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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (42/43) 難来るを以て安楽と意得可きなり
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       安楽行品五箇の大事

第一 安楽行品の事

御義口伝に云く妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり

第二 一切法空の事

御義口伝に云く此下に於て十八空之有り十八空の体とは南無妙法蓮華経是なり十八空は何れも妙法の事なり。

第三 有所難問不以小乗法答等の事

御義口伝に云く対治の時は権教を以て会通す可からず。

一切種智とは南無妙法蓮華経なり一切は万物なり種智は万物の種なり妙法蓮華経是なり、又云く一切種智とは我等が一心なり一心とは万法の惣体なり之を思う可し。

第四 無有怖畏加刀杖等の事

御義口伝に云く迹化の菩薩に刀杖の難之れ有る可からずと云う経文なり、勧持品は末法法華の行者に及加刀杖者数数見擯出と此の品には之無し、彼は末法の折伏の修行此の品は像法摂受の修行なるが故なり云云。第五有人来欲難問者諸天昼夜等の事御義口伝に云く末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり。

       涌出品一箇の大事


第一 唱導之師の事

御義口伝に云く涌出の一品は悉く本化の菩薩の事なり、本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり此れを唱と云うなり導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり、末法の導師とは本化に限ると云うを師と云うなり、此の四大菩薩の事を釈する時、疏の九を受けて輔正記の九に云く「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際を踰ゆるを無辺行と称し五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰うなり」と今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり、又云く火は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり、四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり、此の四菩薩は下方に住する故に釈に「法性之淵底玄宗之極地」と云えり、下方を以て住処とす下方とは真理なり、輔正記に云く「下方とは生公の云く住して理に在るなり」と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり、又云く千草万木・地涌の菩薩に非ずと云う事なし、されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず、此の本法の体より用を出して止観と弘め一念三千と云う、惣じて大師人師の所釈も此の妙法の用を弘め給うなり、此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云。

御義口伝巻上

  弘安元年戊寅正月一日                執筆 日興


御義口伝巻下

          日蓮所立自寿量品至開結二経

       寿量品廿七箇の大事

第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事

文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。

御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。

第二 如来秘密神通之力の事

御義口伝に云く無作三身の依文なり、此の文に於て重重の相伝之有り、神通之力とは我等衆生の作作発発と振