答えて云く両師の伝不同なり、座主の云く天真独朗とは一念三千の観是なり、山家師の云く一念三千而も指南と為す一念三千とは一心より三千を生ずるにも非ず一心に三千を具するにも非ず並立にも非ず次第にも非ず故に理非造作と名く、和尚の云く天真独朗に於ても亦多種有り乃至迹中に明す所の不変真如も亦天真なり、但し大師本意の天真独朗とは三千三観の相を亡し一心一念の義を絶す此の時は解無く行無し教行証の三箇の次第を経るの時・行門に於て一念三千の観を建立す、故に十章の第七の処に於て始めて観法を明す是れ因果階級の意なり、大師内証の伝の中に第三の止観には伝転の義無しと云云、故に知んぬ証分の止観には別法を伝えざることを、今止観の始終に録する所の諸事は皆是れ教行の所摂にして実証の分に非ず、開元符州の玄師相伝に云く言を以て之を伝うる時は行証共に教と成り心を以て之を観ずる時は教証は行の体と成る証を以て之を伝うる時は教行亦不可思議なりと、後学此の語に意を留めて更に忘失すること勿れ宛かも此の宗の本意・立教の元旨なり和尚の貞元の本義源此れより出でたるなり。


問うて云く天真独朗の法・滅後に於て何れの時か流布せしむべきや、答えて云く像法に於て弘通すべきなり、問うて云く末法に於て流布の法の名目如何、答えて云く日蓮の己心相承の秘法此の答に顕すべきなり所謂南無妙法蓮華経是なり、問うて云く証文如何、答えて云く神力品に云く「爾の時・仏・上行等の菩薩に告げたまわく要を以て之を言わば乃至宣示顕説す」云云、天台大師云く「爾時仏告上行の下は第三結要付属なり」又云く「経中の要説・要は四事に在り総じて一経を結するに唯四ならくのみ其の枢柄を撮つて之を授与す」問うて云く今の文は上行菩薩等に授与するの文なり汝何んが故ぞ己心相承の秘法と云うや、答えて云く上行菩薩の弘通し給うべき秘法を日蓮先き立つて之を弘む身に当るの意に非ずや上行菩薩の代官の一分なり、所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり助行には用ゆべきなり正行には唯南無妙法蓮華経なり、伝教大師云く「天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時・日本国に弘通す是れ豈時国相応の仏法に非ずや、末法に入つて天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は必ず無間大城に墜ちんこと疑無し、貴辺年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う真実・時国相応の智人なり総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき所詮時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし。

上に挙ぐる所の法門は御存知為りと雖も書き進らせ候なり、十八円満等の法門能く能く案じ給うべし並びに当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等前前に書き進らせしが如く委くは修禅寺相伝日記の如し天台宗の奥義之に過ぐべからざるか、一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず敢て忘失すること勿れ敢て忘失すること勿れ、伝教大師云く「和尚慈悲有つて一心三観を一言に伝う」玄旨伝に云く「一言の妙旨なり一教の玄義なり」と云云、寿量品に云く「毎に自ら是の念を作す何を以てか衆生をして無上道に入り速に仏身を成就することを得


せしめん」と云云、毎自作是念の念とは一念三千生仏本有の一念なり、秘す可し秘す可し、恐恐謹言。

  弘安三年十一月三日                 日蓮花押

    最蓮房に之を送る

六郎恒長御消息

                    文永元年九月 四十三歳御作

                    与 南部六郎恒長  於安房

所詮念仏を無間地獄と云う義に二つ有り、一には念仏者を無間地獄とは日本国・一切念仏衆の元祖法然上人の選択集に浄土三部を除いてより以外・一代聖教・所謂法華経・大日経・大般若経等・一切大小の経を書き上げて捨閉閣抛等云云、之に付いて上人亀鏡と挙られし処の浄土三部経の其の中に、雙観経・阿弥陀仏の因位・法蔵比丘の四十八願に云く唯五逆と誹謗正法とを除くと云云、法然上人も乃至十念の中には入れ給ふといえども、法華経の門を閉じよと書かれ候へば・阿弥陀仏の本願に漏れたる人に非ずや、其の弟子其の檀那等も亦以て此くの如し、法華経の文には若し人信ぜずして、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らんと云云、阿弥陀仏の本願と法華経の文と真実ならば法然上人は無間地獄に堕ちたる人に非ずや、一切の経の性相に定めて云く師堕つれば弟子堕つ弟子堕つれば檀那堕つと云云、譬えば謀叛の者の郎従等の如し、御不審有らば選択を披見あるべし是一

二には念仏を無間地獄とは法華経の序分・無量義経に云く「方便の力を以て四十年には未だ真実を顕さず」云云、次下の文に云く「無量無辺を過ぐるとも乃至終に無上菩提を成ずることを得じ」云云、仏初成道の時より白鷺池の辺に至るまで年紀をあげ四十余年と指して其の中の一切経を挙ぐる中に大部の経四部・其の四部の中に次に方等十二部経を説くと云云、是れ念仏者の御信用候三部経なり、此れを挙げて真実に非ずと云云、次に法華経