華経の要よりの外の広・略二門並びに前後の一代の一切経を此等の大士に付属す正像二千年の機の為なり、其の後涅槃経の会に至つて重ねて法華経並びに前四味の諸経を説いて文殊等の諸大菩薩に授与したもう、此等は捃拾の遺属なり。
爰を以て滅後の弘経に於ても仏の所属に随つて弘法の限り有り然れば則ち迦葉・阿難等は一向に小乗経を弘通して大乗経を申べず、竜樹・無著等は権大乗経を申べて一乗経を弘通せず、設い之を申べしかども纔かに以て之を指示し或は迹門の一分のみ之を宣べて全く化道の始終を談ぜず、南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・権実・迹本二門・化道の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ其の上に已今当の三説を立てて一代超過の由を判ぜること天竺の諸論にも勝れ真丹の衆釈にも過ぎたり旧訳・新訳の三蔵も宛かも此の師には及ばず、顕密二道の元祖も敵対に非ず、然りと雖も広略を以て本と為して未だ肝要に能わず・自身之を存すと雖も敢て他伝に及ばず・此れ偏に付属を重んぜしが故なり、伝教大師は仏の滅後一千八百年像法の末に相当つて日本国に生れて小乗大乗一乗の諸戒一一に之を分別し梵網・瓔珞の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し又法華普賢の円頓の大王の戒を以て諸大乗経の臣民の戒を責め下す、此の大戒は霊山八年を除いて一閻浮提の内に未だ有らざる所の大戒場を叡山に建立す、然る間八宗共に偏執を倒し一国を挙げて弟子と為る、観勒の流の三論・成実・道昭の渡せる法相・倶舎・良弁の伝うる所の華厳宗・鑒真和尚の渡す所の律宗・弘法大師の門弟等誰か円頓の大戒を持たざらん此の義に違背するは逆路の人なり、此の戒を信仰するは伝教大師の門徒なり日本一州・円機純一・朝野遠近・同帰一乗とは是の謂か、此の外は漢土の三論宗の吉蔵大師並びに一百余人・法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり、経に於ては大小・権実の旨を弁えず顕・密両道の趣を知らず論に於ては通申と別申とを糾さず申と不申とを暁めず、然りと雖も彼の
宗宗の末学等此の諸師を崇敬して之を聖人と号し之を国師と尊ぶ今先ず一を挙げんに万を察せよ。
弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等に云く「此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論と作る」又云く「無明の辺域」又云く「震旦の人師等諍つて醍醐を盗み各自宗に名く」等云云、釈の心は法華の大法を華厳と大日経とに対して・戯論の法と蔑り無明の辺域と下し・剰え震旦一国の諸師を盗人と罵る、此れ等の謗法・謗人は慈恩・得一の三乗真実・一乗方便の誑言にも超過し善導・法然が千中無一・捨閉閣抛の過言にも雲泥せるなり、六波羅蜜経をば唐の末に不空三蔵月氏より之を渡す後漢より唐の始めに至るまで未だ此の経有らず南三北七の碩徳未だ此の経を見ず三論・天台・法相・華厳の人師誰人か彼の経の醍醐を盗まんや、又彼の経の中に法華経は醍醐に非ずというの文之有りや不や、而るに日本国の東寺の門人等堅く之を信じて種種に僻見を起し非より非を増し・暗より暗に入る不便の次第なり。
彼の門家の伝法院の本願たる正覚の舎利講式に云く「尊高なる者は不二摩訶衍の仏・驢牛の三身は車を扶くること能ず秘奥なる者は両部曼陀羅の教・顕乗の四法の人は履をも取るに能えず」云云、三論・天台・法相・華厳等の元祖等を真言の師に相対するに牛飼にも及ばず力者にも足らずと書ける筆なり、乞い願わくは彼の門徒等心在らん人は之を案ぜよ大悪口に非ずや大謗法に非ずや、所詮此等の誑言は弘法大師の望後作戯論の悪口より起るか、教主釈尊・多宝・十方の諸仏は法華経を以て已今当の諸説に相対して皆是真実と定め然る後世尊は霊山に隠居し多宝諸仏は各本土に還りたまいぬ、三仏を除くの外誰か之を破失せん。
就中弘法所覧の真言経の中に三説を悔い還すの文之有りや不や、弘法既に之を出さず末学の智・如何せん而るに弘法大師一人のみ法華経を華厳・大日の二経に相対して戯論・盗人と為す所詮釈尊・多宝・十方の諸仏を以て盗人と称するか末学等眼を閉じて之を案ぜよ。
問うて曰く昔より已来未だ曾て此くの如きの謗言を聞かず何ぞ上古清代の貴僧に違背して寧ろ当今濁世の愚侶を帰仰せんや、答えて曰く汝が言う所の如くば愚人は定んで理運なりと思わんか然れども此等は皆人の偽言に因つて如来の金言を知らざるなり、大覚世尊・涅槃経に滅後を警めて言く「善男子・我が所説に於て若し疑を生ずる者は尚受くべからず」云云、然るに仏尚我が所説なりと雖も不審有らば之を叙用せざれとなり、今予を諸師に比べて謗難を加う、然りと雖も敢て私曲を構えず専ら釈尊の遺誡に順つて諸人の謬釈を糾すものなり。
夫れ斉の始めより梁の末に至るまで二百余年の間南北の碩徳光宅・智誕等の二百余人涅槃経の「我等悉名邪見之人」の文を引いて法華経を以て邪見之経と定め一国の僧尼並びに王臣等を迷惑せしむ、陳隋の比智者大師之を糾明せし時始めて南北の僻見を破り了んぬ、唐の始めに太宗の御宇に基法師・勝鬘経の「若如来随彼所欲而方便説・即是大乗無有二乗」の文を引いて一乗方便・三乗真実の義を立つ此の邪義・震旦に流布するのみに非ず、日本の得一が称徳天皇の御時盛んに非義を談ず、爰に伝教大師悉く彼の邪見を破し了んぬ、後鳥羽院の御代に源空法然・観無量寿経の読誦大乗の一句を以て法華経を摂入し「還つて称名念仏に対すれば雑行方便なれば捨閉閣抛せよ」等云云。
然りと雖も五十余年の間・南都・北京・五畿・七道の諸寺・諸山の衆僧等・此の悪義を破ること能はざりき予が難破分明為るの間・一国の諸人忽ち彼の選択集を捨て了んぬ根露るれば枝枯れ源乾けば流竭くとは蓋し此の謂なるか、加之ならず唐の半玄宗皇帝の御代に善無畏・不空等大日経の住心品の如実一道心の一句に於て法華経を摂入し返つて権経と下す、日本の弘法大師は六波羅蜜経の五蔵の中に第四の熟蘇味の般若波羅蜜蔵に於て法華経涅槃経等を摂入し第五の陀羅尼蔵に相対して争つて醍醐を盗む等云云、此等の禍咎は日本一州の内四百余年今に未だ之を糾明せし人あらず予が所存の難勢徧く一国に満つ必ず彼の邪義を破られんか此等は且らく之を止む。