Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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十字御書  (2/2) さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ
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事は我等は父母の精血変じて人となりて候へば三毒の根本婬欲の源なり、いかでか仏はわたらせ給うべきと疑い候へども・又うちかへし・うちかへし案じ候へば其のゆわれもやとをぼへ候、蓮はきよきもの泥よりいでたり、せんだんはかうばしき物大地よりをいたり、さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、やうきひは見めよきもの下女のはらよりむまれたり、月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる。

今正月の始に法華経をくやうしまいらせんと・をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ・雪山のせんだんのひらけ・月の始めて出るなるべし、今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずるもの・法華経をかたきとする人の国は体に・かげのそうがごとく・わざわい来るべし、法華経を信ずる人は・せんだんに・かをばしさのそなえたるがごとし、又又申し候べし。

  正月五日                      日蓮在御判

   をもんすどのの女房御返事


南条兵衛七郎殿御書

                    文永元年十二月 四十三歳御作

                    与 南条兵衛七郎

御所労の由承り候はまことにてや候らん、世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あらん人は申すにおよばず・但心あらん人は後世をこそ思いさだむべきにて候へ、又後世を思い定めん事は私にはかなひがたく候、一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。

しかるに仏の教へ又まちまちなり人の心の不定なる故か。

しかれども釈尊の説教・五十年にはすぎず、さき四十余年の間の法門に華厳経には心仏及衆生・是三無差別・阿含経には苦・空・無常・無我・大集経には染浄融通・大品経には混同無二・雙観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽、此等の説教は皆正法・像法・末法の一切衆生をすくはんがためにこそとかれはべりけんめ、しかれども仏いかんがおぼしけん・無量義経に「方便の力を以て四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれて・先四十余年の往生極楽等の一切経は親の先判のごとく・くひかへされて「無量無辺不可思議阿僧祗劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」といゐきらせ給いて・法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨て但無上の道を説く」と説かせ給へり、方便をすてよととかれてはべるは四十余年の念仏等をすてよととかれて候、かうたしかにくひかへして実義を定むるには「世尊の法は久くして後要当に真実を説くべし」といひ「久しく斯の要を黙して務いで速かに説かず」等と定められしかば、多宝仏は大地よりわきいでさせ給いてこの事真実なりと証誠をくわへ、十方の諸仏は八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給ふ、二処・三会・二界・八番の衆生一人もなくこれをみ候いき、此等の文をみ候に仏教を信ぜぬ悪人・外道はさておき候いぬ、仏教の中に入り候ても爾前・権教・念仏等を厚く信じて十遍・百遍・千遍・一万・乃至・六万等を一日にはげみて・十年・二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも


申さぬ人人は・先判に付いて後判をもちゐぬ者にては候まじきか、此等は仏説を信じたりげには我身も人も思いたりげに候へども仏説の如くならば不孝の者なり。

故に法華経の第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す復教詔すと雖も而も信受せず」等云云、此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり、我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師も師にこそよれ・主も主にこそよれ・釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ、この親と師と主との仰せをそむかんもの天神・地祗にすてられ・たてまつらざらんや、不孝第一の者なり故に雖復教詔而不信受等と説かれたり、たとひ爾前の経につかせ給いて百千万億劫・行ぜさせ給うとも・法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば・不孝の人たる故に三世・十方の聖衆にもすてられ天神・地祗にもあだまれ給はんか是一

たとひ五逆・十悪・無量の悪をつくれる人も根だにも利なれば得道なる事これあり、提婆達多・鴦崛摩羅等これなり、たとひ根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり・須利槃特等是なり、我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし、貪瞋癡きわめてあつく十悪は日日にをかし五逆をば・おかさざれども五逆に似たる罪・又日日におかす、又十悪・五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり、させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども・人ごとに法華経をばもちゐず、又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず、信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし、たとへば朝につかふる人の十年・二十年の奉公あれども・君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還