たけのこは百二十本法華経は二千余年にあらわれ候ぬ、布施はかろけれども志重き故なり、当時はくわんのうと申し大宮づくりと申しかたがた民のいとまなし、御心ざし・ふかければ法もあらわれ候にや、恐恐謹言。
五月十一日 日蓮花押
西山殿御返事
西山殿御返事
弘安四年 六十歳御作
あまざけ一をけ・やまのいも・ところせうせう給了んぬ、梵網経と申す経には一紙・一草と申してかみ一枚くさひとつ・大論と申すろんには・つちのもちゐを仏にくやうせるもの閻浮提の王となるよしを・とかれて候。
これは・それには・にるべくもなし・そのうへをとこにもすぎわかれ・たのむかたもなきあまのするがの国・西山と申すところより甲斐国のはきゐの山の中にをくられたり、人にすてられたるひじりの寒さにせめられて・いかに心ぐるしかるらんと・をもひやらせ給いて・をくられたるか、父母にをくれしよりこのかた・かかるねんごろの事にあひて候事こそ候はね、せめての御心ざしに給うかとおぼえてなみだもかきあへ候はぬぞ、日蓮はわるき者にて候へども法華経は・いかでか・おろそかにおわすべき、ふくろはくさけれども・つつめる金はきよし・池はきたなけれどもはちすしやうじやうなり、日蓮は日本第一のえせものなり、法華経は一切経にすぐれ給へる経なり、心あらん人・金をとらんと・おぼさば・ふくろをすつる事なかれ、蓮をあひせば池をにくむ事なかれ、わるくて仏になりたらば法華経の力あらはるべし、よつて臨終わるくば法華経の名をりなん、さるにては日蓮はわるくても・わるかるべし・わるかるべし、恐恐謹言。
月 日 御返事
西山殿御返事
としごろ後生をぼしめして御心ざしをはすれば名計り申し候、同行どもにあらあらきこしめすべし、やすき事なれば智慧の入る事にあらず智慧の入る事にあらず、恐恐。
一月廿三日 日蓮在御判
西山殿御返事
妙心尼御前御返事
建治元年八月 五十四歳御作
すずの御志送り給び候い了んぬ、おさなき人の御ために御まほりさづけまいらせ候、この御まほりは法華経のうちのかんじん一切経のげんもくにて候、たとへば天には日月・地には大王・人には心・たからの中には如意宝珠のたま・いえにははしらのやうなる事にて候。
このまんだらを身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく・子ををやのあいするがごとく・いをの水をたのむがごとく草木のあめをねがうがごとく・とりの木をたのむがごとく・一切の仏神等のあつまり・まほり昼夜に・かげのごとく・まほらせ給う法にて候、よくよく御信用あるべし、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。
八月二十五日 日蓮花押
妙心尼御前御返事
窪尼御前御返事
弘安元年五月 五十七歳御作
粽五把・笋十本・千日ひとつつ給い畢んぬ、いつもの事に候へども・ながあめふりてなつの日ながし、山はふかく・みちしげければ・ふみわくる人も候はぬに・ほととぎすにつけての御ひとこへありがたし・ありがたし。
さてはあつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり、かうのとのは人のいゐしに・つけて・くはしくも・たづねずして此の御房をながしける事あさましと・をぼしてゆるさせ給いてののちは・させるとがもなくてはいかんが・又あだせらるべき、すへの人人の法華経の心にはあだめども・うへにそしらば・いかんがと・をもひて・事にかづけて人をあだむほどに・かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ、これはそらみげうそと申す事はみぬさきよりすいして候、さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ、これにつけても上と国との御ためあはれなり、木のしたなるむしの木をくらひたうし・師子の中のむしの師子を食らいうしなふやうに守殿の御をんにて・すぐる人人が守殿の御威をかりて一切の人人ををどし・なやまし・わづらはし候うへ、上の仰せとて法華経を失いて国もやぶれ主をも失うて返つて各各が身をほろぼさんあさましさよ、日蓮はいやしけれども経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまほらせ給う御経なれば・法華経のかたをあだむ人人は・剣をのみ火を手ににぎるなるべし、これにつけても・いよいよ御信用のまさらせ給う事、たうとく候ぞたうとく候ぞ。
五月三日 日蓮花押
窪尼御返事