Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ベンカタラマン大統領 非暴力という「インドの道」を行く

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  「青年たちは命を捧げていました」
 「”自由のための闘争”に参加したころ、私たち青年は、だれ一人、『自分が生きているうちに、インドの独立が実現する』なんて思っていませんでした。だれ一人です!
 だから、(独立後に、良い地位に就くといった)個人的な報いなど、何も期待していませんでした。
 『闘争のなかで死んでいくんだ!』と、命を捧げる覚悟ができていました。
 青年たちから、そういう精神を引き出すことは普通の人にはできません。ガンジー師だからこそできたのです」
 回想するベンカタラマン大統領は、懐かしそうだった。また誇らしげであった。
 ニューデリーの大統領府の一室で語りあった日のことである。
 九二年の二月だった。
 大統領は現代において、指導者が青年たちに、ある目的のために、彼らの将来を犠牲にさせようとしても、ガンジー師のように、何百万の青年をそんな気持ちにさせることは、とうていできないでしょう!と。
 「そのとおりでしょう。『人』です
 中心者の『人格』で決まります。私も民衆運動の経験者として、このことを確信しています」
 「ガンジー師の人格と精神は、通常の定義ではとらえられないものです。師は、教養のある人、無学の人、その両方を引きつけました。どんな職業の人も。
 また女性をも。当時は『女性は家に閉じこもっているもの』とされていましたが、そんな彼女たちを投獄されても、どんな苦難を受けてもかまわない』という気持ちにさせてしまったのです」
 微笑みを絶やさず語る大統領は、八十一歳とは思えないほど若々しかった
 ガンジーも「いつも精神的には年齢よりも二五歳若かった(ルイス・フィッシャー『ガンジー』古賀勝郎訳、紀伊国屋書店)と言われるが、師匠ゆずりなのだろうか。
 それにしても、ガンジーは、どうして、それほど人の心をとらえたのだろうか?
 人々を引きつける巨大な「引力」は、どこから生まれたのだろうか?
3  人の中に「気高い魂」見つける名人
 マハトマは、飾らない、「近づきゃすい」人だった。
 相手が有名な政治家であろうと、無名の農民であろうと、同じように丁重に接した。
 人の中に、「気高い魂」のきらめきを信じ、見つける名人だった。信じられた人たちは、信頼に応えようとして、勇気を奮った。
 そして何より、愛情の人であった。
 彼の掲げた〈非暴力〉とは〈慈愛〉の別名だった。
 ガンジーは、生涯で通算二千三百三十八日(約六年半)を牢獄で過ごしたが、獄中にいたある日、一人の囚人がサソリに刺された。
 ガンジーは、サソリの毒を自分の口で吸いだしてやった。
 あるとき、ハンセン病にかかった学者が、ガンジーのアシュラム(研修道場)に入りたいと言ってきた。
 無知のために伝染を恐れた人たちが、反対の声を上げた。
 ガンジーは、彼を喜んで受け入れたばかりか、マッサージまでしてあげた。
 ガンジーの心には、「無私」の大空が青く、果てしなく広がっていた。その青空が大きい分だけ、多くの人が引き込まれていったのである。
 彼がいちばん愛したのは、「不可触民」として差別されている人たちだった。ガンジーは、彼らを「神の子」と呼んだ。
 そのうちのある一家を、彼のアシュラムに定住させたとき、道場でも、パニックが起こった。
 偏見は根が深かった。支持者からの寄付も、ぱったり途絶えた――。
 ガンジーは、こともなげに言った。「それなら、私のほうが出ていって、彼らのもとで暮らそう」
 彼は、その一家の少女を自分の養子にもした。
 インドのなかで差別を放置していて、どうやってイギリスからの差別と戦えるのか?
 この人たちを、いじめるのならば、まず私を殺してからにしなさい!
 彼は、この差別に反対して断食し、命を落としかけたこともある。
 「非暴力」は、弟子たちにとって、しばしば「政策」にすぎなかったが、彼にとっては「魂」であり「生き方」であった。だから、どんな場合にも変えるわけにはいかなかった。
 「非暴力」を犠牲にして独立を達成するくらいなら、独立しないほうがいいと思っていた。
4  ベンカタラマン大統領にうかがった。
 「ガンジーを語る言葉は尽きないでしょうが、あえて結論して言うならば、彼の『真髄』は何であったと思われますか」
 「ガンジー師には、いくつかの特質が融合していました。その一つに『宗教性』があります。この特質ゆえに、多くの人々を引きつけることができたのです。もちろん、特定の宗教ということではありません。
 宗教性をもっと同時に、師は、偉大な社会変革者でした。不可触民制度に反対し、あらゆる社会的抑圧に抗議しました。
 一般に、『社会運動家』で、同時に『宗教的』である人は少ないものです。しかし、ガンジー師は、大いなる宗教心をもった社会運動家でした。そして、人々の心に変革をもたらした社会運動家でした」
 「なるほど。宗教から社会への展開。社会から宗教への求道――ガンジーの魂に触れる思いです!」
 宗教と社会変革は、彼にとって〈一つ〉だったのである。
5  民衆の現実を離れて宗教はない
 アメリカの若い宣教師が来て、ガンジーに、宗教について、いろいろ質問をした。
 ガンジーは端的に答えた。部屋の中の二人の病人を指さしながら、「奉仕することが私の宗教です」と。
 彼の”神”は寺院のなかにはなかった。大衆への奉仕のなかにのみ光を放った。
 「私の情熱は、抑圧された階級への奉仕に向けられているのである。そして、政治の世界に入ることなしにこの奉仕をすることはできないので、政治の世界に身を皆いているのである」(ガンティー『私にとっての宗教』訳者代表・竹内啓二、新評論)
 「現実の問題を考慮に入れず、問題の解決に役立たない宗教は、宗教ではない」(同前)と言ったこともある。
 政治にずを向けることは、大衆に背を向けることであり、それは信仰に背を向けることであった。人間への愛を捨てることであった。
 彼にとって、それは不可能だった。
 「三億人の失業者がおり、毎日数百万人もが職を失い、自尊心を失い、神への信仰を失って堕落していることは非常に不幸なことに違いない。目の輝きを失い、パンだけが神である無数の飢えた人に、神の言葉を示しても、犬に示すようなものだ。
 彼らに尊い仕事をもたらすことによってのみ、神の言葉を示すことができる。素晴らしい朝食の後、さらに素晴らしい昼食を楽しみにしながら、ここに座って神について語ることは結構なことではある。だが、一日に二食さえも食べることができない無数の人に対して、どうやって神を語ればよいのか? 彼らにとって、神はパンとバターとしてのみ現れることができるのだ」(同前)
 こうして、彼は宗教的になればなるほど、洞窟や伽藍の奥にではなく、「大衆のもとへ」行くことになった。そこが彼の道場だった。
 「大衆への奉仕」こそが彼の宗教であり、彼の政治であったのだ。
6  糸車が紡ぎだした「新生インド」
 私のもとに、一つの宝がある。
 小さな、素朴な「糸車(チャルカ)」である。
 インドのガンジー記念館から頂戴した。
 何の変哲もない紡ぎ車。
 しかし、これとそが”インドに自由をもたらした武器”なのだった。
 朝な夕な、老いも若きも、女性も男性も、知識人も大衆も、カラカラと糸車を回した。
 その軽快な音が”自由への行進曲”となった。
 「イギリス帝国は出ていけ! われらはわれらの力で生きていく!」
 数百年の隷属に、下を向いていた人々が顔を上げた。
 みずから紡ぎ、みずから織った服を着て、「帝国の作った服はいらぬ! われらにはわれらのやり方がある!」。
 糸車から紡ぎだされたのは〈新しいインド人〉だったのである。
 自信をもった〈新しいインド人〉が次々と現れ、団結したとき、〈新しいインド〉という布が織りだされた。
 その一人が、ベンカタラマン第八代大統領であった。
7  ネルー首相に励まされ政治の世界へ
 「九歳のときです学校の友だちと、裁判を見に行きました。被告は、国民会議派の労働者でした。反英運動のせいで、つかまったのです。弁護士は、私の父でした。
 そのころ、国民会議派の人間を弁護しようという人などいません。父には、その勇気があったのです。
 裁判の場所の近くに、国民会議派の人たちが集まっていました。彼らは、外国製の服を積み上げて、火を放ちました。それは抗議の火柱でした。炎を友だちと見ているうちに、私は気持ちが高ぶってきて、自分のシャツを脱ぎ、火の中に投げ入れました!
 シャツなしで帰った私を見て、母は『お父さんが何て言うか』と心配しました。しかし、帰宅した父は言いました。『それでいいんだ。若者は、そうするべきなんだ!』」
 お父さんの言葉は、後年、ネルー首相から贈られた言葉に重なる。
 一九五二年、総選挙に立候補を勧められたベンカタラマン氏は、自信がなく、「辞退したい」と首相に申し出た。
 首相は言った。「何を、ばかなことを! 若い人は戦うべきだよ!」
 対立候補は大富豪だった。イギリスから爵位を授けられているほどの著名人である。
 しかし、人々は言った。
 「あの若いのは、独立のために戦って、牢にまで行った。一方、この富豪は?
 彼は金をありあまるほど持っている。しかし、ただの一ペニーでも、われわれのために使ったことがあるか? 今になって、票が欲しくて、『皆さまのために使います』と言ってるだけだ」
 ベンカタラマン氏は、下院議員に当選した。
8  独立後、近代的な法体系の整備を
 氏は、独立以前から、ネルー首相を支えて働いておられた。
 知り合うきっかけは、首相の通訳をしたことだった
 今のマレーシア、シンガポール地域が、戦後、ふたたびイギリスに支配され、「日本軍占領時代に、日本に協力した在住インド人」が追及されていた。
 その弁護団の一人として、ベンカタラマン氏が派遣された。その地のインド人労働者は、ほとんどが南インド、夕ミール語地域の出身だった。氏と同じである。
 そこで、支援のためにやってきたネルー首相の話を「タミール語に通訳する」必要があったのである。
 通訳は、うまくいった。
 しかし、あるとき、愛国心の高揚した首相が「インドこそが世界の中心」というようなスピーチをしてしまった。
 まずいと思った氏は、自分の判断で、別の話をした。割れるような拍手。しかし、おかしいと思った首相は「ベンカタラマン君、君は通訳してるのかね? それとも、私の代わりにスピーチしているのかね?」。
 その声まで、マイクに入っていて、五万人の聴衆に全部、聞こえてしまった。会場が大いに沸いたことは言うまでもない。これ以来、首相は、氏の能力を深く信頼するようになった。
 そして氏は、建国まもないインドで、近代的な法体系の整備に尽くした。
 もちろん政教分離が徹底された世俗国家である。そうでなければならない。ガンジーが説いた”政治と宗教の一体性”とは、あくまで政治家個々人の「内面」に倫理性・宗教性が必要だということであった。
 国の発展のためのプランも、ネルー首相は欲しがっていた。
 「そのころ、年配の議員は活動力がにぶく、保守的でした。首相の示唆に対して喜んで従うという気風もなかった。だから首相は、自分の仕事を支えてくれる人を求めていました。その一人に私はなりました。婚姻法の近代化とか、計画経済の試みとか、首相がしたいと思っていることに、私も同じように取り組みました」
 絆は強かった。首相は、氏が議会で話すとなると、話す内容を聞きもせず、信用してまかせていたという。
 氏は「労働運動にも、ガンジー師の方法を」と考え、非暴力の労働運動を模索した。
 また、インドで初めての月刊誌「労働者 法律ジャーナル」を出した功績も大きい。全国の判例などを紹介したもので、働く大衆を法的に守るうえで、大きな力となった。
 ネルー首相の決定で、何度か国連へのインド代表にもなった。
 このときも「外交はわかりません」と辞退する氏に、首相は笑って言った。
 「そんなこと言うのは君だけだよ。ほかのみんなは、アメリカに旅行したくでしょうがないんだからね!」
9  「釈尊の道」こそ「最後の解決策」
 ともかく、いかなるときも、氏には「師匠の教えを、現在に生かし、未来へ永遠に伝えていく」という使命感があった。
 私との語らいでは、こう言われていた。
 「非暴力を世界に広めなければなりません。現代の世界には、不調和と対立と憎悪が横行しています。これを解決するために、さまざまな人たちが、さまざまな解決法を追求してきました。
 平和について『戦争を終わらせるために、戦争するのだ』と言う人たちもいます。しかし、そう言って、戦争が終わったためしはありません!
 非暴力という『インドの道』しかありません。これは釈尊が教えられたことです。釈尊より前、ヒンドゥー教では”非暴力”とか”不殺生”ということは強調されていませんでした。釈尊が非暴力を説かれて、それを取り入れていったのです。『この道』こそが、現代の課題に対する『最後の解決策』です!」
 そして、仏教の文化を共有する日本が、この「釈尊の道」を実践し、世界にも広げてほしいと語られたのである。
10  「インドも日本のようになれ」「いな!」
 しかし、近代の日本は「釈尊の道」とは正反対の道を歩んできた。
 一九三八年(昭和十三年)、日本の国会議員が、ガンジーを訪ねた。日本軍の中国侵略が激しくなっていたが、それには触れずに、彼はきいた。(前掲『ガンジー』。以下、同書から引用・参照)
 ――インドと日本の融和は、どうすれば達成できましょうか。
 質問に、ガンジーは、ぶっきらぼうに答えた。
 「日本がインドに貪欲な目を向けなくなれば、可能だろう」
 別の時、英国在住のインド人が、ガンジーに言った。
 「インドも日本のようにならなくてはならぬ。われわれは自らの陸軍や海軍を持ち、威光を輝かさねばならぬ。そうするならば、インドの声は世界中に轟きわたるだろう」
 しかし、それは、ガンジーが望む〈新しいインド〉ではなかった。
 ガンジーは、首を横に振った。
 「あなたはインドをイギリス的になさろうとしています」
 それでは「イギリス人のいないイギリス支配」であり、何も変わらない、と。
 ガンジーは、暴力という「野獣の掟」によらない新国家を、非暴力という「人類の法」に基づく新社会を手探りしていたのである。
 行くべき道は〈剣の道〉ではなく〈愛の道〉だった。
 彼は、大英帝国に対しても「キリスト教精神の道を踏み外した」ことを叱っていた。
 今、二十一世紀。
 日本は、世界は、古くて新しい〈人類愛の道〉を歩む覚悟をもつべきだ。
 「心の大掃除を!」と叫んで、道半ばに倒れたマハトマに続く覚悟をもつべきだ。
 そこにしか、真の〈新しい世紀〉はない。
 元大統領は九十歳になられた2000年にも、SGI運動への共感の言葉を寄せてくださるとともに、「ガンジー師の教えを、二十一世紀へ伝えたい」と、熱っぽく語っておられたという。
 あの「青春の出会いの日」から五十余年。
 師への誓いを、今なお胸深く抱きしめておられるのである。

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