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日蓮大聖人・池田大作

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大正六年  

若き日の手記・獄中記(戸田城聖)

前後
1  前途の光明は遠く音もなく降りくる雪。ああその如く、我れも積まん志を。いかん……未来は。天下の商人、商業家たるの素地をば。未来は未来の念は何時も離れんよ。狐然たる崎嶇きくはんずる意以って前途そのもののために今日の苦労は犠牲だ。厚田の浜で奮闘する絶大なる抱負に向かって驀進、以って功を得るのみ。
 厚田へ帰った。前途洋々海の如し。今日はただ勉学あるのみ。母の病気も全癒ぜんゆの方面。身は霜雪霏雨ひうに悩まされ、心はますます磨かせて、顔は北風に吹き荒らされ、胸中は反対にいと消く、秩序たち、辛苦艱難に身はやせても、奮闘の二字に埋むる歴史はますます肥らせん。
 兄様の骨前にひざまずいた。恥ずかしい、不甲斐ない甚一だ。許し給え。必ず厚田で兄様、甚一はものになって見せる。
 厚田着の今日を以って奉公の終わりとするか。
 憂き事の多かりし八ヵ月か。前年七月、合計一年三ヵ月の足掛け三年の社会学、前途茫莫、しゅん々として一小人と化するかと思えば、これ憂きの種か。厚田でも矢張り、前途は遠い。
 まず兄上様外様の志ついで、一まず勉学やせん。
 万里の鵬程ほうていも、奮闘勉学以ってせば、悠々渡り得べし。
2  戸田桜心の名、兄様の名だ。
 桜の心、潔く散る。咲く時は全盛の名を専らにし、散る時は古武士的に立派に、軍人ならんには喜ぶか、未来商人の戸田甚一、ふさわしくない。以って今日より戸田桜桃と改むべし。
 桜の如く咲き桃の如く実を結ぶ。
 三日見ぬまに咲く桜だとて、決して三日のうちに用意ができて咲くのではない。前年の冬、雪をしのいで咲くのだ。あたら散ってたまるか、桃の如く実を結ばずして。
 (大正六年二月二十二日)
 ☆二月二十二日、母の病気を口実に、(小)合資会社を休業し、故郷厚田へ帰った戸田は、桜桃と改名した。桜の花の好きな彼は、その後桜心とも改名した。文中兄様とあるのは、兄の外吉のこと。外吉は秀才の名が高く、戸田はとくに尊敬していた。
3  (小)会社を離れたるは即ち桜桃の精神が新年を迎えたるなり。トソやカルタにふけるの年が正月か。精神上、年と共に月と共に新たなるこそ年を迎うと言い、心に一新生命を加えたるを以って新年迎えたりと言う。馬齢のみを加え、年とったと言ったと言うは、凡俗の言と新渡戸先生は言われたが、実際だな。
 自分は心に一新、生命を加えた日だ。立って前途の為に振るうべく、千仞せんじんの谷も千山万岳の嶮峻けんしゅんも何ぞこの桜桃が踏破すべく蹶然けつぜん立った日だ。これ即ち新年迎年初頭の感とかや言わなん。
 (大正六年二月二十四日)
 ☆戸田がこの手記を書いたときは、すでに、(小)合資会社をやめる決心をしていた。その後、退社しているが、ふたたび同年五月二十五日に入社している。
4  三月初旬、他日翺翔こうしようすべきおれだぞ。
 三月二十三日九時過ぎ、二畳の室に二分心燈下で。ペン走らす。
 夜はふけてくる。静寂な域を通り越して凄寂な域だ。神秘的な感がする。河水はとうとうとむ岸の音、どうどうどうと響く波の音、シケだな。実に静かだ、この辺は。たまたま気になるは、河立ちばかり。中村恒男校長宅から帰った自分は静かに黙想にふけった。
 七ヵ月の奉公、目的も趣味もなく血を枯らして働いた。あと八カ月前途もない。青春の血おどり輝くの少壮時代を無為に過ごした。ああ、帰郷の今日、校長を訪うた。商人の学に志すを、いましめられたるお言葉、迂遠うえんの策を難じた。
 去年、三ツ橋君見て感じた心を、ありのまま語った。先生は辯駁べんばくした。商に志せ、自分も未来は商人たるは言をまたない事だから。お言葉、左様合点、しかして、家庭の事情、男の意気地、志半途にまげましょうや。落ちる先は、商でも、進路は学でと思った。尋准だけはとりましょう。
 ああ、前途は動かぬが、進路は二本。先生は教員になるの不可を論じて止まぬ。しかり、小生も知れり。しかし今日の事情いかんせん。にしん後まで待ち給え、二本の道一本をとる。しかして今は、尋准をとるために兄様の志を継いでここに世の中を退き、静かに他日翺翔すべぎ素養を作る身に成れる日を期して、ここに改名す。
 (大正六年三月)
 ☆ひとまず、(小)合資会社を退社し、厚田村で今後の人生について大いに悩んでいる時期である。実家の経済状態も、もっとも窮迫していたころと思われる。
5  夜はふけてくる。静かと言うを通り過ぎ、寂莫たるの感がある。先程校長中村恒男先生のところより帰ったのだ。過ぎし方、つらつら考えれば、去年、無意識とかや言わん、前途に光明もなく趣味もなく、奉公の必要も大したる事感じるでもなく過ごしたる七ヶ月後、利益とて多くも無く、ああ他に光明あるにあらねども、奉公に出づるにいやなりし去年も、矢張り出でたる、いやなるところに。思ったより得るところが多かったと感じたのは九月であった、大正五年の。しかし男子、前途に光明みとめて。
 (大正六年三月二十三日)
 ☆厚田の海は波が荒い。海鳴りの音を聞きながら、戸田は薄暗い二分心のランプの下で、ひとり思索にふけった。
6  十八日を期して七寸のワラジに身をのせて運命の開拓に出かけんとす。小樽に出でて、戸田桜桃の運命の開拓をし、成らんずば東京へ。村上才太郎君より餞別をいただく。御礼申す。
 兄上様の骨前にひざまずきお別れ。
 兄上様決して帰りませんよ。前途確定せぬうちか、または不成功のうちは。骨となるか成功するか二つに一つで帰ります。生命を賭して兄様よ。
 (大正六年五月十六日)
 ☆小樽には三番目の兄の藤吉が、山口家へ養子に行っていた。当時小樽は海産物の集散地であり、漁村の厚田とは縁が深く、戸田の知人、友人も多かったと思われる。
7  天日は、うららかに照っている。
 厚田を出達すべく本日、開拓の運命。
 いずこにある男子の意気地……。
 山口福次、山口重吉、山ロハル、久保寅吉の四氏より餞別をもらったあり。なお功ならずんば厚田に帰らずの念を深くした。
 画策なきにあらず小樽行。
 昼、石狩(新)岩崎源七様より意見をちょうだいした。
 自分の意見を述べ有難く意見の程ちょうだいした。自分の心の奥のあるものと合した。自己の目的は確定した。よし、身を殺しても工商を以って一家を起こし、未来は北海の……ウムよし。
 死しても自己の目的を達せずば……
 男子志を立て成らざるは天命のいたすところとの言を吐くものは、人事を尽くして天命を待ちしものの言。人事を尽くし天命にしたがい以って敗れるともいかんせん。しかし男子の志を立つる、敗るをもくろんで事をやなさんや。余輩もしかり。死ぬまで、死ぬまで自己前途のためにたたかわん。よし、これより小樽に。
 (大正六年五月十八日)
 ☆(小)合資会社をやめ、厚田に帰った戸田は、今度は小樽に出て働こうと決心する。かたい決心で小樽行きを決行するのだが、結局は、ふたたび札幌の(小)合資会社に入社することになる。
8  (小)合資会社に入社と決せり。
 若旦那いわく、五年年期後は三百ないし四百円……。戸田甚一、三百や四百の金で奉公するなら厚田におったがましだ。五年間内に優に中学卒業程度の学問しながらもうけて見せる。なぜ五年無代価で、自分の身体を貸せ預けろと言うてくれなかったろう。自分の、自分を未だ知らぬのか。しかし自分のねがいに任せ、無代価で俺の身体を預かると言うてくれたのがありがたいのだ。
 確かに五年後一文にならぬとも、兄様即ち若旦那が、今日確かに甚一貴様の身体を預かったとの一言が欲しい。そして五年後、一文も頂かなくてもよい。不入用だ、金なんて。甚一そのものを五年間中に知ってくれれば。そのかわりそのかわり、死を決して奉公する。
 五年だけ甚一、身体を預けた。確かに預けた。金なんて、かためて、くれてもくれんでもよい。五年間だけ不自由がなければよいのだ。
 (小)合資会社の財産は五年間自分の財産だ。よし二十八日ごろまでに行こう。
 何、死を誓って奉公するぞ。心定めたまま
 (大正六年五月二十五日)
 ☆心ならずもふたたび(小)合資会社へ入社することになるが、入社した以上は、生命をかけて働いてみせると断言している。「(小)合資会社の財産は五年間自分の財産だ。」というあたり、彼の面目、躍如たるものがある。
9  思い出したまま守るべき事
 世に養い難きは女子と小人とかや。
 小人の機嫌とるべし、機嫌とらすべからず。
 婦女子の機嫌とるべからず。
 機嫌とらすべし。
   かたく守るべき事
 若き身は殊につつしめ皆人の
 踏み迷うらん恋の山路
   かたく避くべき事
 正直以って自己の身を保つべし。
   必ず実行すべき事
 艱難汝を玉にすとかや、苦及び難儀は辞すべからず。
   実行すべき事
 事を成す、ことごとく天地の公道なるべし。
 他人と談話中、人物の洞察に努むべし。
 男子の言をずべからず。
   実行すべき事
 天地に誓って
 (大正六年五月二十六日)
10  大正六年六月十六日、札幌神社祭典につき半日の閑を得、ここに劈頭へきとう第一筆を下す。森田に対するの感及び彼の性質、未来を筆に染めて永遠に森田に対する好記念とせん。書かんとしたが店務に妨げられ、遂書かれなかった。
 ここに同年孟蘭盆うらぼんの休日を利用して書す。豊平の別荘において。
 病気の為に退いた都門も全快しては、僻地にあるべからざるを兄に余儀なくされ、再び出馬した。前途に予算あるでなく、光明あるでなくして会社に入った。会社に入るやまた無意識に、また無意義に働き、尊き日を消費しつつあった。
 時たまたま自分の都門を退くのころ入店せし当別産の一青年いな一少年があったが、また前途に予算なく光明なし。
 名は森田政吉とか言い、政坊々々と自分は呼んだ……。しかしながら二人とも、光明見出すなく、予算また立て得ざるも、一生蓬藁ほうこうの元に長くあるを喜ぶ程意気地無しでもなかった。幕末志士及び古今英傑の士の回天の事業の跡を喜び慕うた。これが互いに同一意のところ、またまた双方男でござい、天下の青衿士でございと言うた語が、また連鎖となって、離れ難く、それを標準に議論して辮駁べんばくし合った事が親密の度を加える第一歩で、忘れ難い同棲時代の記憶であろう。不平を漏らし合い、前途を語り合い、揚げ足を取り合い、理屈をこね合った仲は、ますます親密を加えた。
 心身の状態、自分のはどううつったか知らぬが、自分に写った彼の特徴は、負けずぎらいだ。(これを自分は大変好いた)
 事々物々、この性を遺憾なく発揮した。犬糞的いぬくそてきの事にまでだから、自分に小人野郎と呼ばれたのも無理ない。
 記憶力は凡庸以上と認めた。文オまた可なりと。浅学な小生だ、誤りかは知らぬ右の様認めた。
 商人として一生の計を立てたところが、自分の十分の一の働きなし得るやいなや。帳場番頭としてならいざしらず。しかしあたら他方面に生かさば相当の地位得べき身の一生冷や飯食いとする哀れさよ。
 七月初旬。
 増田も社会に打って出たとてハガキがきた。
   無事屏息
   厚田出奔
   但し逃走
 おもしろいやれ、めめしく故山の土を踏むなかれ。万難を排せ増田よ。
 文オと記憶力を利用して意志強固に前途に。プランを定め躍進せば、回天の事業は難くとも、人間一人前食うだけは難事に当たらざるべし。どういたしても生かさんと思い懐んでいたりしに、彼も現在所の到底志伸ばすべからざるを知りてか、また次々に自分の、彼の精神の生くる様計ったおかげで生きた精神の発露か知らぬ、遂に二月立った、父母の元へと。──小人と罵倒した事もあった。小才士と評した覚えもある。……しかし今は真に生きた天下の青衿士らしい、が彼は意志が弱い。社会の俗事にしろ、時たま負くる。己れの心には必ず負くるだろう。修養すべき第一と思っておるところで、心配の第一だ。
 不平児だ、あたかも徳富鷹花の寄生木の篠原良平の様な人間だと思った。万々事の性質がせし、まして熱しては奮闘児と化し、冷やしては不平の児となるの言にいたっては、事実しかり左様と言わざるを得ん。
 不平なるべき事を打破して春風駘湯たいとうの和景を呈す。即ち円満の解決をつくるまで精神の修養がないのが心配の第二である。
 ささいの事に焦慮する、気にする、不平の原因だ。前途大なるものの為に現在の俗事を捨てる事ができない様だ。これが心配の第三である。彼には満腔の同情を人一倍寄する。前途も人一倍嘱目する。心配も人一倍する。しかして彼を知る、また人一倍だろう……。
 彼は我が妻である。
 (大正六年八月十七日)
 ☆森田政吉のことは前記。多感な少年時代の友情が読みとれる手記である。
11  前途の。フランは確かに定まった。未来は必ずとも、天下の豪者いな富豪として社会を闊歩せん。経路ももくろめり。
 北海道の地の利を善用いな活用して可なるべき業は製造業なるべし。北海道の製造業は刮目かつもく以ってするに天下を相手どる事難事ならざると己れの目に映ず。工場を北海道にし、売りさばき先を世界に求めん。さればこそ、無一物の自己としては、真実の腕これ資本なり。
 五年の年期奉公有意義に過ごさん。三十まで修養時代となし、地盤の選定その内とあれば、戦闘の準備期とも申すべし。呆然、今日を過ごして可なりや。以後四十まで、土を破って地上に出でんとする種子の如し。苦闘奮闘苦戦天下甜目せよ。
 出面取、豆腐屋、八百屋、いずれも前後に関連あり、自然に逆わねば可なるべし。四十より目的に着手すべきも以前たりとも敢えてさしさわりなしといえども、そはちと難事たるべしと察せられる。戦闘準備なり。開始せば死を賭して健闘し、天下に獅々吼ししくせよ。前途に獅々吼せん。あに、我れと天下の男子、成さざらん事あるべけんや。ねがわくば今日の意気天を衝くの豪気消滅せざらん事を祈る。
 (大正六年八月十七日)
12  男子志を立て郷関を出づ。  
 独腕二本、運命の開拓、あにいかんして人後に落ちんや。未来は天下の豪商として天下的事業をなす計画、また胸三寸に収めおり。社会に出たる限り故なくしていかんしてこの度こそ故山の陰を見るべきや、踏むべきや。功なくして志ならずしていかんして厚田の水を飲むべきや。
 予算あり、計画あり。ただ自己の奮闘をここに望むのみ。
 九月二十五日、北辰病院に入院して、ここに記す。
 (大正六年九月二十五日)
 ☆ふたたび(小)合資会社に勤めた戸田にふりかかった試練は、発病である。たぶん結核性副睾丸炎と思われる病気になり、札幌市の北辰病院に入院した。きちょうめんな戸田は、入院費、その他のメモを残している。
13  第一回北辰病院入院メモ
 入院援助金内訳
 父様         二拾円
 藤吉様(二番目の兄) 拾五円
 藤蔵様(長兄)    拾円
 ツネ様(長姉)    五円
 母様         拾三円六拾銭
 メ          六拾三円六拾銭
 入院経費内訳
 五円         写真二組外雑費
            母様、(小)屋見舞い
 六円         入院料
 三円         看護婦、付添婆二人ずつへの心づけ
 拾円         手術料
 二円         母様、生田様土産及び藤川様ミルク一個
 三円         母様、小生二人小使い
 六円         入院料
 六円         入院料
 拾八円七拾銭     母二人との小使い雑費
 拾七円        入院料(二日分)
 メ          七拾六円七拾銭
 お見舞いくだされし人
 宮川様、宮村要次郎様、藤川様、太田様、有田末松様、小六主人夫婦様、木谷勇蔵母子様、神野様、生田様、山口姉上様、アキ姉上様(手紙)
14  男子志を立つ、あに軽々として捨つべけんや。  
 捨てずと思えばこそこの行に出でしなり。我が輩の主義こそは前途の目的の為には万事を、あらゆるものを犠牲にすと言うにあり。今日の行や、兄弟中その者を犠牲にせり。諸人に対する余の苦痛を犠牲にせり。この犠牲故功を収め得とは断言すべからず。成不成は第二とす。ただこの犠牲に対して代償を得ざるべからず。代償は即ち前途に向かって数歩の邁進なり。邁進これ奮闘の語の体現によって得らるるのみなれば、今後代価得んと欲せば修養において勉学においてまた相当の覚悟ぞいるらん。即ち積極的に消極的に戸田そのものを捨てざる限りはこれを許して邁進すべきなり。前途の光明に近く近くと進むべきなり。されども、天与の利とも称すべきは、これ意中より取り去るべし。さるを意として何事をやなすべき。捨ててこそ男なり。
 自己は、二本の腕二本の足、これが、天下唯一の資本たるを忘るべからず。卑劣こそあるべからず。
 男たる以上、心して事に当たり、この腕あり、この頭ありと確信もって、事のならざる事やあるべき。
 前途は遠し、油断なく進むべきなり。
15  万木蕭々しょうしょうの秋と思えば今宵の雨もひとしおしんみりと感ずる。病院内は寂として静まり、莫として声なし。ただ溝に落ちる雨のみ何かの暗示を我が身に与うる様忙しく音をたてる。天高く肥え雨野草の端にささやく。人生最も寂蓼せきりようとかの秋、ただ薬くさき病院に朝夕二十余の起伏をせり。初めここに治療をうけんとするや己れはまずかくかくごせり。死と言う事なくとも、睾丸を抜かるにおいては向上心失せて社会に先頭を争う勇や意気阻喪せざるか否かと……
 されどここにいたれば意気や軒昂けんこう、今日の犠牲に供せし代価により以上の大なるを得んとの野心や生ぜり。志のところまた強固これを遂げんとするの意志またともないて生ず。ああ愉快なるかな、おれもまた一個の男子、志を達せずしていかでたおるべき。されどそは荒涼の語よ、人として死せざるものやあるべき。ただ志を達せざる間にたおるより、万難を排して奮闘し天命と叫びてやたおれん。
 雨しとしとの声ききつつ、白きベッドに腰うちかけて、ビスケットかじり尽くさんとして鉛筆の走れるまま草稿せるを、十二日夜十一時四十五分に、ここに浄筆す。
 (大正六年十月十二日)
 ☆北辰病院の一室で、戸田は未来についての強烈な抱負に燃えた。退院は十月二十四日午後二時、その足で小六商店へ行き、すぐに勤務についた。十一月五日、病後の回復がすすまず休暇をもらい、小樽の親類で厄介になる。
16  病をいやさんと欲せば、これに対する金策尽きたるをいかにせん。尽きたるにあらず、厚顔児と化したるを、義理を知れるを、我が苦しみを人にわくるのつらきをいかにせん。
 かかる時こそ口ずさまん。
  苦策つき便所の前に腕くみて
   屁ひりにけり夕されの町
    (大正六年十一月十日)
 ☆病後は快調でなく、再入院の話もでていたと思われる。会社は休職中、入院費やその他について大いに苦しんだ。実家はけっして金にこまることはないのだが、はやくから独立の精神の強かった彼は、親にたよることをいさぎょしとしなかった。
17  戸田身弱きにあらずと自信はあれども、いかにせん、こうしてたおれしを。天我れに力を貸さざるが故か、我れに天力を貸す未だ早く、かくして精神を労さしめ、大命をまっとうせしむる意、この度の病故また悟りし事も少なからず。覚悟以って臍を固めし事どももなしとせず。しかし物質的において、精神的において、十八歳の今日、五十余日にして十九歳なる我が身なるに病となりてよく兄らの世話、親らの心配、迷惑これにしてなお男子と号し、天下に志あり、必ずや成して遂げんと言う。天未だ戸田甚一に独身万事を処理する期早きを天のいつくしみに授けたれば、自然やむを得ずと言えばそれまでなれども、意気地なしと言えばまた意気地なしなり。十八歳未だ一人前ならず。思えば背に汗の流るるを覚え、ひとり顔に熱気の出づるを感ず。
 現在をパンを得る道を知るに費やす。パンを得る事を知り、志のあるところに着目し、パンを得つつ志のあるところに進む。かくなれば自己一個人の目算なり。幾分の人情を解せば、自然自己の目算の外さぬ限り、義理を戸田一家に尽くさざるべからず。後見人いな助太刀人としての義務をになわざるべからず。
 未来に抱負あり義務ある身の、現在に病あらばいかにせん。未来に病を生ぜば、またいかにせん。未来の病を起こるを今より何してか杞憂きゆうせん。ただ現在の宿病いやさんとして計画し目算通り行ない得たるも天我れをいつくしみてか二度の手間を要すを戸田の不運とや言うべき。母に強く話さんか心配せん。前に心配させ、またこれ以上の心配なさしむは、人間いな子として最大の不孝と、我れは知る。兄に話して厚顔児と化し事を行なわんか(金天より降るにあらずと言う、金言なるかな、むべなり。兄等汗水流して、また脳髄絞りて得し宝、ああ二度の無心、ああ厚顔なり二度の我が苦しみ。未だ頼まねども)、我が身の苦しみやまた何物にたとうらん。苦しみ多し、病後の現在。
 (大正六年十一月十二日)
 ☆再度の入院について戸田は、大いに苦しんだ。両親に何度も金を出してもらうことがひどく苦痛で、また恥ずべきことと思っているからだ。
18  慢性睾丸炎とは関場不二彦先生の診断。抜かねばなおらぬとのこと。また二年から三年かかるが、治薬でなおせるかも知れぬとの事なれば、小生は服薬二、三年の後なおらねば手術を受くべく覚悟をきめて、服薬してみる事にした。しかしこれでなおらねば敗残の身だ。何としよう。奉公なんて気長の事を言うておられるか。直ちにどの方面でも金もうけにいきたい、行こうーー目算あるにあらず。しかしちゃんとして立つなら一個の地磐を要するに、その地盤をこの奉公中に得るなるが、右にせんか左にせんか迷い、ここにいたる三日前の事が、今ここではわからぬ。運天にあり。只桜心兄様の指揮に任せん。何とぞ兄様よろしき様お計らいあれかし。
 (大正六年十一月十三日)
 ☆服薬するか、手術するか。手術が必要なことはわかっているが、経費のことを思ってあきらめようとした。兄様とは長兄、藤蔵。
19  仙場病院長、自分の病気はまあニヶ月との事。江別へ咋日四時九分の汽車にて出発、苦心の結果、父様の舟を見つけて一安心。ああ戸田生まれて初めて親の子に対する慈愛心の深きを知り、ただ涙の滂沱ぼうだたるのみ。
 ああ父様の厚くお言葉下されし時のうれしさ、五十円の金を出してくれると言うて下さった時のうれしさ。父上様、甚一終生忘去つかまつらず。ただし、これを断わって(小)より出金してもらう事として、金五円也ちょうだいして帰った。ただし一日間に宿泊して父様の御有様に心で泣き、朝、父様篠津出達の跡では自分ながら不覚の涙にしばらく顔を上げ得なかった……。直ちに(小)へ出頭、六十円程金子借用申し込み、十五円当座拝借。ああ、もう身を売り、名を捨てたるを観念した。なさけないかな。早速仙場病院へ入院。父様よりちょうだいの金子五円を叔父様ヘニ円の返済、太田へ金子三円江別行き旅費返済、嚢中のうちゅう余す二円いくら。ただこれ人生との観念を以って入院した。
 (大正六年十一月十七日)
 ☆仙場病院へ入院。入院費を無心しに父を尋ねて行く。父甚七は、回漕業(石狩町から江別まで)もしていたので、苦心して石狩川へ父の舟をさがしに行く。父は快く五十円の金を出してくれるというのだが、彼はこれを断わり、勤務先小六商店から六十円借用して入院費にあてる。大正七年一月二十四日退院。
20  母様は小樽より昨日来た。小使い文無しに自分はなっておる。太田清作殿へ三円拝借と出掛けて聞き届け下され帰るや、停車場通り(新)岩崎旅館に滞在の日本哲名学館札幌臨時出張員(小倉鉄鳳先生)の意見により戸田甚一改め戸田睛通とす。
 ああ、願望生まれれば、甚一──桜心──桜桃──睛通。一種精神的慰安可否と真剣なり。改名料、鑑定料として三円。また嚢中無一物となる。
 厚田の兄様より小使い二円ちょうだい。
 一円五十銭看護婦殿三人へ母様みやげ。
 人生は、ただ人生なり。言わざるべからず。
 戸田睛通の運命、またいかなる方面にて展進か、またまた座折か。ただ天命、天命。
 (大正六年十一月二十日)
 ☆戸田の戸籍名は甚一。彼は何度か改名している。桜心、桜桃、晴通、城外、城聖など。無一文のところへ三円を借用し、その三円をもって改名鑑定料を支払い、また無一文となるところなどは、もっとも彼らしいところである。
21  十一月二十二日、本日午後生田様を訪うた。何故か男を捨てされど幸捨てさりても男子と生まれて一時たりとも、たとえ母人の意を案ずるとは言え、依頼心を起こせしこそ恥ずかし。独立独歩を志せるもの──ああ汝に何の意ありて彼の人を頼れる。他人にあらずや、自己以外の人にあらずや。いかに汝に親切なりとは言え、いかに情に富むとは言え。しかし我れには言うまでもなく親切なり。情に富めり。深謝するに何か躊躇ちゅうちょせん。深謝の意たるや、我れにまた充分にあり。あらざるべからずして可なりや、あるべきは当然の事なり。されど聞けよ、脳裡に秘めて戸田晴通よ。
 十八歳の弱輩なにをかなすと。ああこれ彼の人一人の言たらず、父の言たり、兄の言たり、社会一般の人々が言たり。十八歳の弱輩、前途も志望もへったくそもあるものかと。ああもっともの言たり。この嘲語、十八歳白面少年、社会これを入れざるは知る。成す事面倒なるも知る。知らざるにあらず。少年時代の理想志望を終生の志望理想たるものにあらず。しかしてまた行ない得べきにあらず、資本の世の中資本なくして何をかなす。もっともなり。
 この主義の語、我れまたこの語に何をか言うべき。されどここにしばらく言うを許せ。今日の少年たり、しかして志あらば時代の趨勢とともに理想も進まん。言わずとも少年時代の理想また成年の理想たらざる言をまたず。前途もまた時勢に適応すべく計るはこれもっともなれば、志望の変更またむべならざるなり。されど十八歳の弱輩云々たるや資本の云々たるや。
 ああ社会たるや、青年の志伸ぶるところにして少年の志述ぶるところにあらざるか、されど戸田晴通の数語をきかれよ。当年政界の立場とし闘将とし教育者として青年指導者として名声嘖々さくさくたる尾崎行雄氏を見よ、十八歳にして新潟新聞の主筆たりしにあらずや。
 支那一流の聖人孔子は十五にして学に志せしより十五歳を以って志学と言うとかや。我れしかるに十八歳にあらずや。回顧五十年、明沿維新時を見よ、当年の志士中小壮これ少なからず、しかして大義を論じ志を述べ、たれか生意気と言いしその人々によりて日本の運命を開拓せられしにあらずや。
 しかるに時代を過ぎぬ、人間を要せねばいかんせん、生意気とか言ういかんせん。しかし時代人を要せぬにあらず、要しながらこれを知らざるをいかんせん、着目せざるをいかんせん。幸か不幸か戸田晴通この時代に生をうく。刮目注視せば時代既に商工にあり。志のところ商に置くともたれか不可を言う。されど言う人ありとせば時勢そのものを解せぬなり。
22  梧堂の桐は散り易く少年老い易し、少年時代志を立てずして何時にか志を立つるや。笑うは不可なり。遂行と否とは別問題なり。志を立て志を伸述す、しかして不可言うものあらばまたこれも時勢を解せぬなり。見よ、今日高位置の人おそらく小壮に時代を知り時代に擁せられて立ち、奮闘以ってこの位置を得、位置学によりし。されど今日学問の要求時代を去りぬ。実業界にその人を待つ。あに我れ立たざるして得べけんや。
 時代はこれを口せば嘲罵ちょうばす。しかして生意気と言い、早しと言う(事実早きか、事実生意気か──)。時代を解せぬ社会に何をか言う。ロを慎んで、体に行なわん。体現以って世に言わん。未来になす事ありて後しこうして我れまた語らん。今日我れの刮目に写れる時勢、違えるかいなか、志し、かつ口にして悪しきかいなか、時を待ってまた語らん。
 大日本国は我れを待つなり。国家の材たらずして可なるべきや。
23  ああ我が身、何か生田様一同の厚意めぐみ厚き御心をうれしと言うか、悲しと言うか。一介の貧乏小僧を遇して一個の人間とす。厚意また訓するに余りあり。ましてお母様の厚意、顔で笑って心で泣かんか、心で笑って顔で泣かんか、真実あふれしお言葉、報恩以って何んとなす。お言葉ある度に、大将の意見がある度に(言葉が上下を違えども)、自分をいつくしみ下さると思えば心に沿むる諸々を集めてはただうれしと言うより外もなし。
 一介の小僧何してかく遇す。情に富める人故に異郷に苦しむ。
 木の葉の如き身を憫れと思召しなされしか、あなうれし秋風落莫たる心中に春風胎湯たるを得し心地こそすれ、ああ厚志心肝に徹せり、志立てず業成さずして何の時に報恩にいたらん。笑わば笑え、何のその未だ早しといえど前途を口にし体現す。あに勝るところあらんや。今十年を刮目して待たれかし。戸田晴通も男とならん時やあらん。幾年幾百里たとえ生死幽明隔つとも、いかで厚意を忘れんや、忘れて可なるべきや。人なりせば恩義に報いずしてまた可なるべきや。男の子なりせばああ時を得なん期を待たなん。
24  思恩思孝正道
 孝を懐わずして玉を抱き難し
 恩を想わずして人となり難し
 天地に向かって愧じざるものは正道を歩みしものなり
 父母の喜ぶはうれしき事なり
 恩を報ゆる心掛けは、人間として世話するものないしは人間として当然持つべき性情なり
 正道を歩むものには空隙なし
   (大正六年十一月二十二日)
 ☆晴通と改名してまもないときの手記である。美濃紙二枚に筆字で丹念にしたためられている。
 生田とあるのは、(小)合資会社の得意先で札幌市北八条東三丁目で小間物屋(雑貨商)を営む母娘である。加代とはその娘。戸田は品物を大八車に積んでその店へとどけているうち、母娘と親しくなった
25  生田のお母さんより見舞いとして金子二円ちょうだいす。深謝す。金を喜ばず心を喜べ。男と生まれて前途に志のところあり。人を頼って何をかなす。人を頼って恥をかかんより嘲罵をうけんより以後必ずともに人を頼らんより苦しき時におのれの肉を食え。
 兄弟とて頼るべからず、頼るに足らざるなり。まして他人においてをや。
 已れの肉を食い破って後死せよ、滅多に死するものにあらざるなり。
   (大正六年十一月二十三日)
26  戸田晴通
 改名にあたり、ともにここに一言を呈す、なんて洒落れてな……しかし男子として生を社会にうく、未来必ずなさん事あり、未来前途に志望あらん。今日より自己のとるべき修養法、志望を達するに要する手段はただ独立独歩にあるのみ。人を頼らず、人を頼るべからず。苦しきときは己れの肉を食って生きるべしだ。以後決して人を頼らず独立独歩だ。死んでもよい。自己の肉を食い尽くして死ぬるなら何か言わん。天上天下唯我独尊主義。
  (大正六年十一月二十四日)
27  姉様のところより懇切なるお手紙を戴く。ああ姉なるかな。即ち僕の返信のいかん。
 姉や兄の世話に以後ならぬ。まして他人においてをや。手紙も以後出さぬかも知れぬ。僕を他人と思ってくれ。
28  姉さんに遇いたいのは山々だ。なんで一人の姉と縁を切りたいものか。しかし姉さんに、僕の事を心配させたくないし、人の世話にならないと言うのは僕の主義だ。僕は遇いたい姉さんに手紙を出さぬ。いな姉や兄と遇いたい。
 大いに今日の卸は見込みがある。小さく一部からやって行けば、何恐れる程の事がない。必ず自分の志望、商業をもって天下を料理するなんてことは何でもない。大いにもくろんでいる事があるんだ。
 別れの悲しみ、他日取り返して笑うべく奮闘するのみだ。なにくそ。
  (大正六年十二月十一日)
 ☆姉とは長姉のツネ。多感でデリケートな青年だった戸田は、愛情をおそれた。愛する、愛されることは、たとえ肉親でも拒否したかった。成功のために、志のために。これは手紙ではなく、手帳に日記風に書かれてある。
29  父上様より二十五円請求に任せて送付して下された。大いに謝す。その代わりこれが最後だ。戸田一家に迷惑を掛けぬ。最後だ。
 大正七年度よりは、大いに感ずるところを行なうのみだ。大いに自重して未来遠くの方我れ望むべし。いよいよ大人の仲間に入りたし。
 今日よりは稚魚となりてや海の辺をようやく卵より小魚となったばかり、大いに奮うぞ。奮うぞ。
   (大正六年十二月三十一日)
 ☆仙場病院で大みそかを過ごす。

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