Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

福田赳夫 元総理 日本を”人間大国”へ

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  「物で栄えて、心で滅びる」社会を心配
 秀才中の秀才であり、群馬の名門・高崎中学でも一番、一高でも東大でも一番、大蔵省でも一番。
 しかし、ご本人は「秀才なんて、偉くないです。少しくらい、できが悪くてもいいから、困っておる人がいたら『よし、ひと肌ぬごう』というような気持ちをもっている青年のほうが好きです。赤城山(の国定忠治)じゃありませんがね……。『孤独な秀才よりも、友多き凡才たれ』と。こう、いつも言っておるんです」。
 少年時代、お母さまから、口ぐせのように「ぶるな(気どるな)、ぶるな」と教えられたそうだが、知性とともに、何ものにも屈しない信念と、ものごとに対する愛情をもっておられた。人の悪口は、ひとことも聞いたことがない。人間としても、政治家としても、洗練された方であった。
 現在の小泉純一郎総理も、若き日に、氏のもとで書生として修行され、今も政治の師匠と仰いでおられるとうかがっている。
3  こんなエピソードがある。(佐藤雄一編著『福田起夫論』住宅新報社。以下、同書から引用・参照)
 戦後まもなくのころ。氏は、大蔵省の官房長。官房長付の運転手をしていた方が、こんな話を打ち明けた。「娘が私立の女学校を受験して、学科は合格脈したのに、面接で父親の職業が運転手だとわかるとはねつけられてしまった」と。
 福田氏はこの話を聞き、ただちに、それまでの運転手さんの「雇員」という身分を「大蔵技官」に変えたという。福田氏らしく、いかにも柔軟で温かい。
 まもなく、氏は、疑獄事件に巻き込まれ、無実の罪で大蔵省を追われることになるが、後に、大蔵大臣となって、晴れて大蔵省に戻った。運転手さんはすでに管理職に昇進していたが、「志願して大臣専用車のハンドルをにぎった」。目をうるませて「十七年間、この日をお待ちしていました」と。
 私が初めて氏にお会いしたのは、その数年後である。
 昭和四十四年(一九六九年)四月二十四日の夕、衆議院の本会議を終えた足で、わざわざ、おいでくださったのである。
 学会本部の周辺の青葉が初々しく輝き始めていた。
 「池田会長のことは、佐藤総理からも、よくうかがっております。創価大学も、このたびは、おめでとうございます」
 大学紛争たけなわのころである。時代の要請を考えて、私は当初の予定を急遽早め、四月の二日に創価大学の起工式を行っていた。
 氏は当時、佐藤内閣で二度目の大蔵大臣。”佐藤総理の次の総理”と見ている人も多かった。
 話のくわしい内容は忘れてしまったが、日本が「物で栄えて、心で滅びる」という心配を話しておられたと記憶している。高度経済成長していくうちに、上から下まで”物さえあれば、金さえあれば、自分さえよければ”という風潮になってしまった、と。
 時の大蔵大臣が「金では買えないものの価値を大事にする政治をしたい」と言うのだから、「なるほど、大した人物だ」と感心した。
 ”ぶれ”のない、バランスの取れた方である。
 「書生論をぶつ万年一高生」と一言われた理想主義の面があるかと思えば、冷徹な財政家として知られ、そのころの安定成長も氏の功績が大きい。
4  「国民の目覚め、それが立正安国ですね」
 「政治とか行政とかの要諦は、いかにケチになるかにある」が持論。「国民から出していただいたお金を、いちばん国民のためになる方法で使う」――そのために知恵をしぼる。「これが政治の根本だ」むだづかいなんか、とんでもない。
 だから、役所が昼間から電気をつけっ放しているだけでも、気に入らない。自分のうちなら、むだな電気は消すだろう。公費なんだから、なおのこと、むだな金は一銭も使つてはいけない――と。(越智通雄『父・福田赳夫』サンケイ新聞社出版局、引用・参照)
 福田大臣は「学会は、まじめな若い人が多くて、すごいですね。池田会長がまだ四十一歳ですか! これからも日本のために、よろしくお願いします」と、きちっとした態度で、期待を寄せてくださり、帰られた。
 その後も、何回も来られたが、「モノとエゴの政治では、日本はおしまいです」は一貫して言われていたことである。
 いつだったかは、「国民が利口になるしかありません。政治の責任は大きいんですが、それにしても、政治家を選ぶのも国民ですから。ナチスのヒトラーのような人間を、なぜ優秀なドイツ人が支持したのでしょうか。国民をだます天才だったのでしょう。大事なのは、国民が賢くなるための『国民の目ざめ』ですね。日蓮聖人の立正安国の精神も、それにあたるわけでしょう」と。
 氏は「政治は、最高の道徳である」と説いた。
 「政治家は、派閥のボスに奉仕するのではない。国民に奉仕するのだ」とも。
 周囲からは「そんなきれいごとでは、権力闘争に勝てない」と批判され、事実、”政策では勝っても、政争では連戦連敗”とも評された。しかし、さばさばして「人間はしょせんカネと権力の亡者にすぎないというような理想のない人間観には耐えられない」(浦田進『評伝 福田赳夫』国際商業出版)と語る福田氏であった。
5  家は雨もり、別荘はなし
 たいてい、政治家が”精神”の話を始めると、自分のことは棚に上げて、国民を行儀よく、おとなしくさせようという「復古調」が、ほとんどであろう。あまり信用できない。
 しかし福田氏の場合は、実生活も質素であられたようだ。
 「財産」は、世田谷の自宅と地元・群馬の事務所だけ。自宅は、戦時中に建てられた古いもので、来客の応対の必要性から、建て増し、建て増しを重ねたため、雨漏りがした。
 政治家は立派なうちに住んではいけない、という信念。政治家は国民とともにいるべきだから、玄関に入っただけで、主人の声が聞こえる家がいいのだという。
 知人から、別荘の一つくらい持ったら、と勧められでも、家は一つで十分だと断ったそうである。
 ”昔、井戸塀。今、別荘”と言われ、昔は政治家になると、財産を食いつぶして井戸と塀しか残らなかったが、今は反対になったと嘆いておられた。(前掲『父・福間赳夫』、『評伝 福田赳夫』、『福田赳夫論』、参照)
 勲章も、生前、ついに固辞しとおされた。
 ある時は、私にこう言われた。
 「政治家で清廉を守ることは、非常にむずかしいことなんです。周りがそれを許さないからです。しかし政治は、だれのためにあるのか。政治家は、何のために国民の代表になるのか。政治哲学がないところ、絶対に良い政治はできないと思います。権力のための権力になってしまうからです。
 私は、夢中で、とくに総理になってからは、文字どおり、身を削って頑張りました。評価は後世の歴史家にまかせるしかありませんが。しかし、グチを言うようですが、政界の水面下では、『足の引っ張りあい』と『利権の張りあい』なんです」
 声に真実の響きがあった。しみじみと語られた氏の眼差しが、今も鮮やかに浮かぶ。
6  冤罪で十年間、暗闇のなかを
 福田氏が、身を厳しく律しておられたのは、生来の信条もあるだろうが、「私は、さる事件で、手ひどい目にあいました。その経験から、慎重に気をつけているのです」とも言われていた。
 昭和二十三年(一九四八年)、大蔵省の主計局長のとき、「昭和電工事件」に巻き込まれ、冤罪で起訴されたのである。
 昭和電工の社長が、福田氏の一高・東大時代の先輩だったことから、融資に便宜を図ったとの濡れ衣を着せられてしまった。
 青天の霹靂だった。エリートコースを足早に歩んできた福田氏の人生は、暗転した。「大蔵次官」のポストを目前にして、退官を余儀なくされたのである。
 被告人とされたこの時期、福田氏は、社会的に「殺された」も同然であった。それまで積み上げてきた「キャリア」も「名声」も、一瞬で、すべて失った。人生で初めての挫折と屈辱。ぞっとするような暗い拘置所。
 私も、無実の罪で起訴された経験がある。無実であるとわかっていても、それが証明されるという保証はない。
 果てしない暗闇のトンネルを這い進むかのような苦しみ。
 そして、「被告人」ゆえの、さまざまな制約。手のひらを返したような周囲の仕打ち。白眼視。遅々として進まぬ裁判。強靭な精神力なくしては、とても闘いぬけない。
 だが、この試練が、氏を、何倍にも大きな人物へと鍛えあげたのであろう。
 氏の無罪が確定したのは、昭和三十三年。事件から十年がたつていた。四十三歳から五十三歳までの十年間である。長い。
 判決文の「検事の所論は、まさにかの鷺をカラスと言いくるめる論法に似たものと評すべきであろうか」を、そらんじて、何度も、かみしめておられたそうである。(福田赳夫『回顧九十年』岩波文庫)
7  友情こそ最高の安全保障
 イメージというのは、こわいもので、福田氏にはなんとなく「タカ派」の印象が、ついてまわった。しかし、少なくとも私には、まったく別の面を見せてくださっていた。
 語らいのなかで、「政治でいちばん、大事なのは平和を広げることです」と、しょっちゅう言っておられた。
 「経済大国は、いずれは軍事大国になるというのが、人類の歴史でした。しかし、わが日本は、今あえて、この歴史の常識に挑戦しなければならないと思います。経済大国であって、なおかつ軍事大国にならない。その道は、どこにあるのか。
 その答えは『世界なかんずくアジアの人たちを貧困から救い、経済発展が軌道に乗るよう手助けする』ことです。軍事費の分を援助費に回すことです。友情こそ最高の安全保障です」とも。
 何かの折、ご自宅にうかがった創価学会の幹部は、玄関だけのあいさつですませるつもりだったのに、「中へどうぞ」と引きとめられ、こう言われたそうである。
 「日本は一般に東南アジアを見下しています。それは絶対に誤りです。とくに自分の国、自分の会社の『もうけのための手段』に考えていますが、そんなことは見抜かれています。彼らは、顔で笑っても、腹では怒って、『なんと卑しい日本か』とばカにしているんです。(東南アジアの)いたるところに今なお厳然とある戦争のレリーフ(浮彫)が、よい証拠
 でしよう。
 なめてかかると日本は、こっぴどく、しっぺ返しされますよ。アジアが『ルック・イースト(日本に学べという運動)』、なんて言ってくれるのも、今のうちです。池田先生にお伝えください。おっしゃるとおり、民衆を目覚めさせる教育、人間の連帯、そして共生――これらを考えておかないといけません」
8  アジアとの心の交流を盛んに
 福田先生とは、よくアジアの話になった。
 日本は”物だけ主義”を国内ばかりか、海外にまで広げていた。
 「新しい日本軍は、”銃”を、はちきれんばかりの”ブリーフケース”に持ち替えて東南アジアに戻ってきた」と書いた新聞もあった。
 タイでの一九七二年の日本製品の不買運動をきっかけに、反日運動が燎原の火のように広がった。日本製自動車に火が放たれ、日本大使館の国旗は引きずりおろされた。
 私も現地の友から、連絡をいただいていた。連日のニュースに、胸が痛んだ。
 私は福田氏に「他国を『踏み台』にして、自国の繁栄を貪るというのは、国として王道ではありません。邪道、覇道は長続きしません。信用がなくなって、長い目で見れば、経済だって、うまくいかなくなるでしょう」と話した。
 かつて戸田会長の事業がかたむいたとろ、ちょうど朝鮮戦争(韓国動乱)が始まった。戦争の特需によって、戦後の日本経済は患を吹き返したわけだが、戸田先生の事業も、もう一息頑張って、特需の波に乗れば、立ち直れるかもしれなかった。それを勧める人もいた。
 しかし、先生は「そんな邪道をしてはならない」と、頑として拒否されたのである。
 福田氏も「日本はすぐれた商品を海外に送り出していますが、『意思の交流のパイプ』は細いんです。このギャップを改善しないと、誤解からやがて感情的な反発となり、それがまた誤解を深めるという悪循環になります。それでは手遅れですから『物の交流』が盛んになればなるほど、『心の交流』も盛んにしないと」。
 外務大臣のときには、「心の交流」の一環として「国際交流基金」を設立された。
 また、あるときは”日本に学んだアジアの留学生が、帰国すると、ほとんど反日家になってしまうと聞いて、さっそく”留学生の同窓会”を日本で開くことを提案し、政府にも働きかけた。(前掲『回顧九十年』、参照)
 私は大いに賛成し、創価大学も中国から戦後第一号の留学生六人を迎えることを伝えると、「ほおー、すばらしいことですなー」と、たいへん喜んでおられた。
 いつごろだったか、「♪二人のため 世界はあるの」という歌が、はやったことがあった。
 福田氏は、「結婚式までは、まあ、それでも結構だが、その後は困ります。『世界のため二人はあるの』となってもらわないと。日本の国も『日本のために世界はある』わけじゃあ、ありません。『世界のために日本がある』んです。自分のところだけ、もうけようなんて愚かです」
9  歴史的な宣言の「福田ドクトリン」
 総理のときは、マニラで歴史的な宣言をされた(一九七七年八月)。今なお「福田ドクトリン」と呼ばれるものである。
 ①日本は軍事大国にならない②アセアン(東南アジア諸国連合)の国々と「心と心のふれあう」信頼関係をつくる③「対等な協力者」として、東南アジア全域の平和と安定に寄与する――。”進んだ国が遅れた国を援助し指導する”というのではなく、”対等なパートナー”として、共に生きることを宣言したのである。
 スピーチが終わると、場内から大きな拍手が起こり、しばし鳴りやまなかったという。
 福田氏の「実像と虚像の落差」については、日本人の”ものの見方”が関係しているように思えてならない。
 「右か左か」「白か黒か」「保守か革新か」。何でも単純化し、急いで決めつけようとする。
 あらかじめ決めた「物差し」や「イメージ」「筋書き」にあてはめて、人物を見ようとし、そこからはみ出る事実は切り捨ててしまう。そのため、結局、何を見ても、古い「物差し」から一歩も出ることはない。
 福田総理の就任の時には、新聞記者から「福田路線は、右寄りか、左も含むのか」との質問が出た。総理は「右とか左とか言うのは、よくわからない。むしろ、教えてもらいたい。私のものの考え方は中道です」と逆襲した。
 柔軟で、幅の広い方だった。
 総理退陣後にはいや、じつはですね、私が総理になって痛感したのは、「『外交は官(政府)だけがやればいいものではない』ということなんです。『本当の外交は民間外交だ』ということです。だいたい日本では、明治の初めから”外交は官がやる”といった考えが定着していますが、それがもたらしたのが、(満州事変、上海事変などの)いろいろな事変であり、あの戦争、なんです」と言われていた。
 昭和五十年(一九七五年)、私は忙しく海外に動いた。
 一月にアメリカ、四月に中国、五月にソ連・ヨーロッパ、七月にまたアメリカ。
 その合間合聞に、福田氏と語りあった。
 氏には、民間交流への嫉妬や、やっかみなど微塵もなかった。「日本の国のために、本当に助かります。ありがたいことです」と、こちらが恐縮するほど、励ましてくださった。私心のない、本当の愛国者であられた。
10  「中・ソとの文化交流、助かります」
 訪中の前と後にも、続けて、お会いした。
 当時は、「日中平和友好条約」の締結が日本外交の最大の懸案の一つとなっていた。
 私は、この条約を早くから提唱してきた信条を語った。「覇権」をめぐる鄧小平副総理の会見の内容も、お伝えした。
 福田先生は「世界の主なところは、全部、池田先生が文化交流をされている。とくに、いちばん”難物”のソ連と中園、との二つに真正面から取り組んでいただいていることで、日本は本当に助かっているんです。ほかの政治家は気がついていないようですがね。中国の国交回復は、池田先生のお陰でできました。先生の民間外交なくしては、できなかったでしょう。中国ではよく知られているこの事実が、日本人には見えていない。残念な日本です」。
 自分のことではあるが、これは、ありのままのお言葉である。このときは、福田氏とじっこんの人も同席されていた。記録も残っている。福田先生の公正な世界観、外交観を称える意味で、書き残させていただきたい。私も、たくさんのことを教えていただいた。
 一つ心残りなのは、このとろ「イランの国王に、ぜひ会ってもらいたい」と氏が言われたことがある。当時、私はイランのハムザービィ駐日大使と親交があり、大使からも「ぜひ、イランにおいでください。国王も待っておられますから」と勧められていた。
 しかし、しばらくしてイラン革命が起きた。大使は亡命し、結局、国王と、お会いする機会は、なくなってしまった。
 福田氏も「残念です。行っていただきたかった」と惜しんでおられた。
 昭和五十一年(一九七六年)、福田氏は総理大臣に就任。
 二年後の八月、園田外務大臣が訪中し、「日中平和友好条約」が実現した。歴史に残る、福田内閣の成果であった。
 記者団に、総理は笑顔で語った。「日中共同声明で”吊り橋”ができた。これで”鉄の橋”になった。重い荷物も運べるよ!」
 じつは、福田内閣は、はじめは不人気な出発だった。マスコミ受けしない遅咲きの七十歳の総理。しかし福田総理は、まったく意に介さず「さあ働こう内閣」と称して、胸を張った。普通は、はじめ支持率が高くて、だんだん下がるものだが、二年間の政権担当の間、どんどん支持率を上げていった。珍しい内閣であった。
 総理在任中は、お会いすることはなかったが、総理退陣が決まった直後、新聞記者の質問に答えた言葉は忘れられない。記者が、今後の人事について聞くと、こう言われたのである。
 「人事のことはいいんだよ。私は二十一世紀のことを考えているんだ。君たちと君たちの子どものために、環境を整えておきたいんだ」
 しかし、この言葉も、”なんと高尚なことか”と、からかうような調子で報じられただけであった。
11  「昭和の水戸黄門」となって全国へ
 総理退陣の半年後、福田氏と、お会いした。昭和五十四年(一九七九年)の六月三日である。
 その一カ月ほど前、私は会長を勇退していた。勇退のさい、福田氏からは、人づてに「これから、いよいよ世界の優秀な学者や指導者に会っていかれるのでしょうね」という励ましをいただいた。
 お会いした元総理は「総理・総裁は辞めたが、政治家を辞めたわけではありません。『昭和の黄門』として全国を駆けめぐりたい」と、意気軒昂であられた。
 私も「創価学会の水戸黄門」となって、全国の功労者の皆さまのお宅にうかがいたいと願っていた。
 「不肖わたくし”地球福田”は……」と、ユーモラスに言われていたが、とくに人口問題は、口をすっばくして語られた。
 「二十一世紀中に、世界人口は今の約二倍になるといわれています。何も手を打たないと、食糧不足、土地不足、環境破壊、資源の枯渇、教育の破壊、人口移動の拡散等々、人類がいまだ経験したことがないような大乱世になります。今、世界は”資源有限時代”に入っています。これまでのような奔放ないき方では、人類は行き詰まってしまう。これは、百年の大計に立つ政治家の責任ですが、今、このことを真剣に考える人は残念ながらおりません」
12  晩年を輝かせた世界との”宝の友情”
 「二十一世紀の人類のために、何かを残したい」という氏の志は、やがて大きく実を結ぶ。
 各国の元首相・大統領らが一堂に会して、世界的な諸問題を討議する「OBサミット」である。
 「今さら『OBサミット』だ、なんて、年寄りの冷や水だとか、遊びだとか言う人もいます。しかし、私は真剣に考えているのです。一つは、豊かな経験を生かして、引き続き政治を見守りたい。また、各国との交流を深めて、少しでも日本と、世界平和のお役に立ちたい。そして、だれに遠慮することもなく、意見を言いあい、献言しようと考えたのです。現役の指導者は、目前の仕事に忙殺されて、長期的に考えられませんから」と。
 昭和五十八年(一九八三年)から始まり、平成十三年(二〇〇一年)までに会合は二十回ほど続いている。
 私が「OBサミット」の発想を称えると、こう言われた。
 「一つ池田先生に申し上げさせていただきたいことは、OBサミットも良いのですが、『青年サミット』が必要なのではないか、ということです。二十一世紀を志向したときに、先生の言われるとおり、新世紀は『青年の時代』だと思います。政治家による思いつきの青年交流ではなく、人間と人間が正面から向かいあう、心と心の連帯をよりいっそう強固にする青年交流で、世界を結ぶことが大切だと思います。創価学会の皆さんが、これを真剣に実行されていることに敬服するものです」
 人間、議員や高い地位を退いた「後」が大事である。人生の総仕上げを失敗する人が多いからだ。
 その点、福田先生の晩年は、輝いていた。その光は、どこから来たか。それは洋の東西を超えてはぐくんだ”宝の友情”だったのではないだろうか。
 長女の越智和子さんが父である元総理から贈られた色紙には「友は、一生の宝」とあったという。
 OBサミットを共に創設した西ドイツのシュミット元首相をはじめ、福田氏には、総理の座を離れた後も、世界に友がいた。
 そのシュミット氏は「日本は、世界に友人の国をもっていない」と警告したが、福田氏も、それを憂え続けた晩年であった。
 学会を大事に思ってくださり、昭和五十六年(一九八一年)七月、北条第四代会長の逝去のさいには、多忙な時間を縫って、通夜にも学会葬にも出席してくださった。
13  「東海天高く 気亦清し」
 最後に、お会いしたのは、平成三年(九一年)の十二月二十日。八十六歳にして、かくしゃくとしたお姿であった。
 「お正月が終わったら、いっぺん奥さま同伴で、四人でゆっくり食事をしましょう。ぜひ、そうしましょう。日程も打ち合わせましょう」
 そう言ってくださった。
 しかし、実現しないまま、時が過ぎ、平成七年(九五年)七月五日、九十歳で亡くなられた。
 いつも二十一世紀、二十一世紀と言われていた福田先生――ぜひ、生きて新世紀を見ていただきたかった。
 強い方だった。明るい方だった。くよくよしない方だった。何があっても、曇りのち晴れ、雨のち快晴と楽観しておられた。
 芳名録に、こう記帳してくださったことがある。昭和六十二年(八七年)の一月二十二日、渋谷の国際友好会館である。
 二人で「日本を、史上かつてない”人間大国”へ」と語りあった午後であった。
 闊達な名筆で、こうあった。
 「東海天高く 気亦清し」
 ――日本の空は明るく晴れ、空気も澄みわたっている――と。

1
2