Nichiren・Ikeda
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エンフバヤル首相
新生モンゴルの文人政治家
随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)
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2 「来客の絶えない人は幸せ」
「ぜひ、うちに寄っていきなさい。食事もあるから」
長老格の男性の言葉に、学生たちは甘えることにした。
”長老”のゲル(天幕式住居)にたどり着くと、さっそく馬乳酒を勧められ、「肉うどん」が振る舞われた。
さらに隣の息子さんのお宅にまで案内され、そとでは、わざわざ山羊を一頭つぶして、「ホーショール」という大きな揚げギョーザを作ってくれた。
「疲れただろう? どんどん食べなさい」
家畜は、貴重な財産である。めったに殺さない。とくに夏場は。家畜が乳を出すので、その乳をしぼって加工し、食糧にするからだ。
乳の出ない寒い季節だけ、最小限の家畜を処分し、肉を得る。それが決まりなのだ。
――助けてくれたうえに、大事な山羊を処分してまで、ごちそうしてくれた。しかも、この人たちは何の報酬も考えていない……。学生たちは涙が出る思いだった。
「困ったときには、助けあうのが当たり前」なのだという。それが「遊牧民の伝統」なのだという。これは、ある創価大学生の実体験である。
2000年の七月、モンゴルの新首相に、ナンパリン・エンフパヤル氏が選ばれた。まだ四十二歳の若さである。
私が氏とお会いした一九九三年には、文化大臣をされていた。ご自身が文学者であり、翻訳家である。
お迎えした日の東京は、十一月とは思えない暖かい日であった。
しかし、大臣によると「今ごろ、モンゴルでは、もう零下一五度です」とのこと。あらためて、かの国の自然の厳しさを思った。
モンゴルには、こんな言葉がある。「来客の絶えない人は幸せである。家の前に、いつも客の馬がつながれている主人には喜びがある」
ありがたいことに一年中、来客の多い私も、そのとおりだと思う。
一九九〇年からの民主化の後、「新生モンゴル」から要人をお迎えしたのは、この日が初めてだった。
文化大臣も「人と人の絆を大事にする」モンゴルの心を語ってくださった。
「わが国では、食事どきに訪れた人を、とくに厚くもてなします。『家族のことをよく知っている人だからこそ、食事どきに訪問するのだ』と考えるのです。しかも、互いの家を訪れるといっても、家は大草原の中に遠く散らばっています。だから、『わざわざ大変な道のりを越えて来たんだから、心からごちそうしてあげたい。長旅で疲れ、おなかがすいているだろう』と思うんです」
今の日本だったら、どうだろう。食事どきに来客があったら、「さあ、困った」「どうして、こんなときに」と、なりかねない。
3 大震災では真っ先に救援物資届ける
昔からモンゴルでは、見知らぬ客であっても、「よく来た、よく来た」と言って歓待する。
「人生は旅」というが、ここでは、だれもが、遠くから遠くへ行く旅人だ。だから「旅人の心」を知っている。
ゲルを留守にするときは、めだっ場所に菓子や飲み物を置いておき、帰ってみて、だれかがたくさん飲み食いしてくれていたら喜ぶという。
こういうのを、本当の”豊かな暮らし”と言うのかもしれない。
大草原に垣根がないように、草原に暮らす人たちの心にも垣根がなくなるのだろうか。
阪神・淡路大震災のときにも、真っ先に救援物資を届けてくださったのが、モンゴルであった。そして、届けるやいなや、「長くいると、ご迷惑になりますから」と、飛行場から、そのまま帰国された。滞在時聞は九十分だった。
私は大臣に申し上げた。
「貴国には『心』があります。『人間性』が光っておられる。日本では、自然が消えるにしたがって、人間性まで消えつつあります。『近代化イコール幸福』ではありません。『発展途上国イコール不幸』では、絶対にありません。近代人は、利口なようで、いちばん愚かなことをしている場合がある。核兵器を作って、自分で自分を苦しめているのも、その一つです」
日本に住むモンゴルの方が「日本に来ていちばん、びっくりしたのは、『いじめ』があること」だと言う。
「モンゴルでは、家庭はもちろん、学校でも、職場でも、『いじめ』というものはありません。だから『いじめ』という言葉もないんです。日本の『いじめ』に似た状況を、あえて探すとしたら、ただ一つ軍隊の中かもしれません」
軍隊――象徴的な言葉である。
4 民主化後の発展の活力を仏教に期待
しかし、そのモンゴルでも、急速に「よき伝統」が失われつつあるという。エンフバヤル新首相も、それを憂えておられる。犯罪も増えているらしい。
首都ウランバートル在住の日本人によると、「民主化後、『お金がすべて』という風潮が強まってきた」とのこと。
「一カ月に何度も声をかけられます。『合同で何か会社をやらないか』『幼稚園を一緒に経営しないか』『だれか投資してくれる日本人を紹介してくれ』。まるで目の中に『$マーク』が書かれているみたいだと言ったら、言いすぎかもしれませんが先進国の情報が入ってこなかった昔は、『世界はモンゴルとソ連だけ』でした。近所に特別、裕福な人もいない。しかし今は、テレビから先進国の情報が、どんどん入ってきます。『上には上がある』ことを知ってしまったんです。『お金があれば何でもできる!』と思う人が増えてきたと感じます」
一時は、外貨獲得のための「カジノ建設」案が、国会で論議されるほどだったという。結局、廃案になったが、「転換期」の舵取りは大変なようだ。
コインに両面あるように、民主化にも善悪の両面があるそれでも、断じて、民主化の流れを後戻りさせるわけにはいかな
い 。――エンフバヤル首相の決意は固い。
それでは、どうやって、経済の成長と「モンゴルらしさ」を両立させるのか?
首相は、その智慧は「仏教」のなかにあるのでは、と考えておられるようだ。
「元来、モンゴルは仏教国です私は、仏教の精神こそ、モンゴルの発展の原動力になると確信しています。一般に、仏教は『受け身の宗教』と考えられていますが、本当は『行動的な思想』であり、活力の源泉だからです」
かつて、SGIの代表に語られた言葉だが、ふだんから仏教書をよく読んでおられるという。
法華経の二つの章を私が解説した『方便品寿量品講義』について、「モンゴル語に翻訳してほしい。翻訳者がいなければ、私が自分でやりたい」とまで言われたと聞いた。
首相は、ロシア語と英語が堪能であり、欧米の記者団との会見では英語で答えるkおともある。
私と話しているときも、「仏教では『今世に会う人は、前世でも縁があった』と説きますが、今日、こうしてお話しできるのも、前世でお会いしたからではないかと思います。そのときの対話の『続き』をしているような気がします」――。
初対面の距離が一気に消え去るような言葉であった。
5 社会主義時代に、仏教を徹底弾圧
モンゴルの仏教は、しかし、長い苦しみの道を歩んできた。
モンゴルに社会主義政権ができたのは、ソ連誕生の四年後、一九二一年。「世界で二番目」である。
「粛清」の嵐は、この地にも吹き荒れ、名前が記録されている処刑者の数は、「軍人・七百人」「民間人・九千八百人」「僧侶・一万七千六百人」である。
徹底した宗教弾圧であった。
大寺院も破壊された。
寺宝も散乱した。
そして半世紀後、一つの「奇跡」が起きた。
民主化後――宗教が自由になり、破壊された寺が復興されるようになったとき、行方不明だった仏具が次々に戻ってきたのである。
じつは、半世紀の間、在家の信者たちが大切に隠しもってきたのだという。その間、政府に見つかったら、自分の身も危ない。売りに出せば、高値で買う外国人はいくらでもいた。
しかし、危険にも誘惑にも見向きもせずに、じっと宝を守り、信仰を守り、自分を信じて預けた人への誓いを守りぬいてきた。
そして、時きたって、喜んで持ち寄ったのである。
権力が、どんなに弾圧しようとも、信仰は、壊された形のなかにはなかった。はぎとられた位のなかにはなかった。名もなき民衆の心の中に、脈々と流れていた。地下水として伏流しなければならなかったときも、生きて、流れ続けていたのである。
かつて、日本軍が「ノモンハン事件」で、モンゴル・ソ連の連合軍と戦ったとき、「モンゴル軍の兵士は塹壕を掘るのをためらった」と聞いたことがある。理由は、地中の生き物に対し”無益な殺生”をしてしまうのを恐れたのである。
一九三九年(昭和十四年)のことだ。社会主義政府は仏教を弾圧していたが、民衆の胸の中には生きていた。
モンゴル人と日本人との間には、深い親近感がある。”相撲”や、民謡の節回しも似ている。遺伝子も、きわめて近いのだという。
しかし、具体的な接触となると、不幸なことに「戦争の歴史」しかなかった。この「ノモンハン事件」と、七百年前の「元寇」である。
ノモンハンとは、いわゆる「満州国」とモンゴルの国境にある地名である。日本軍は、ここでの戦闘で、二万人の死傷者を出し、機械化されたモンゴル・ソ連軍に大敗した。
しかし、大敗の教訓を十分生かすととなく、この「戦争」をあえて「事件」と呼んで、ことさら小さく扱おうとした。つごうの悪い事実を直視しなかったため、その後も同じ過ちを繰り返して、犠牲者を増やしたと言われている。
「事件」と言って、ごまかしても、それは、まぎれもなく「戦争」であった。モンゴルでは、「ハルハ河戦争」と呼んでいる。
6 「空白」の歴史を文化で埋めたい
私は、エンフバヤル氏が来られた機会に、どうしても申し上げたかったことがあった。それは、両国の間は「戦争の歴史」しかなく、ほかは「空白」のままになってきた。この空白を「文化」で埋めたいということである。
そして「来客が絶えない」ような、にぎやかな友好関係をつくりたいと。
私の胸には、恩師戸田先生の言われた一言があった。
「大作、二人でモンゴルの大草原を、馬で走ってみたいな!」
思師の胸中にあった「大草原の道」――それを「平和の道」「文化の道」として、広々と開いていきたかった。
そのために、私なりに、民音(民主音楽協会)をはじめとする諸機関で努力もしてきたし、子どもたちのために創作物語『大草原と白馬』も書いた。
若き文化大臣は、「同感です。過去の不幸な歴史を乗り越えるためには、『相互理解』が必要であり、そのためには『文化交流』とそ大切です。今、一言われた『文化』には、広範な意味があると思います。芸術・教育・エコロジー(自然環境への配慮)・宗教・歴史観――そういったものすべてが入っていると思います」と、情理を兼ねそなえた、お答えであった。
氏はモスクワの文学大学で、大学院まで進んでおられる。
「専攻した作家は?」ときくと、「アイトマートフ氏です」とのこと。そう聞いて、うれしかった。
アイトマートフ氏と言えば、私はともに対談集(『大いなる魂の詩』、本全集第15巻収録)を発刊した親友である。
エンフバヤル氏も、「大学の先輩」にあたるアイトマートフ氏を誇りにしておられた。
7 「権力が腐敗するとき、詩が清める」
文学者であるエンフバヤル首相は言う。
「私は、たしかに政治で多忙ですが、愛とか慈悲といった『永遠の価値』をもつものを忘れではならないと思います」
そのとおりである。
私は、かねてより「真の政治家は詩人でなければならない」と考えてきた。
「永遠の価値」を、しかと見つめている人でなければ、現実の「泥沼」に足を取られて、そこから脱出することは並大抵のことではないからだ。詩人だけが「あるべき未来」へのビジョン(展望)を、生き生きと描けるからだ。
唐突のようだが、アメリカのケネディ大統領の言葉は、どの国でも真実であると思うのである。
「権力が人間を傲慢にするとき、詩が彼に自己の限度を思い出させる。
権力が人間の関心分野を狭めるとき、詩が彼に人間存在の豊かさと多様さを思い出させる。
権力が腐敗するとき、詩が清める」(暗殺の年〈一九六三年〉マスト大学での講演から)
その意味で、エンフバヤル氏のような教養人を首相に選ぶ国の未来が明るく思われてならない。
モンゴルは、だれでも詩を暗唱できる「詩心の国」でもある。
8 ”脱工業化”のモデルづくりに挑戦
2OOO年の夏、新首相は、政府の「行動計画」の筆頭に「教育」をあげた。
ちなみに、一九九二年の筆頭は「経済」であり、九六年は「行政」であった。
いよいよ、「モンゴルの心」が光る人材立国への旅が始まったのだと期待したい。
それは、自然とともに生きるモンゴルの人々の「生命愛」が、経済発展と調和しながら、二十一世紀の「脱工業化社会」の一つのモデルを築けるかどうかという挑戦である。
軍事力の時代は終わった。経済力だけの時代も、とうに終わっている。
もちろん課題は多いが、私はモンゴルの挑戦に注目している。
私の耳朶には、あの日、首相が教えてくださったチンギス・ハーンの言葉」が残っている。
「わが(小さな)数尺の体は滅びるもよし。わが大いなる国は衰えることなかれ」
わが身一身のことなど、どうでもよい! 社会の遠き将来のために、死力を尽くすのみ!
この心が、リーダーにあるかぎり、どんな困難も乗り越えていけるにちがいない。
「モンゴル」とは「勇敢な人」を意味するとも言われる。
風強く、光まぶしく、青空が、切りとられることなく、どこまでもどこまでも広がっているモンゴル。
〈草洋〉――青き草の大海原が、目の届く果ての果てまで、さえぎるものなく広がっているモンゴル。
悠久の天地そのものを「われらが住まい」として、生涯を旅人として生き、旅人として天に帰ってゆく人々。
人類が行き詰まり、途方に暮れて立ち往生してしまったとき、この国が、地平線のかなたから駆けつけて救ってくれる情景が目に浮かぶ。
「よし、わかった! 力を貸すよ。『人間らしく生きる』っていうのは、こんなに楽しいんだって、教えてやるよ!」と。