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日蓮大聖人・池田大作

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祈祷経送状  (1/2) 御山籠の御志しの事、凡そ末法折伏の行に背く…
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祈祷経送状

                    文永十年正月 五十二歳御作

                    与 最蓮房日浄

御礼の旨委細承はり候畢んぬ、兼ては又末法に入つて法華経を持ち候者は三類の強敵を蒙り候はん事は面拝の時大概申し候畢んぬ、仏の金言にて候上は不審を致すべからず候か、然らば則日蓮も此の法華経を信じ奉り候て後は或は頭に疵を蒙り或は打たれ或は追はれ或は頸の座に臨み或は流罪せられ候し程に結句は此の嶋まで遠流せられ候ぬ。

何なる重罪の者も現在計りこそ罪科せられ候へ、日蓮は三世の大難に値い候ぬと存し候、其の故は現在の大難は今の如し、過去の難は当世の諸人等が申す如くば、如来在世の善星・倶伽利等の大悪人が重罪の余習を失せずして如来の滅後に生れて是くの如く仏法に敵をなすと申し候是なり、次に未来の難を申し候はば当世の諸人の部類等・謗じ候はん様は此の日蓮房は存在の時は種種の大難にあひ・死門に趣むくの時は自身を自ら食して死る上は定めて大阿鼻地獄に墜在して無辺の苦を受くるらんと申し候はんずるなり、古より已来世間出世の罪科の人・貴賤・上下・持戒・毀戒・凡聖に付けて多く候へども但其は現在計りにてこそ候に・日蓮は現在は申すに及ばす過去・未来に至るまで三世の大難を蒙り候はん事は只偏に法華経の故にて候なり、日蓮が三世の大難を以て法華経の三世の御利益を覚し食され候へ、過去久遠劫より已来・未来永劫まで妙法蓮華経の三世の御利益尽くすべからず候なり、日蓮が法華経の方人を少分仕り候だにも加様の大難に遭い候、まして釈尊の世世・番番の法華経の御方人を思い遣りまいらせ候に道理申す計りなくこそ候へ、されば勧持品の説相は暫時も廃せず殊更殊更貴く覚え候。

御山籠の御志しの事、凡そ末法折伏の行に背くと雖も病者にて御座候上・天下の災・国土の難・強盛に候はん時・我が身につみ知り候はざらんより外は・いかに申し候とも・国主信ぜられまじく候へば・日蓮尚籠居の志候、ま


して御分の御事はさこそ候はんずらめ、仮使山谷に籠居候とも御病も平癒して便宜も吉候はば身命を捨て弘通せしめ給ふべし。

一仰せを蒙りて候末法の行者・息災延命の祈祷の事、別紙に一巻註し進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらるべく候、日蓮も信じ始め候し日より毎日此れ等の勘文を誦し候て仏天に祈誓し候によりて、種種の大難に遇うと雖も法華経の功力釈尊の金言深重なる故に今まで相違無くて候なり、其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり。

一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云、権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり、彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に墜す、正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑い無き故なり、但今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰し給う故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり、尤も比丘と成つては権宗の人すら尚然る可し況や正法の行人をや、仮使権宗の時の妻子なりともかかる大難に遇はん時は振捨て正法を弘通すべきの処に地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し、相構え相構え向後も夫妻等の寄来とも遠離して一身に障礙無く国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉る可き者なり、猶猶向後は此の一巻の書を誦して仏天に祈誓し御弘通有る可く候但此の書は弘通の志有らん人に取つての事なり、此の経の行者なればとて器用に能はざる者には左右無く之を授与すべからず候か、穴賢穴賢、恐恐謹言。

  文永十年癸酉正月二十八日              日蓮花押

   最蓮房御返事


諸法実相抄

                    文永十年五月 五十二歳御作

                           与 最蓮房日浄

                    日蓮之を記す

問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付属なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・