Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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大正七年  

若き日の手記・獄中記(戸田城聖)

前後
1  大正七年度の新春はここに明けた。
 (小)合資会社で年を越す事数年、希望は動脈に満てる鮮血に充満し、前途遥かの道程を見返れば意気軒昂、心臓の高鳴るのを覚えて病軀を思わず。はや一日も早く癒して自己前途の為に、日本帝国の為に、東洋の為に、大いに奮うべき土台の作製に腐心すべきなり。
 西郷南州閣下 哀世凱閣下 雨宮敬次郎翁
 三方に自己は大日本帝国の為、大日本国の為は東洋の保安の為なれば、自己の志をはなさしめ給えとねがうたり。
 戸田睛通  二十歳
 大いに奮うべく覚悟した。
 本年は国家を忘れず、しこうして独立独歩たるべし。
  (大正七年一月一日)
2  自分も男と生まれて社会に出て、大いに国家の為、東洋の為に、奮うべき身だと思っている。
 国家の為、東洋の為に、己れの家を興さずばならない身だ。
 ただ前途あって今日無きがあたりまえだ。しかるに現在は残念なるかな、無念なるかな、婦女子と言う観念が自分の身いな頭にある。残念だ。恋でないぞ。ただ加代さんの親切が気になるのだ。気にせぬが偉かろうか知らねども、未だこの方面うとい身には気になって仕様がない。
 しかし自分も天下に心身を磨いて世界的人物ならざるべからざる身だ。よし捨てるぞ、捨てずして可なるべきか邪念を。女がなんだ、戸田睛通は男である。捨てる、捨てる、捨てる、思うまい。汝、天下の男子たるべきを知れ。
   (大年七年一月九日)
 ☆たぶん、戸田にとって加代さんとは、初恋らしき感情をもった女性と思われる。女性のために前途をあやまってはいけないと、自らを律することにきびしい。
3  この二十日が退院すべき日だ。戸田晴通は何時まで弱き身の人間ではない。心身ともに強かるべきはずだ。
 前途に大を積まねばならぬ人間だ。それを、この病軀と思っては一日もこうして寝ていられぬ。しかし自分の病気は遠からず全快すると思っているから何も気にしていない。心身を強くして「大いにやる」。身も永くとも二月中には元来の体軀以上を得るだろう、心もだ。天に誓って強く店務以外だ。自己の修養はもちろん、知識の吸収は言うに及ばず、人との交際間における呼吸、ありとあらゆるもの、戸田睛通を生かす限りのものはこれを食して、未来ある前途に進むべきである。
 彼女の一家に対して受けし恩義に酬ゆる一部として誠心幸あれかしと計るべきの外、恋その外の事は必ず持つべからず。彼女が自分の理想たるやいなやにかかわらず、自分は未だその事には五年ないし十年早い。
 彼女の親切及び厚意がどのへんにあるかを知らず、自己に対しての行動が自己が大いに感謝せざるべからざるを知る。しかしその故に自分は、その親切に対して礼の心が恋そのものに変化するには、おしむらくは未だ六年以上年が不足だ。自分も大なる責任のある身だし、未だ学もならぬ十九歳の鼻たらしだ。生意気だし、そのような精神では成功も問題だ。
 大いに考慮すべき点だ。考慮したあげくが、断然この事を脳中より去る。そして彼の一家に対して清く受けし恩義に対して報ゆる。ただし五年後か十年後か三十年後か知らぬが今の自分にそれだけの覚悟が充分ある。今はただ一念、戸田晴通を作るにありと。前途は遼遠、かく解したら大いに覚悟して進むべきである。心中を腹蔵なく書す。
   (大正七年一月十六日)
4  本日、仙場病院を退院す。往時茫々か。顧望すれば、四か月百十余日の病院生活。病、ここに癒えしかと思えば、また、快感の起こるを感ず。
 ここに誓う。天地、兄上に。
 男子として自己の、職責に忠、勉学また熱心、前途また失わず。万事に懸命たるべきこと。
 天地の正道を踏むべし。
 ねがう、ために身体を、自己の志をなし遂げる暁まで、大強壮たらしめよ。しかして、志すは、決して自己一身の為ならず、東洋の為、帝国の為、または、青年の養成にあるなり。
   (大正七年一月二十四日)
 ☆退院を期して誓いをたてた。美濃紙に毛筆で黒々と書き、印鑑まで捺印してある。
5  自分は人間として男として社会に出でた以上は、女性に対して特別の感情を抱くことを許されよ。加代さんに対してである。自分としては、今日は女如きを思うのときではない。ただ今は、主人大切に自己の天職を思うて進むのみだ。
 女……加代さん……。神野君の話が多分偽りにしてもまた事実でも全部偽りたるに関せず、自分は捨てた、立派に捨てた。
 五尺有余の男子正に前途を誤らんとす。女如きの力をるべきや。加代さんだってだ。捨てたぞ。天下戸田の腕たるは五尺有余の体軀に漲る意気か。天下事なす、ただ意気あるのみだ。戸田の責任は重い、大いに重い。女を思うの秋ではなく、思想のまたその精神状態及び性質において、また我が理想にあらざる女を、我れは何故かくも神野君の言によりて心を左右されるのか。
 捨てろ、まだ早い。彼女がまた汝の理想にあらざるにあらずや。しかし、生田さんのお母さんに対しての好意を一生忘れるなよ。
 お母さんには必ず恩を報いよ、戸田睛通よ。
 方事兄上様に任す。
   (大正七年二月二十日)
 ☆これも手紙風の手記。あて名は外吉となっている。
6  自分は人である。愛を知らぬわけはない。自分は男である。恋を知らぬわけはない。しかして月給取りの身であれば、浮き世を知らぬわけはまたない。天下の青衿士を以って任ずる身でもあれば、前途を考えぬわけではない。自分は人間らしく愛もあれば恋もある。浮き世もあれば前途も未来もあるつもりだ。しかし自己の現在はそんなのんきな時代であろうか。いやいや、恋は捨て、顧るな。愛も情もまた何かせん。いや浮き世も屁の河童と暮らさねばならん時代なのだ。
 ただ前途未来の為と暮らさねばならん時代なのだ。だから、一番奮躍奮進せねばならん時代なのである。
 こう思う時、僕の頭には、恋も愛も浮き世もない、前途未来の大計で一杯になるのである。もとより自分天下の男子であるから、恋も愛も浮き世も大したものではないが、豪傑英達の士もとより涙なしとせぬ。子供の無邪気な愛らしさに遇うては、心冷たき人の子、鬼の子と化し去る事はとてもできない。
   (大正七年三月)
7  自分を今日つらつら思うた。自分も男子として生を日本国にうけた国民、日本の国民として大日本国の前途、東洋の前途を案ずる。案ずるとともに事業を天下になして東洋及び日本国の為に西郷翁、伊藤翁の如く、いな、第二の大西郷たり、博文公たりとして、国家の為に尽くさんと、人には語らず、胸中に抱懐しておるが、かく大人たらんとするに、北海道が修業の場所なり、奮健の場所たらんか、いな北海道は辺地なり。伊達政宗を見よ、武田信玄、上杉謙信公を見よ、いな観思せよ。あたら英雄辺地にありしばかりに、一は仙台が埋木となり、一は信山の陰が土となり、一は北越の雪と消ゆ。
 それ一つに地の利にある。我れ志を抱く、これ世界的たらんとす。しかるに北海道、世界相手たらんには辺地なり。よろしく座を阪神とすべし。阪神の地これ商工の中心、支那に近く、南洋の通路またあり、天下の形勢に通ぜん。またよし支那の雲風以って見るべし、以って乗ずべし。治国の日本、乱国の支那、前途多忙多望の東洋、我れ未だ若し。大いに学び以って東洋の中堅たらん、東洋以って背負わん。今ここに一年半、以ってただ学ぶにあり、前途なさん事多し。
 また奮うべきかな。
  屍をよしや他山にさらすとも
  恥を知れるの男子たるべし
    (大正七年三月十八日)
8  自分は大阪へ行かれなくなった。それは生田様に、是非援助を与えなければならぬ様になったからだ。自分は生田様に、非常に世話になっている。報恩せねばならぬ。報恩すべき時節当来、報恩すべき時節に報恩せずして、畜生となりたくない。
 自分も男だし、義侠心がある。国忠侠桜桃と言う名に対しても、人様の難儀や悪い事を見過ごしたくない。戸田睛通は報恩せねばならず、国忠侠桜桃は人の弱さを援けねば。万難を排して援助の約束をしてしまった。直ちにその足を以って(小)より病気を申し立てて閑をとり、小樽へ飛び、その足で厚田へ帰って最後の別離を人知れずして札幌へ帰った。
 さあ、今後は、生田様の家を興さずば、男が立たぬ。
   (大正七年四月二十一日)
 ☆生田家の実家は、小樽にあったと思われる。その実家が事業に失敗し、戸田は報恩のために再興を決心する。しかし、はっきりはしないが、周囲の事情により、なし得なかったようだ。このころ、何度も小樽に足を運んでいる。
9  これから他の畑を開かねばならぬ、よき実をとらねばならん。自重一番兄上様のご意見にしたがいて自分の身の続く限り奮闘し、生田の家を興さねばならん。何とぞ兄上様よ、時代のくるまで、身の壮健なる様にして下され。二十三歳までは身を清く保ち、その代わりに壮健の身と自己の責任とを果たさしめ給え。睛通ここに願い上げます。
  兄上様
  (大正七年四月二十一日)
 ☆兄上とは長兄、藤蔵。戸田はこの四月二十一日付けをもって、(小)合資会社を退社している。彼はその後、夕張に住む長姉のもとをたずね、当地の石狩炭鉱株式会社若鍋第二坑販売所の事務員として約一か月間勤務、その後すぐ真谷地小学校の代用教員となった。
10  成功せんと欲せば
 大いに働くにあり
 朝六時ないし七時より夜十時まで
 休むべからず
 主人の時間なり
 成功せし人にして
 仕事に怠慢せしものなし
 約束守るべし
   (大正七年四月)
11    まだ寒き 朝の一里や 初桜
   葱多き から汁あさる 余寒哉
   初日の出 海も小さく 思へけり
   恋といふ 字も覚えたりや 歌かるた
   (大正七年四月)
 ☆紫色の、横長の手帳は、当時のものとしてはたいへんにぜいたくなものである。その手帳には、たくさんの俳句や歌が書きつけられてあった。
12    ふるさとの 山に名残りは あらねども
     父母の慈けに 後をぞ見る
   (大正七年四月)
13  ただ自直一番我れ要す。
 世界の大乱に続いて来る東洋の運命、充分の用意をたれがなす。我々今日の少年また相当の覚悟なかるべからず。
 北海道においては充分の思考あるべし。
 北海道は前途有望なり。
 しかし商権なり政権なりを世界に争うには、土地が小さいし、また北により過ぎている。戸田よ、戦国時代をみよ。伊達政宗、辺地におりしばかりに事業がおくれしにあらずや。
 上杉謙信、武田信玄を見よ。偉才あわれや、一は空しく信山の陰が土となり、一は北越の雪とともに消ゆ。それ一つに地の利を占めざるによる。我れ、志を伸ばさんとす。辺土にあっていかんせん。辺地であるまいか。
 中央、中央、我が事業を起こす前に見るべきの地は大阪か神戸ではあるまいか。
 支那の風雲以って見るべし、以って乗ずべし。沿国の日本、乱国の支那、前途有望の、いな自重を要するの東洋、我れ未だ若し。若き今日大いに学ぶ、機会を待ちて中央に出でん。
 中央に出でて乗るべき風雲を観て、これに乗じ、正に男子の成すべき事業をやなさん。
 北海道辺地なり。
  大巧は拙きが如し  老子
14  自分は今日つらつら思うた。
 自分も男子とし、かつは大日本国の国民として、東洋の前途を案じて事業を天下に成さんとする者だが、我が身を育つべき地が北海道かいなかだ。この事に思い及んだのは今より数十日前だが、今もまだつらつら考えるのだ。
 北海道は未開だ。しかしてまた前途有望と言われるが、前途有望の地が必ずしも天下的事業の源本地ではあるまい。むしろ商権、政権の中央が腕を磨くのみにあらず。中央を維持する源本地として腕をこの方面に伸ばしてこそ可なるべき。世界を相手とせんとするもの北海道を相手にせよ。
   (大正七年四月)
15  夕張の姉を訪う。
 兄、姉の親切親身なればこそありがたし。自分は姉さんに対してそのご恩は一生忘れない。
 五月五日、帰札す。金子五円、借用。
 返済の期はまず当分あるまい。
 帰途を篠津にて、森田と会見し、腹蔵なく半日余会談す。わが行動を彼は非常に止めた。何の理か。また是か非かほとんど不明。心を定めてただ決行するのみ。
 勝てば官軍 敗くれば賊軍
 相手が語るに足るの人かいなか、いや語るに足らぬ人たりともお母さんに対する恩義だもの、志を一時まげても心をきめて行くさ。何、当たって砕けろだ。
16  本人が共に語るの人物ではない、これと言う自分に利益が認められるではない。しかし自分も退くとも退かれぬ。土台自分はお母さんに対する恩義上の成り行きで利益いかんではない。しかし、本人が余りに語るに足らぬには自分も面食らっている。自分は一時志をまげて、三年なり五年なり死を決して闘い、男子の名を愧ずかしめぬつもりだが、ああ、本人の余りに小なるよ、余りに語るに足らざるよ。思えば、先が案じられる。ああ森田の語にしたがわんか、男いな義がたたぬ。これにせんか自己が立たぬ。ねがわくば借用の金子を返済しておきたい。しかも一歩また進んで考うれば、生田様に一身代興してあげたい。右せんか左せんか、男子の腹腸はらわたここに九回す。何、心を定め、志を一時まげて、時としては一生まがるかも知れんが、身をさいの目にまかして美幌に行く。
   (大正七年五月三日)
 ☆東京で英語学校の促成科を卒業した森田は、北海道に帰ってきていた。生田家への恩義に報いるために、戸田は没落した生田家へ身を埋めるべきか、志のままに動くかを大いに悩んだのではないかと思われる。
17  戸田晴通を戸田雅皓に改名す。
 この改名に対して二度三度改むるなれば、人は言わん、朝三暮四と。しかしこれも万やむをえない。
 前途の為、現在の為、やむをえない。
 ただ戸田雅皓をして、天下の男子と前途の大とをなさしめ給え。
   (大正七年五月三日)
18  顧みれば本年元日、誓いも無にした。しかしあやまちとは言え、いや弁解の用なし。今後は一人の男子として、過去は言わず、戸田雅浩、今後一生を通じて男子で過ごさん。生田さんに対して彼の人達が自己に尽くしたは、己れの慾心あるいはある志望よりとは言え、いったん男としてかえすと言うた上は、初めの通り五年後ないし十年の後には返さん。自分も男として必ず返済せん。
 また中藤に対しては、自己戸田雅皓を尺くして男子一匹の仕事して後、野郎めに一言を呈せん。
   (大正七年六月四日)
19  ああ、目さめたり。今日只今、心中に幾分の考えありてなせし生田加代子の情を、博愛の心となし空しく恩を受けしとは、万事今日手違いを生ずる本なりしなり。ああ愚なりし戸田雅皓、今目さめたれば、今後は必ずともに人の情にからまれて慈みは必ずともにうけぬべし。
 過去を言わずただ先なり。必ずとも人の慈みと恵みを受けざるべし。人の厚意には我れに対する欲求あるなり。また戸田も天下の男子として、最後の目的は印度と支那にあるを知れ。世界の中心いな世界三分の計は東洋を中心として成る。
 東洋、東洋に生まれ東洋を守り日本国の隆盛を計るは、これ日本人戸田雅皓とし勤むべき仕事なり。身休の強健計りて心を天下に述べん。何恐るる程の事やある。戸田雅皓、汝生ある限り意とせよ。
 支那と印度の救護と、東洋永遠の平和と、日本をかくして安全なる地盤上に置くべき事を。
   (大正七年六月八日)
 ☆大正七年六月三日、石狩炭鉱株式会社若鍋第二坑販売所(夕張)の事務員となる,
20  自分は山へ行く、成りゆきを天にまかして行く。
 しかし、これは是であろうか。自分は国家に対してより以上の責任がある。自分が国家有用の人間たらんとせば、決して行くべきでない。
 しかし男がいったん行くと覚悟し、行くと定めておきながら今変更なるものか。しかしだ、ここに変更せざるべからざる一事がある。自分も男泣きに泣いた、この三晩は。ちょうど三日前だ、夜も十二時過ぎだ。
 生田氏曰くだ。
 この戸田が十九歳やそこいらで、人の家の事を容喙ようかいするのは生意気だ。その倒壊しかけた、落ち目になった人の家を興してくれるなんて真に親切すぎる(ああ、あたかも野心あるが如く言いなさる)。人の家に容喙するとは生意気だ、そんな親切な人はいない。
 生田の実家でそう言われたことは忘れられない。土産の葡萄酒までも悪意でとられた。己が志を賭して、興してやるべき家と思っていたのに……。去年、生田の親爺が何と言った。思い起こせば涙がでる。
 生まれ落ちると金で責められてきた野郎には、真の男子の腹はわかるまい。戸田が金で心を左右していると思われてもなさけない。
 戸田は、戸田その人を知らぬ人には使われる事はできない。無理に後を追うて行く必要もない。戸田は戸田で旗上げして目に物見せてやる。戸田が男になって物言わん。何々何事やある。
21  村上の兄さんより、生田へ返済として、八十五円。藤川へ返済として、五円。計九十円借用す。
 借財にいじめらるる戸田かな。十三日の日より戸田は夕張の人間となる。世は夢のまた夢とはたれの句や。我が身の流転変化また見るべし。また愉快な事ならずや。
   (大正七年六月十二日)
 ☆純粋な青年は生田家再興のために、小樽の生田家の実家へ乗り込んで行こうとしたのではないかと思われるが、おとなたちの心ない言葉に傷つく。生田家から借りていた金の額は不明だが、このいざこざで、彼は長姉の夫から八十五円を借りて返済し、いっさいを解決し、身をひいた。
22  永々ご無沙汰致しました。
 御兄上様、御姉上様、仲一殿いかがご消光あそばされおりますか。風の朝、雪の夕、さんざんなる我等兄弟の身の上。この数ある子等持たれてご心痛絶え間なき御父、母御の身追想して深く深く案じおります。兄様数ある兄弟八名。上は四十幾つより下は十四までのこの八名の兄弟中一人として父、母御の御胸を案じ奉る者もなく、老い先永からぬご両親の御心の中に入りて真から慰める心ある者も少なし。小生不幸にして末に生まれたる為に父母の生あるうちにとて、これのみ考えて暮らしおりますが、天は私に幸を与えません。
 (小)合資会社に奉公中は、夜昼なしの奮闘をいたしました。余りに先を急いだのと孤軍の位置で一人の援助もなき仕事は功を奏しません。空しく希望をなげうって教員となりました。しかし擲った希望の炎は、焼け燃えぬのではありません。
 (大正七年七月初旬)
 ☆石狩炭鉱を約ひと月でやめて、六月三十日、夕張郡登川村真谷地(当時の地名)の真谷地小学校の代用教員となった。
23  顧みれば、販売所の事務員三谷氏の懇切と己れの好きこのみとにより真谷地の小学校教員となってここに一カ月、八月の休暇、岩見沢の講習をうけんとす。尋正をうけんとする今日、前途は多忙、仕事は山をなす。兄上様代理の仕事の一歩として尋正を蹴る。ねがう兄上様、援助を与えられん事を。兄上様の御心なりし親孝行の為進んでこれまた愚生の志望を遂ぐるの段階、普通文官及び本科正教員の一部を我が手に入れさせ給え。ここに二年ないし三年のうちに再び出でん樽札の地に。大いに驥足きそくを伸ばさん為に戸田一家の為に戸田雅皓、前途一身を印度及び満州の土を浴びてまた一カ所にて死なんが為の準備の為に出でなん。
 正に真谷地を岩見沢にたたんとして一筆紙に載す。
   (大正七年七月三十日)
24  八月中は夢の様に過ぎた。九月三日、一日でも戸田一生涯の一日だ。奮わん奮わん、世界の一員、巨人の一人になる為に奮わん。現在は実際平和だ。大変に平和だ。自分は幸福だと思わねばならない。人だ、希望は絶えない。目的目標は近くに遠くにある幸福だ。ただ静かに時代をまたん。ねがわくば父母様、身命ともに永からん事を。
   (大正七年九月三日)
 ☆真谷地小学校に就職して約二か月。心境は静かで平和であった。
25  心の清き程世にうるわしきはなし。心清ければ楽しみ多く、安らかに眠り得るなり。
 大正七年十一月十三日、時計は正に午後の八時を報じ、後はただ四囲寂としてタクタクと時計の時をきざむ音のみかしましい。夕張郡真谷地小学校の午後八時は実に静寂だ。人里離れておるし小使が不在だから、自分以外には人気は更にない。
 この時静かに自分は我が身を思う。自分は今年は十九だ。顧望すれば(小)合資会社の奉公時代、その店内における勉学時代、放縦時代、計略(偽り)時代、奮闘時代、これを深く考えて味わえば、二、三年中に社会の万事を手にせし如き感じがする。しかしてここ一、二年をあんずるに自分は前途々々と焦った時代、前途に大なるものをもくろんだ時代、そのもくろんだ事を実現すべく焦った時代と、かつ実現すべく未だ万事に早く、手を焼かしめて兄上様がこれを自分に悟らして下された現在とにわけることができる。しかしてその現在はいかにや。
 詳細に省みれば、実に修養もせぬ見下げ果てた凡俗漢だ。修養すべく奮闘するべき時代と知りながら行なわぬ凡漢だ。かかることにしていかでか前途の大を得られましょうや。そんなら自分は、大なる仕事をばなし得ぬ人間か、いや自分も人間だ、彼西郷もカーネギーも人間だ。しからば自分も自己を満足せしむることはよもできぬ事はあるまいと思う。
 ただそれだけの報酬代価を支払って得んのみだ。その代価や何か。自己の欠点を補うて進むのだ。人たる道に心掛けてるのだ。
 しかし翻って自分をみれば、自分は彼等より劣等の点些少とせず、また普通人よりすぐれた点も自分にはなくして、かつ日常潔白でない。その欠点とするのところも甚だ多い。多弁だし怠惰だし不信実だし身体が弱いし意志が薄弱だ。偽善家だし、うそを言うし、悪事をする。実に見下げ果てた人間だ。
   (大正七年十一月)

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