今は一こうなり・いかなる大難にも・こらへてんと我が身に当てて心みて候へば・不審なきゆへに此の山林には栖み候なり、各各は又たとい・すてさせ給うとも一日かたときも我が身命をたすけし人人なれば・いかでか他人にはにさせ給うべき、本より我一人いかにもなるべし・我いかにしなるとも心に退転なくして仏になるならば・とのばらをば導きたてまつらむとやくそく申して候いき、各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上俗なり、所領あり・妻子あり・所従あり・いかにも叶いがたかるべし、只いつわりをろかにて・をはせかしと申し候いき・こそ候へけれ、なに事につけてか・すてまいらせ候べき・ゆめゆめをろかのぎ候べからず。
又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり。
而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず、其の故は仏制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆへなり、日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり、而るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候、各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし。
又うつぶさの御事は御としよらせ給いて御わたりありしいたわしくをもひまいらせ候いしかども・うぢがみへ
まいりてあるついでと候しかば・けさんに入るならば・定めてつみふかかるべし、其の故は神は所従なり法華経は主君なり・所従のついでに主君への・けさんは世間にも・をそれ候、其の上尼の御身になり給いては・まづ仏をさきとすべし、かたがたの御とがありしかばけさんせず候、此の又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人人も・しもべのゆのついでと申す者をあまた・をひかへして候、尼ごぜんは・をやのごとくの御としなり、御なげきいたわしく候いしかども此の義をしらせまいらせんためなり。
又とのは・をととしかのけさんの後そらごとにてや候いけん御そらうと申せしかば・人をつかわして・きかんと申せしに・此の御房たちの申せしはそれはさる事に候へども・人をつかわしたらば・いぶせくやをもはれ候はんずらんと申せしかば・世間のならひは・さもやあるらむ、げんに御心ざしまめなる上・御所労ならば御使も有りなんと・をもひしかども・御使もなかりしかば・いつわりをろかにて・をぼつかなく候いつる上無常は常のならひなれども・こぞことしは世間はうにすぎて・みみへまいらすべしとも・をぼへず、こひしくこそ候いつるに御をとづれあるうれしとも申す計りなし、尼ごぜんにも・このよしをつぶつぶとかたり申させ給い候へ、法門の事こまごまと・かきつへ申すべく候へども事ひさしくなり候へばとどめ候。
ただし禅宗と念仏宗と律宗等の事は少少前にも申して候、真言宗がことに此の国とたうどとをば・ほろぼして候ぞ、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師・此の六人が大日の三部経と法華経との優劣に迷惑せしのみならず、三三蔵・事をば天竺によせて両界をつくりいだし狂惑しけるを・三大師うちぬかれて日本へならひわたし国主並に万民につたへ、漢土の玄宗皇帝も代をほろぼし・日本国もやうやくをとろへて八幡大菩薩の百王のちかいもやぶれて・八十二代隠岐の法王・代を東にとられ給いしは・ひとへに三大師の大僧等がいのりしゆへに還著於本人して候、関東は此の悪法悪人を対治せしゆへに十八代をつぎて百王にて候べく候いつる
を、又かの悪法の者どもを御帰依有るゆへに一国には主なければ・梵釈・日月・四天の御計いとして他国にをほせつけて・をどして御らむあり、又法華経の行者をつかわして御いさめあるを・あやめずして・彼の法師等に心をあわせて世間出世の政道をやぶり、法にすぎて法華経の御かたきにならせ給う、すでに時すぎぬれば此の国やぶれなんとす。
やくびやうはすでにいくさにせんふせわまたしるしなり、あさまし・あさまし。
二月二十三日 日蓮花押
みさわどの
十字御書
十字一百まい・かしひとこ給い了んぬ、正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にもあいせられ候なり。
抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし、仏と申す事も我等の心の内にをはします・譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ、ただし疑ある