のちごに・とらせよとありしかば・ちごはしりをりて・なわをときけり、大はしの太郎は・わが子ともしらず・いかなる事ゆへに・たすかるともしらざりけり、さて大将殿又めして・このちごに・やうやうの御ふせたびて・ををはしの太郎をたぶのみならず、本領をも安堵ありけり。
大将殿をほせありけるは法華経の御事は昔よりさる事とわききつたへたれども・丸は身にあたりて二つのゆへあり、一には故親父の御くびを大上入道に切られてあさましとも・いうばかりなかりしに、いかなる神・仏にか申すべきと・おもいしに走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ千部と申せし時、たかをのもんがく房をやのくびをもて来りて・みせたりし上・かたきを打つのみならず・日本国の武士の大将を給いてあり、これひとへに法華経の御利生なり、二つには・このちごが・をやをたすけぬる事不思議なり、大橋の太郎というやつは頼朝きくわいなりとをもう・たとい勅宣なりとも・かへし申して・くびをきりてん、あまりのにくさにこそ十二年まで・土のろうには入れてありつるに・かかる不思議あり、されば法華経と申す事はありがたき事なり、頼朝は武士の大将にて多くのつみを・つもりてあれども法華経を信じまいらせて候へば・さりともと・こそをもへと・なみだぐみ給いけり。
今の御心ざしみ候へば故なんでうどのは・ただ子なれば・いとをしとわ・をぼしめしけるらめども・かく法華経をもて我がけうやうをすべしとは・よもをぼしたらじ、たとひつみありて・いかなるところに・おはすとも・この御けうやうの心ざしをば・えんまほうわう・ぼんでん・たひしやく・までも・しろしめしぬらん、釈迦仏・法華経もいかでか・すてさせ給うべき、かのちごのちちのなわを・ときしと・この御心ざし・かれにたがわず、これはなみだをもちて・かきて候なり。
又むくりのおこれるよし・これにはいまだうけ給わらず、これを申せば日蓮房はむくり国のわたるといへば・よろこぶと申すこれゆわれなき事なり、かかる事あるべしと申せしかば・あだがたきと人ごとにせめしが・経文かぎ
りあれば来るなり・いかにいうとも・かなうまじき事なり、失もなくして国をたすけんと申せし者を用いこそあらざらめ、又法華経の第五の巻をもつて日蓮がおもてをうちしなり、梵天・帝釈・是を御覧ありき、鎌倉の八幡大菩薩も見させ給いき、いかにも今は叶うまじき世にて候へば・かかる山中にも入りぬるなり、各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり、御信用の上にも力もをしまず申させ給え、あえてこれよりの心ざしのゆわきにはあらず、各各の御信心のあつくうすきにて候べし、たいしは日本国のよき人人は一定いけどりにぞなり候はんずらん、あらあさましや・あさましや、恐恐謹言。
後三月二十四日 日蓮花押
南条殿御返事
九郎太郎殿御返事
建治二年九月 五十五歳御作
いゑの芋一駄・送り給び候、こんろん山と申す山には玉のみ有りて石なし、石ともしければ玉をもつて石をかう、はうれいひんと申す浦には木草なし・いをもつて薪をかう、鼻に病ある者はせんだん香・用にあらず、眼なき者は明なる鏡なにかせん。
此の身延の沢と申す処は甲斐国・波木井の郷の内の深山なり、西には七面のかれと申す・たけあり・東は天子のたけ・南は鷹取のたけ・北は身延のたけ・四山の中に深き谷あり・はこのそこのごとし、峯にははこうの猨の音かまびすし、谷にはたいかいの石多し。
然れどもするがのいものやうに候石は一も候はず、いものめづらしき事くらき夜のともしびにもすぎ・かはけ
る時の水にもすぎて候ひき、いかに・めづらしからずとは・あそばされて候ぞ、されば其には多く候か・あらこひしあらこひし、法華経・釈迦仏にゆづりまいらせ候いぬ、定めて仏は御志をおさめ給うなれば御悦び候らん、霊山浄土へまひらせ給いたらん時・御尋ねあるべし、恐恐謹言。
建治二年丙子九月十五日 日蓮花押
九郎太郎殿御返事
本尊供養御書
建治二年十二月 五十五歳御作
与 南条平七郎
法華経御本尊御供養の御僧膳料の米一駄・蹲鴟一駄・送り給び候い畢んぬ、法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり、譬えば金粟王と申せし国王は沙を金となし・釈摩男と申せし人は石を珠と成し給ふ、玉泉に入りぬる木は瑠璃と成る・大海に入りぬる水は皆鹹し、須弥山に近づく鳥は金色となるなり、阿伽陀薬は毒を薬となす、法華経の不思議も又是くの如し凡夫を仏に成し給ふ、蕪は鶉となり・山の芋はうなぎとなる・世間の不思議以て是くの如し。
何に況や法華経の御力をや、犀の角を身に帯すれば大海に入るに水・身を去る事五尺、栴檀と申す香を身にぬれば大火に入るに焼くること無し、法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず、法華経の第七に云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」等云云、事多しと申せども年せまり御使急ぎ候へば筆を留候い畢んぬ。
建治二年丙子十二月 日 日蓮花押
南条平七郎殿御返事