べき功徳によりて天もすてがたし地もわれず・ついに地獄にをちずして仏になり給いき、とのも又かくのごとし・兄弟にもすてられ同れいにも・あだまれ・きうだちにもそばめられ日本国の人にも・にくまれ給いつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の子丑の時・日蓮が御勘気をかほりし時・馬の口にとりつきて鎌倉を出でてさがみのえちに御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか、仏にならせ給はん事も・かくのごとし、いかなる大科ありとも法華経をそむかせ給はず候いし、御ともの御ほうこうにて仏にならせ給うべし、例せば有徳国王の覚徳比丘の命にかはりて釈迦仏とならせ給いしがごとし、法華経はいのりとはなり候いけるぞ。
あなかしこ・あなかしこ、いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ、御一門の御房たち又俗人等にも・かかるうれしき事候はず、かう申せば今生のよくとをぼすか、それも凡夫にて候へば・さも候べき上慾をも・はなれずして仏になり候ける道の候けるぞ、普賢経に法華経の肝心を説きて候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「煩悩即菩提・生死即涅槃」等云云、竜樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれて・いみじきやうを釈して云く「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」等云云、「小薬師は薬を以て病を治す大医は大毒をもつて大重病を治す」等云云。
弘安元戊寅年十月 日 日蓮花押
四条金吾殿御返事
四条金吾殿御返事
弘安元年十月 五十七歳御作
今月二十二日・信濃より贈られ候いし物の日記・銭三貫文・白米能米俵一・餅五十枚・酒大筒一・小筒一・串柿五把・柘榴十、夫れ王は民を食とし民は王を食とす衣は寒温をふせぎ食は身命をたすく、譬ば油の火を継ぎ水の魚を助くるが如し、鳥は人の害せん事を恐れて木末に巣くふ、然れども食のために地にをりてわなにかかる、魚は淵の底に住みて浅き事を悲しみて穴を水の底に掘りて・すめども餌にばかされて鉤をのむ、飲食と衣薬とに過ぎたる人の宝や候べき。
而るに日蓮は他人にことなる上・山林の栖・就中今年は疫癘飢渇に春夏は過越し秋冬は又前にも過ぎたり、又身に当りて所労大事になりて候つるをかたがたの御薬と申し小袖・彼のしなじなの御治法にやうやう験し候て今所労平愈し本よりも・いさぎよくなりて候、弥勒菩薩の瑜伽論・竜樹菩薩の大論を見候へば定業の者は薬変じて毒となる法華経は毒変じて薬となると見えて候、日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば天魔競ひて食をうばはんとするかと思いて歎かず候いつるに今度の命たすかり候は偏に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か。
是はさてをきぬ、今度の御返りは神を失いて歎き候いつるに事故なく鎌倉に御帰り候事悦びいくそばくぞ、余りの覚束なさに鎌倉より来る者ごとに問い候いつれば或人は湯本にて行き合せ給うと云い或人はこうづにと或人は鎌倉にと申し候いしにこそ心落居て候へ、是より後はおぼろげならずば御渡りあるべからず大事の御事候はば御使にて承わり候べし、返す返す今度の道は・あまりに・おぼつかなく候いつるなり、敵と申す者はわすれさせ
てねらふものなり、是より後に若やの御旅には御馬をおしましませ給ふべからず、よき馬にのらせ給へ、又供の者ども・せんにあひぬべからんもの又どうまろもちあげぬべからん・御馬にのり給うべし、摩訶止観第八に云く弘決第八に云く「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云、神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候、法華経はよきつるぎなれども・つかう人によりて物をきり候か。
されば末法に此の経を・ひろめん人人・舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と此等程の人やは候べき、二乗は見思を断じて六道を出でて候・菩薩は四十一品の無明を断じて十四夜の月の如し、然れども此等の人人には・ゆづり給はずして地涌の菩薩に譲り給へり、されば能く能く心をきたはせ給うにや、李広将軍と申せし・つはものは虎に母を食れて虎に似たる石を射しかば其の矢羽ぶくらまでせめぬ、後に石と見ては立つ事なし、後には石虎将軍と申しき、貴辺も又かくのごとく敵は・ねらふらめども法華経の御信心強盛なれば大難も・かねて消え候か、是につけても能く能く御信心あるべし、委く紙には尽しがたし、恐恐謹言。
弘安元年戊寅後十月二十二日 日蓮花押
四条左衛門殿御返事