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日蓮大聖人・池田大作

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胡錦濤 国家主席 中国第四世代のリーダー

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  中国首脳として初のサミット参加へ
 若さは力である。
 国にせよ、団体にせよ、世代から世代へ、つねに新しき人材を見つけ、つねに新しき創造への流れを起こしていってこそ、滔々たる勝利の大河はできあがる。
 中国の胡錦濤主席が二〇〇三年六月初め、フランスでのサミット(主要国首脳会議)の行事に出席された。中国の首脳のサミット参加は初めてである。
 かねてより「中国のサミット参加を」「中国も含めて、平和への世界首脳会議を」と私は何度も主張してきた。それだけに、うれしい出来事であった。
 胡錦濤主席は六十歳。謙虚で、礼節に厚い方であられる。かつて副主席として来日された。お会いするやいなや、その十三年前の私との出会いの模様を鮮明に語ってくださり、驚いたものである。
 「あのとき、池田名誉会長は、わざわざ地方から帰ってきて、私ども代表団と会見してくださいましたね。私は、印象深く覚えております」
 たしかに、そうだつた。一九八五年(昭和六十年)桃花の春、中華全国青年連合会(全青連)の主席として、代表団を率いて来日されたのである。
 私は地方出張の予定を変更し、早めに帰京して、お迎えした。
 「『これから』という若い方だからこそ、最大に大切にし、大誠実でお迎えするべきだ」と信じていたからである。
 このとき、主席は四十二歳。初々しさとともに、「新しい中国を、新しい世代で、断じて大発展させていくのだ」という自信と息吹を感じた。
 そして十三年後の一九九八年春、副主席に就任したばかりでの来日を歓迎申し上げたのである。
 「副主席、ちっともお変わりありませんね!」と言うと、あの柔らかな笑顔で、「いえ、もう白髪が出てきたんですよ」と、鬢を指さしておられた。気さくな親しみやすさは同じだが、いちだんと立派な風格になっておられた。
 「中国は『世代から世代へのバトンタッチ』を絶妙に実行しておられるな」と、私は感嘆した。幸い、新中国の「四世代の指導者」と、私は友好を結ぶことができた。革命第一世代の周恩来総理(国務院総理)、第二世代の鄧小平氏、第三世代の江沢民主席、そして胡錦濤主席である。
 世代問のバトンタッチには、芸術的な慎重さを必要とする。一つ間違えると、これまでの営々たる歴史を無にしてしまいかねないのである。
 サミットのため、胡錦濤主席は旅立たれた。主席として初めての外遊である。そのとき、注目すべきニュースがあった。
 「今後は、党や国家の指導者の海外訪問のさい、送迎式典は行わない」ことを決めたというのである。それは中国政府が進める改革の一環であり、今回の胡錦濤国家主席の出発から実施された。
 胡主席は中堅幹部時代から、清廉で有名である。たとえば地方での打ち合わせの宴。「絶対につきあわない」と言えば、角が立つ。そこで、あらかじめ「決して華美にしてはならない」と伝えたうえで、出席した場合は、後から自分の飲食代を必ず送金したのである。送金額は時に、給与の十分の一にもなったという。
 かつて、ある日本の国立大学の総長が卒業式で「ただ酒を飲むな」と訓示した。「今、疑獄事件があるが、すべて、ただ酒を飲む習慣から起こったのだ」と。俗っぽいようであって、腐敗の核心を突いた訓示であったと思う。
2  真っ先に建国の原点の「あの村」
 胡錦濤主席が、党の総書記に就任したのは、二〇〇二年の十一月。就任後、最初に北京を離れて向かった先は、どこであったか。行き先は、多くの人の意表を突いた。
 それは、太行山脈の深い山々に囲まれた村であった。十二月はじめの寒風をおして、胡総書記は、河北(ホーペイ)省平山(ピンシャン)県の小村「西柏披(シーバイポー)」を訪問した。
 じつは、ここは、五十余年前、建国の直前に、毛沢東主席と周恩来総理らが、革命の拠点としていた村なのである。
 一九四七年三月、党の指導部は、十年間過ごした延安(イエンアン)を離れた。転戦を重ねつつ、翌年、北京の南西約三百キロのこの村に着き、秘密基地をつくった。
 だれもが、つぎはぎの手織り木綿の古着姿であった。
 内戦の苦闘のために、周総理の「あごは膨れあがり、別人のような容貌」(ディック・ウィルソン『周恩来』田中恭子・立花丈平訳、時事通信社)であったという。そのなかを、この村で中国解放への指揮をとったのである。
 そして、革命の全国的勝利が確定した四九年三月、村で会議が開かれた。毛主席は、今の勝利は「万里の長征の第一歩」にすぎないと語り、これからも「艱苦奮闘」の精神でいこうと訴えた。
 政権をとった後も、謙虚・慎重・驕らず・焦らずでいこう!
 人民のために、これからも刻苦奮闘を続けよう!(毛沢東語録研究会『毛沢東語録〈完訳日本語版〉』宮川書房、引用・参照)
 周総理は、この精神を文字どおりに貫いた方であった。
 ――この勝利にたどり着くまでに、中国人民が、どれほどの血と涙を流してきたことか。アへン戦争以来の外国の侵略、日本との十五年の戦争、国共内戦……もう十分だ! もうこれからは、人民の生活のために一意専心したいのだ。人民のために働いて働いて働ききって、死んでいきたいのだ。
 周総理の執念は「大中国飛朔」への滑走路を造りあげ、ありとあらゆる暴風雨を突き抜けて、離陸への助走を開始させた。不可能を可能にしたドラマであった
3  指導者は大衆に奉仕するための存在
 こういう歴史が刻まれた村を、胡錦濤総書記は最初の訪問地に選んだのである。それは革命精神の原点を忘れてはならないという強いメッセージであったにちがいない。(以下、村での話はインターネット人民日報〈二〇〇三年三月三日〉中央電視台西部チャン不ル「ニュース夜話」から)
 胡総書記は、雪が積もる村を歩いて、何軒かの家を訪ねた。歓迎の準備をさせないよう、訪問は伏せられていたという。訪問予定を前夜になって知らされた家もあったが、「歓迎の花を並べたりしないでください。いつものとおりにしていてください」と言われた。
 胡総書記は、訪ねた家の暮らしぶりを、ことこまかに聞いた。その家の人たちは語っている。
 「総書記は、私のそばにいた、ひ孫を抱き上げて、ほおずりしました。総書記が、私たちと同じような、親しみゃすい人物だと感じました」
 「非常に気さくで、苦労話を親身になって聞いてくれ、こちらも身構えるとともなく、まるで家族のように感じました」
 私は直接お会いしているので、こういう話が政治的な宣伝ではないことがわかる。
 人の意見をよく聞く方である。原理原則については譲らないが、人情味があり、決して、いばらない。かたちだけの慇懃さではなく、温かい気持ちが伝わってくる方なのである。
 総書記は村に一泊したが、食べるものも、村のありあわせの食事であった。そして、村には一枚の伝票が残された。「納付者:胡錦濤、期日:二〇〇二年十二月六日、項目:五日から六日までの食事代合計 三〇元」
 ”指導者といっても、大衆に奉仕するための存在である。だれも特別扱いされる資格などない”。その模範を示されたのであろう。
 経済発展が進むにつれて、金銭的に堕落する者が出るからだ。
 お会いした一九九八年にも言われていた。
 「私たちは、こう考えています。良き党幹部になる前に、まず『良き人間』にならなければならないと。もし『正直な良き人間』になれば、その人は『正直な良き役人』になれないはずがありません。反対に、人間として正しい世界観・人生観・価値観を持でなければ、金銭を前に、『戦いの志』を失ってしまうでしょう」
 党の指導者を養成する中央党校でも「公僕として、人民貢献の根本精神を全身全霊で実践せよ!」と教えているとのことであった。
 周総理も幹部の「特殊化」を警戒し、幹部の子弟についても、わずかでも特別扱いしてはならないと厳しかったと聞く。
 これまでに、どれほどの民衆が犠牲となって、今の土台を作ってくれたか。その歴史を、その炎(ほりお) を、未来にかけた希望を、若者よ忘れるな!
 無数の人たちの「人生をかけた思い」を背負って、立派な指導者に育ってくれ!
 人材は、いる。探せば見つかる。しかし指導者に私心があれば、まじめな人材ほど苦しむことになる。反対に、指導者が無私であればあるほど、その「無私の真空」に引き込まれるようにして、良き人材が集まり、衆知が集まり、民衆の信望が集まってくるものだ。
 胡総書記は、村で語った。
 「刻苦奮闘なき民族が自立し向上することは困難である。刻苦奮闘なき国家が発展し進歩することは困難である。刻苦奮闘なき政党が栄えることは困難である」
4  多くの人に役立つ「実務」に徹せよ!
 胡主席が、口をすっばくして、後輩に言ってきたことがある。
 それは、派手なスタンドプレーをしたり、自分の手柄を誇示しようなどという功名心ではなく、地道に「多くの人に役立つ実務をせよ」ということである。
 主席ご自身が長い間、黙々と裏方に徹し、人を表に立ててこられた。共産主義青年団の中心者時代も、住居の世話や、生活の支援、転入者の家族を北京に呼び寄せるかどうかまで、微に入り細にわたって面倒をみた。自分自身のアパートは西向きの「夏は蒸し風呂」になるような部屋であったという。
 江蘇(チャンスー)省で育った主席は、北京の清華大学を卒業した後、遠い西方・甘粛(カンスー)省のダム建設現場で働いた。名門大学出身でも、まったく偉ぶらず、レンガ運びでも何でも、誠心誠意、努めた。
 初めてお会いした四カ月後のこと。氏に転機がおとずれた。貴州(コイチョウ)省の党書記に任命されたのだ。
 地元では「どうせ中央の幹部は腰かけ気分だろう」「われわれを、自分の出世の踏み台にするのだろう」という目で見ていたかもしれない。ところが、ただちに単身赴任してきた胡錦濤書記は着くやいなや、省内全域をくまなく回りに回った。「自分の目で見て、考えないと、相手の気持ちはわからない」と。皆、驚いた。
 貴州省は中国で最も貧しい地域の一つである。先祖代々の貧困に慣れてしまい、現状を打開しようという考えも薄かったようだ。胡書記は、あの手この手で「やればできる」という自信を与えていった。具体的な成功例をつくり、示した。とくに、教育に全力をかたむけた。
 創価学会も「希望小学校」を同省に贈ってきたが、教育は成果が出るまでに時間がかかる。それだけに、胡書記の行動は目先の功名心からではないことが、皆にわかってきた。
 また、柔軟さとともに、人間としての信義については厳格であり、いったん受けた恩義は忘れない。そういう人物として尊敬を勝ちえたのである。
5  「中日の美しき未来」を創価の青年と
 周総理から、鄧小平氏へ、そして江沢民主席へ。開放の軌道は着実に固められてきた。世代から世代へ、魂のバトンをリレーして、中国は見事に離陸し、次第に安定飛行に入りつつある。
 日本の一部には、中国の発展を強力なライバルの出現として警戒する声もあるようだ。しかし、それはあまりにも近視眼的であり、考えが狭すぎるのではないだろうか。もっと前向きに、大きな展望に立って、「お互いの利益になる」よう知恵をしぼるべきであろう。アジア全体の利益を考えずに、日本だけが一人、繁栄し続けようという発想では、結局、日本の利益も守れない時代になっていることを、深刻に自覚すべきであると私は思っている。そして、ともに栄えていくためには、日本は、ともかく「アジアから信用される国」にならなければなるまい。
 初の語らいのとき、胡団長は言われた。「創価学会青年部とともに、『中日の美しい未来』のために努力していきたいのです」と。
 二回目の語らいのとき、胡副主席は言われた。「中日関係はたんに二国間の問題ではありません。アジアと世界全体の平和、発展、安定に深くかかわっています」と。
 それほど大切な日中友好である。では、友好の「前提」となるのは何か。それは公正な歴史認識であろう。
 ある創価大学生が中国に留学した。クラスに日本人嫌いの学生がいた。心を閉ざして、うちとけない。創大生は「日中友好を自分の周りから聞いていかなければ」との思いで接し、努力した。彼が日本に帰国する日、クラスメートは目に涙をためて言ったという。
 「私は、祖父も祖母も日本軍に殺されたのです……あなたに出会えなかったら、一生、日本を恨んだままだったかもしれません」
 一九九九年、創価学会の「日中友好青年交流団」に参加した青年は、吉林(チーリン)省へ行った。日本軍侵略の爪跡が深く残るこの地で、日本語の上手な中国人から聞いた。
 「かつては日本語を学んでいるだけで非難されました。日本と聞くだけで忌まわしい記憶に結びついたからです。私も、つらい思いをしながら日本語を学びました。日本との友好が第一だと思ったからです。歴史観についても、事実に基づくものならば、どんな考え方でも私は受け入れます。しかし日本の一部の人々は、ウソを民衆に教えている。これだけは中国人は絶対に許せないのです!」
 心は見えない。しかし、見えない心が人間を動かし、人間が社会を動かしていく。隣国の人々の心を軽く考えてはならない。
6  アジアの平和と友情の「金剛の橋」を
 急激に変化し続ける中国。舵取りは容易なことではないだろう。
 十八年前(一九八五年)、私は、若き胡錦濤主席に申し上げた。
 「指導者の前途には、重い重い鉛のような黒雲が続き、また、どこまでも尽きない暴風や試練のときがあるものです。しかし、どんなときにも、人民のために毅然として活躍する指導者であってください!」
 胡主席が、そういう名指導者であられることを私は信じている。
 そして日本の若き世代もまた、そういう大指導者となって、平和への信念を断じて貫き、アジアとの友情の「金剛の橋」を築きあげていってほしいと祈っている。

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