付けて、日本国の王臣万民を一同に罰せんとたくませ給うを、日蓮かねて経論を以て勘へ候いし程に、此れを有りのままに申さば国主もいかり、万民も用ひざる上、念仏者・禅宗・律僧・真言師等定めて忿りをなして・あだを存じ王臣等に讒奏して我が身に大難おこりて、弟子乃至檀那までも少しも日蓮に心よせなる人あらば科になし、我が身もあやうく命にも及ばんずらん、いかが案もなく申し出すべきとやすらひし程に、外典の賢人の中にも世のほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣とて・へつらへる者・不知恩の人なり、されば賢なりし竜逢・比干なんど申せし賢人は、頸をきられ胸をさかれしかども国の大事なる事をばはばからず申し候いき、仏法の中には仏いましめて云く法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人・善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし、譬へば父母を人の殺さんとせんを・子の身として父母にしらせず、王をあやまち奉らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さざらんが・ごとしなんど禁られて候。
されば仏の御使たりし提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭をはねられ、竺の道生は蘇山へ流され、法道は面にかなやきをあてられき、此等は皆仏法を重んじ王法を恐れざりし故ぞかし、されば賢王の時は仏法をつよく立つれば王両方を聞あきらめて勝れ給う智者を師とせしかば国も安穏なり、所謂陳・隋の大王・桓武・嵯峨等は天台智者大師を南北の学者に召し合せ、最澄和尚を南都の十四人に対論せさせて論じかち給いしかば寺をたてて正法を弘通しき、大族王・優陀延王・武宗・欽宗・欽明・用明或は鬼神・外道を崇重し或は道士を帰依し或は神を崇めし故に、釈迦仏の大怨敵となりて身を亡ぼし世も安穏ならず、其の時は聖人たりし僧侶大難にあへり、今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見えたり。
此れを知りながら申さずば縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし、後生を恐れて申すならば流罪・死罪は一定なりと思い定めて去ぬる文応の比・故最明寺入道殿に申し上げぬ、されども用い給う事なかりしか
ば、念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ、されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし、其の後何程もなくして召し返されて後又経文の如く弥よ申しつよる、又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる、日蓮御勘気の時申せしが如くどしうちはじまりぬ、それを恐るるかの故に又召し返されて候、しかれども用ゆる事なければ万民も弥弥悪心盛んなり。
縦ひ命を期として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて、去ぬる文永十一年五月十二日・相州鎌倉を出でて六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず既に五箇年をへたり。
本は房州の者にて候いしが地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿・藤次左衛門入道・一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて・結句は合戦起りて候上・極楽寺殿の御方人理をまげられしかば東条の郡ふせがれて入る事なし、父母の墓を見ずして数年なり、又国主より御勘気二度なり、第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頸を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に頸の座に引きすへられて候いき、いかがして候いけん月の如くにをはせし物・江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頸はのがれぬ、又佐渡の国にて・きらんとせし程に日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ、使はしり下りて頸をきらず・結句はゆるされぬ、今は此の山に独りすみ候。
佐渡の国にありし時は里より遙にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし、然れども我が根本より持ちまいらせて候・教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり蓑をき笠をさ
して居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり、彼の蘇武が胡国に・とめられて十九年が間・蓑をき雪を食としてありしが如し。
今又此山に五箇年あり、北は身延山と申して天にはしだて・南は・たかとりと申して鶏足山の如し、西はなないたがれと申して鉄門に似たり・東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり、四の山は屏風の如し、北に大河あり早河と名づく早き事・箭をいるが如し、南に河あり波木井河と名づく大石を木の葉の如く流す、東には富士河北より南へ流れたりせんのほこをつくが如し内に滝あり身延の滝と申す白布を天より引くが如し此の内に狭小の地あり日蓮が庵室なり深山なれば昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし峯にははかうの猨かまびすしく谷には波の下る音鼓を打つがごとし地にはしかざれども大石多く山には瓦礫より外には物もなし国主はにくみ給ふ万民はとぶらはず冬は雪道を塞ぎ夏は草をひしげり鹿の遠音うらめしく蝉の鳴く声かまびすし訪う人なければ命もつぎがたしはだへをかくす衣も候はざりつるにかかる衣ををくらせ給えるこそいかにとも申すばかりなく候へ。
見し人聞きし人だにも・あはれとも申さず、年比なれし弟子・つかへし下人だにも皆にげ失とぶらはざるに聞きもせず見もせぬ人の御志哀なり、偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか、十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか、唐の代宗皇帝の代に蓬子将軍と申せし人の御子・李如暹将軍と申せし人勅定を蒙りて北の胡地を責めし程に、我が勢数十万騎は打ち取られ胡国に生け取られて四十年漸くへし程に、妻をかたらひ子をまうけたり、胡地の習い生取をば皮の衣を服せ毛帯をかけさせて候が、只正月一日計り唐の衣冠をゆるす、一年ごとに漢土を恋いて肝をきり涙をながす、而る程に唐の軍おこりて唐の兵・胡地をせめし時・ひまをえて胡地の妻子をふりすてて・にげしかば、唐の兵は胡地の・えびすとて捕へて頸をきらんとせし程に、とかうして徳宗皇帝