Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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安倍晋太郎 元外相 つねに紳士の品格の人

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  「人間として」の誠実なつきあい
 もともと「3.16」の式典には、岸総理の出席が決まっていた。これは岸総理と戸田先生の友情から始まったものであり、総理直々の希望であった。
 しかし残念ながら、総理の来訪は当日の朝、急遽、キャンセルとなり、名代として、総理夫人の良子さん、総理令嬢の洋子さん、そして洋子さんの夫君で、当時は総理秘書官であった安倍晋太郎氏一行が来てくださったわけである。
 戸田先生は、岸総理が自由民主党の幹事長時代から、何度か、お会いし、親交を深めておられた。先生は、岸総理が日本のため、世界のために大活躍してもらいたいと、深く念願されていた。
 戸田先生は、だれに対しても遠慮なく、自由奔放に、自身の意見を言い放った。生来の豪放な性格もあったが、仏法の人間観から「人間は立場ではない。裸の人間性がどうかだ」と、固く信じておられたのだ。
 私ども弟子にも「だれに対しても、『誠実』の二字でつきあっていけ。その場かぎりの適当なごまかしや要領は、絶対にいけない」と厳しかった。
 相手が一国の宰相であろうと、先生のこの信念は不変であった。
 この日の式典でも、ご家族も聞いておられる前で、「私は、岸先生が総理だから偉いと思った覚えはありません。立場でなく、人間として、おつきあいしてきた。これからもそうです。それが友人としての真心です。妙法のもとには、皆、平等です」と語っておられた。
 私も、どなたに対しても、そういう心でお会いしている。
3  「将来に向かって伸びていく宗教」と評価
 式典の司会は私であった。
 席上一八〇センチはあろうかという長身の安倍氏が「義父に代わりまして、ひとこと御礼の言葉やお詫びを述べさせていただきます」と、深々と頭を下げて、あいさっされた。折り目正しい姿が、今も目に焼き付いている。
 「義父は、かねてから戸田先生を敬愛しておりました。昨夜も、皆さま方と、お会いして、祖国の再建について、ぜひとも語りあいたいと申しておったのです……」と。
 じつは、岸総理の来訪中止の背景には、「一国の総理が一宗教団体の会合などに出るとは、けしからん」という某議員らの横やりがあったようである。
 人間としての信義を何より重んじた戸田先生が、こうした政界のやり方に、烈火のごとく怒ったのも事実である。
 「それでは、せっかく総理をお迎えするために準備していた青年たちの真心は、どうなるのか!」と。
 その一方で、岸総理ご自身は「行きたい」という思いであったことも感じておられた。
 式典の後、総理夫人一行をお招きして、ささやかな祝宴が催された。
 何度も、お詫びを言われる一行に対して、戸田先生は、そんなことは、もういいですよと言わんばかりに、上機嫌で呵々大笑され、友人の総理がみずからの後継者と見込んだ一青年と邂逅できたことを喜んでおられるようであった。
 安倍氏も「この信仰をされている人たちは、若い人が非常に多いですね。みんな明るい顔をしておられるということで、私も若いものですから、非常に感銘を受けました。将来に向かつて伸びていく宗教ですね」と、さわやかに語っておられた。
 麗らかな春光の日の忘れ得ぬ出会いであった。
 この二カ月後の昭和三十三年五月、安倍氏は衆議院選挙に初当選し、ご自身の本懐たる政治の舞台に躍りでたのである。
4  維新の地、「死して後己む」の松陰精神で
 以来、何回もお会いした。
 「あの日、岸総理が来られず、申しわけなかった」という気持ちを、ずっと持っていてくださったようである。学会に対し、戸田先生に対して、信義の心を持っておられた。
 岸総理が戸田会長と近しかったという心を継いで、創価学会を大事にしようという心が感じられた。
 きれいな心で、学会のこと、世界のこと、人間と社会の話などを、私と語りあうことを、楽しみにしてくださっていたようである。ともかく人柄のよい方だった。
 礼儀に厚く、しかも表面が丁寧なだけの虚礼ではなかった。
 むしろ、何でも、はっきり話す方だった。率直な言動のなかに、青年のような正義感を感じることが、しばしばあった。
 こんな逸話がある。
 氏が海軍予備学生の時代、友人が落第を言いわたされた。安倍青年は、絶対服従とされていた上官に向かって、落第の取り消しを頼んだ。へたをすると自分も落第になる恐れがあったにもかかわらず。そして見事、友人を救ったという。
 「毎日新聞」の政治部記者時代も、レッド・パージジで先輩が追放されたとき、”こんなことは、おかしい。追放を撤回するべきだ”と主張し、かかわりあいになることを恐れる人が多いなかで、先輩を励まし、就職先の面倒までみたそうである。(富森叡児『素顔の宰相』朝日ソノラマ、参照)
5  安倍氏は、明治維新の震源地・山口の人であった。
 義父の岸総理も、その弟で義理の叔父にあたる佐藤栄作総理も山口の人であった。
 戸田先生は、しばしば維新の歴史をひもといて、語ってくださった。「青年は、よく覚えておけよ」と。
 「松下村塾は、当時、片田舎の小さな小さな塾にすぎない。しかし、そこで学んだ吉田松陰門下の手で、あの明治維新を成し遂げた。久坂、高杉らの青年志士が、松陰の思想を実践したのだ。俊輔、イモ買ってこい、と言われていた最年少の伊藤博文が天下を取ったのだ」
 山口は、歴代の数々の宰相を生んだ、いわば近代日本の急所の地であった。
 だからこそ戸田先生は、正法の大城を山口に築くべく、私に土台づくりを命じたのである。その建設は今、山口闘争と呼ばれている。安倍氏は「山口闘争のことも、うかがって、よく知っています」と言われていた。
 氏の実家は山口県の北西、日本海に臨む油谷町にある。氏の実父・寛氏は、山口県選出の衆議院議員であり、戦時中は反翼賛の立場を貫いて、「昭和の松陰」と呼ばれた反骨の人であったと言う。
 晋太郎の「晋」は、吉田松陰の愛弟子・高杉晋作からとられた。
 小さいころから、毎朝のように、松下村塾の精神である「土規七則」を復誦させられたそうである。「士規七則」の最後、第七則は、こうである。
 「死して後已む〈死而後已〉の四字は言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、是れを舎きて術なきなり」
 (「いのちあるかぎり戦い、死ぬまでやめなどという言葉は、簡潔だが、たくさんの意味を含んでいる。果断にして、堅忍不抜の生き方は、この精神がなければできないのだ。
 死して後已む――安倍氏も、人生の最後の最後まで、目標に向かって歩き続けた。あの特徴ある足早な歩き方で。
6  世界に「日本のヒューマニズム」を
 「政界のプリンス」と呼ばれ、農林大臣、官房長官、通産大臣を歴任、さらに政調会長、総務会長、幹事長の党三役すべてを務めた氏であるが、経歴のなかでも光彩を放つのが、「外務大臣」としての実績であろう。
 三年八ヶ月務められた。(一九八二年十一月から八六年七月まで)
 外相在任中の訪問国は、じつに四十六カ国。(のべ八十一カ国)
 海外出張は二百六十六日。
 移動距離は七十六万三千六百キロ。なんと地球を十九周した計算となり(安倍晋三編『吾が心は世界の架け橋』新外交研究会、参照)、明治以来の「歴代外相の新記録」だという。
 「空飛ぶ外相」と呼ばれた。(安倍洋子『わたしの安倍晋太郎』ネスコ)
 安倍外交は「創造的外交」をめざした。
 このままでは、日本は世界から孤立してしまう。日本の顔が見えず、不気味な印象を与えているようでは、大変な損失だ。「もはや受け身の外交では通らない。日本と世界の平和と繁栄の環境作りを積極的に創造していく外交を展開する時期にきた」(前掲『吾が心は世界の架け橋』)
 国連をはじめ国際社会で積極的に発言し、行動を起こされた。
 泥沼の戦争を続けていたイラン・イラクに対しても、「日本だけが両方に折衝できる立場なのだから」(前掲『わたしの安倍晋太郎』)と、両国を訪問して和平を訴えた。
 日本のヒューマニズムを、行動で示したいと思っておられたのであろう。
 「私は『現場』に行きたいんだ」――深刻な飢餓に襲われたエチオピアなど、アフリカ各国も自分の足で歩いて回った。
7  「はっきり言ってこそ信頼される」
 安倍外交は「信頼の外交」とも言われた。
 「彼が言うのならば、信じよう」という人間関係の構築を大事にしたのである。
 正攻法の人だった。
 剣道の達人でもあった氏は”剣道は面で勝たなければダメだ。胴や小手ではダメだ。真っ向から打ち込むんだ”が持論であった。(前掲『わたしの安倍晋太郎』。以下、同書から引用・参照)
 外交においても、率直に真正面から言うことが、相手に本当に通じることになる。その場かぎりの調子のいい話や、空約束は、だめだ粘り強く、互いが納得できるまで語りあっていきたい。
 それが、氏の「信頼の外交」の心であった。
 「日本人は、ものをはっきり言わないという面がマイナスになっている」と。
 当時、日米間には、厳しい「貿易摩擦」問題があった。
 ”ともかく、日米の対話と、草の根の文化交流を拡大しなければならない”と安倍外相は痛感し、氏の尽力で、国際交流基金に「日米センター」が開設された。(一九九一年)
 私にも「経済摩擦以上にこわいのは、文化摩擦です」と言っておられた。
 一見、おっとりとした、やさしい顔立ちの氏であるが、洋子夫人は、こんなふうに語っておられる。
 「主人を象徴する言葉はただひとこと、『行くぞ』だと思います」「なにか目標を見つけたように急に思い立って『行くぞ』というのが、主人の性格そのままのように思います」
 「行くぞ」
 その熱い心で、対ソ連外交の扉を大きく広げたのも、氏の功績であった。
8  日ソ友好へ「命をかけて」
 八〇年代前半である。東西両陣営は、一触即発の危機にあった。
 ソ連のアフガニスタン侵攻、それに抗議した西側諸国のモスクワ五輪ボイコット。
 さらに世界を震憾させたソ連軍機による「大韓航空機」撃墜事件――。
 日ソ関係も、寒い”冬の時代”が続いていた。
 しかし、安倍外相の就任から三年、突然、「凍りついた歯車」が動き始めた。ゴルバチョフ書記長の誕生である。
 安倍外相は、八五年、八六年の二回、ゴルバチョフ書記長と会見。
 新政権との協議のなかで、焦点だった北方領土問題が「交渉のテーブルに乗る」方向に進んだ。当地への「ビザなし墓参」も再開した。
 こうした実績を見込まれて、一九九〇年一月、すでに外相を辞めて三年以上たっていた氏が、自民党訪ソ団の団長に選ばれた。
 訪ソ団の目的は、ほかでもない、東西冷戦の終結を高らかに宣言し、世界的な注目を集めていたゴルバチョフ大統領の「訪日問題」に確かな道筋をつけることであった。
 なにしろ、お隣同士の国でありながら、ソ連の最高指導者は、まだ一度も日本に来たことがなかったのである!
 そうしたなか、安倍氏が私を訪ねてくださったのは、九〇年の一月九日、氏の訪ソの数日前であった。渋谷の国際友好会館に、お迎えした。ここには外国のお客さまが多いもので、大きくはないが和風の応接室があり、そとでお会いした。
 氏は、「ゴルバチョフ時代こそ、日ソ平和条約のチャンスだ」と直感しておられた。
 「命にかえてでも、やりとげたい」「ゴルバチョフという人物に賭けてみようと思うのです」と。
 私も、その十五年以上前から、何度もソ連を訪問していた。
 ソ連という国のむずかしさも、人民が平和への熱い思いをもっていることも、よくわかっていたつもりである。
 何としても、この巨大な国と友好を広げるべきだ、そうでなければ、日ソはじめ世界の民衆が、いつまでも不安のなかに暮らさなければならない――私は、強く強く友好を念じていた。
 それだけに、安倍氏の真剣さに感銘した。
 氏も、体制が違う国とつきあうことが、日本の幅を広げ、安定させると考えておられた。そして、私が「民間人」の立場で、各国と文化・教育交流を進めていることを「日本の国にとって、本当にありがたいことだと思っています」と、いつも言ってくださっていた。
 この日、語らいは、自然のうちに、「しっかりした日ソ友好のためには、初めから北方領土問題だけを取り上げていたのでは、行き詰まる。むしろ、文化交流や青年交流を幅広く、大胆に進めていってこそ、その結果として、領土問題も解決に向かうのではないか。この道筋を逆にすると、これまでの現実を変えることはできないだろう」という点に行き着いた。
 焦点のゴルバチョフ大統領の来日については「明年の桜の咲くころか、それが無理ならば、もみじの美しい季節に来ていただいてはどうか」。それが安倍氏と私の共通の願望であった。
 「さあ、行くぞ!」|――口には出されなかったが、語りあうにつれて、氏の気迫が、ひしひしと伝わってきた。
9  桜咲くころ――大統領を迎えて
 氏は、訪ソ(一月十三十七日)が無事に終わると、一月二十日、ご丁寧にも再度、私のもとに、あいさつに来てくださった。
 ゴルバチョフ大統領の訪日も決定した。安倍氏と私は、日ソ友好の進展を喜びあった。
 さっそく、この年の九月、ソ連から約二百人の青年が第一陣として日本を訪問した。
 一方、日本からは芸術団が訪ソして、モスクワで「日本文化週間」が開催された。
 いずれも、安倍氏が一月にゴルバチョフ大統領に約束した「八項目」の幅広い交流提案が実現したものである。
 氏は「政治は、仕事がすべてだよ。テクニックじゃないよ」と口ぐせのように言われたそうだが、そのとおりと思う。地位よりも、評判よりも、長さよりも、要するに「何をしたか」、それがすべてではないだろうか。
 この年の七月、私も、モスクワ大学の招聘で訪ソし、縁あってゴルバチョフ大統領とお会いした。
 ちょうど、いったんは確実視されていた大統領の来日が危ぶまれた時期であった。それだけに、私との会見で、大統領が「来年の春」の訪日を確約してくださったことが、ニュースでも大きく報じられることになった。
10  時はめぐり、一年がたち、約束の「桜の季節」にゴルバチョフ大統領夫妻は日本を訪れた。
 このとき、すでにガンが進行し、表舞台に立つことはできない身体になっていた。
 それでも無理を押して、少人数での大統領歓迎会に出向いていかれた。
 氏は、ゴルバチョフ大統領に語った。
 「桜の花が見事に咲きましたね。日ソを『真の友邦』に育てましょう。あなたの訪問で、その土台はできましたよ」
 あのゴルビー・スマイルに負けないほどの、お元気そうな安倍スマイルを、テレピ・ニュースで拝見して、私はうれしかった。
 氏は何かの折、「病気になってから、マスコミによって、何回、死んだことにされたかわかりません」と苦笑して、「マスコミは『第四の権力』と呼ばれてますが、今や『第一の権力』ですよ」と言っておられた。
11  夫人に「支えてくれてありがとう」
 氏は、家庭の事情で、生後数カ月で、お母さんと生き別れになったそうである。相見ぬ母の面影を抱いて、少年時代、山口から上京した折など、お母さんがいるというあたりを探して歩いたこともあったと、うかがった。
 そういう氏を、妻として、ときには母のごとく支えたのが、洋子夫人であられたのではないだろうか。
 選挙のさいも、後輩議員の応援のために地元に戻れない氏に代わって、最前線で動きっぱなしだったそうである。お子さんが小さいとろなどは、知り合いのところに、ずっと預けたままにするほかなかった。
 選挙カーに乗りながら、あまりの疲労で、つい、まどろんでしまい、はっと気がついて畑仕事の人に手をあげると、奥さま、あれは、かかしです、と周りがおかしがったこともあったという。
 「選挙というものは、人の心をいただくようなものだと思います」(前掲『わたしの安倍晋太郎』。以下、同書から引用)と語っておられるが、その一言に、議員夫人の苦闘が凝縮されている。
 氏が亡くなる五日前のことである。病院で看病していた洋子夫人に、しみじみと言われた。「これまでぼくを支えてくれてほんとうにありがとう」と。
 「結婚して以来、あのつらい選挙の後でも、外遊に同行したときでも、わたくしに札を言うことなど一度もなかったのに、それがわたくしにとって最初にして最後の、忘れられない悲しい礼の言葉となってしまいました」
 ゴルバチョフ大統領を日本に迎えてから、わずか一カ月後の一九九一年五月十五日、氏は六十七年の生涯を閉じられた。八九年の同じ日に手術をしてから、ぴったり二年目であった。
12  ”生きて大業を、死して不朽の名を”
 「日本の将来を考えると、世界に貢献する国家を、高い志を持った国家を、命がけで作っていかなければならない」
 その言葉どおり、命がけで働いた氏には、一点の後悔もなかったであろうが、私としてはただ、総理になっていただき、ご自身の手で、ぜひ「日ソ平和条約」を結んでいただきたかった。
 氏が敬愛する高杉晋作が師匠の吉田松陰に「丈夫の死すべきところは」とたずねたことがあった。
 松陰は答えた。(=獄中から晋作に宛てた書簡)
 ――世の中には「身は生きながらも、心は死んでいる者」がおり、「身は滅んでも魂は残っている者」もいる。心が死んでいては、生きていても何の意味があろうか。魂が残っていれば、死んでも何を失ったことになろうか。
 君よ、死して不朽となる見込みがあれば、いつでも死にたまえ!
 生きて大業を成し遂げる見込みがあれば、いつまでも生きたまえ!――。
 「生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」
 「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし」
 晋作は、わが身の病も顧みず、革命の渦を巻き起こし、巻き起こして、二十八歳で、この世を去った。
 そして、大業を残し、不朽の名を残した。
 桜花の季節とともに逝かれた安倍氏の生涯は、維新の舞台を用意しながら、みずからはその舞台に立つことのなかった青年志士を、私に思い出させるのである。

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