Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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李寿成元首相 韓国の”熱き溶鉱炉”

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  李教授の真剣な説得で「惨事」を回避
 私はうかがった。「李先生にとって、学生とは、どんな存在でしょうか」
 「学生は――一人一人が、それぞれの家庭の『宝』です。また、次代の社会の『柱』です。だから彼らが不当な弾圧を受けるなら、断固、守らなければなりません。そして学生自身も『人のために自己を犠牲にできる人間』になってほしいのです」
 李先生のこの「わが子のごとく学生を思う」慈愛を、だれもが知っていた。
 だからこそ、学生たちも李教授の声には心を聞き、耳をかたむけたのであろう。
 教授は、内務部の長官と連携をとって、「解散さえすれば、学生を安全に帰宅させる」という保証を取りつげた。解散して、キャンパスに一戻る学生たちと一緒に、雨に打たれながら歩く李教授の姿があった。
 数日後、光州市で、数百人の学生・市民が軍によって殺されるという惨劇が起こった。
 ソウルでも、教授の説得がなければ、どうなっていたかわからない危ういところであった。
 しかし、その直後、教授は軍に連行されてしまった。取り調べを受けた。
 あの日、キャンパスに戻った教授が、「さぞかし、みんな、おなかがすいているだろう」と、学内の食堂でご飯を炊いてもらい、近所の店でインスタント・ラーメンを買ってきたことを問題にされたようだ。「食事で、学生を、ねぎらった」と言うのである!
 教授は「辞表」を大学に提出。教授としてはとどまったが、学生部長の任をはずれた。教授の辞任を非難したのは、事情を知らない人か、心なき人々だけであった。
 学生を処分するよう当局から迫られでも、教授は断固拒否した。
3  「母の涙」「父の教え」が気骨をはぐくむ
 李教授の気骨を育てたのは、ご両親であった。
 ソウル駅前での事件の、ちょうど二十年前、李教授の弟さん(後に国会議員となった李寿仁氏)がソウル大学の学生として、デモに参加していた。一九六〇年の四月十九日である。
 そのとき、兄弟の母堂は言った。
 「ごらんなさい! 国の未来を担う学生に対し、銃を向けるような政権は、これから必ず崩れるでしょう。『民の心』は『天の心』です」
 四日後、帰ってきた息子に母は告げた。
 「私は、お前が先頭に立っていると思っていたし、必ず生きていると信じていました。この隊列に参加したことは、生涯、お前の心に誇りを与えるでしょう。正しくない政権は滅びるでしょう。ただ、国の柱である学生が道ばたで血を流すことが、ふびんでなりません」
 母堂の目にも、涙がにじんでいた。
 お父さん・李忠栄イチユンヨン氏も強靭な「気骨の人」であられた。
 李家は、韓国の族譜(一族の系譜)研究の大家、ハーバード大学のワーグナー教授が「韓国の代表的な名家」にあげたご一家である。
 日本が韓国を植民地にするなか、父君は熊本の高校に学び、東京帝大の法学部を卒業。判事になられたが、学生のころも「韓服」で通した。
 珍しがる日本の学生に、韓服の良さを教え、判事になっても韓服で出勤した。
 日本語を強制されるようになってからも、「日本に方言がなくなったら、私も朝鮮語を話すのをやめましょう」と圧力をはね返した。神社参拝も拒否したという。
 「父は『創氏改名(日本名への強制的な改名政策)』をしなかったために、判事の職を追われました。そこで弁護士になろうとしましたが、これまた日本の総督府が開業を認めませんでした――」
 「ひどい日本でした」
 私が言うと、李先生は「それでも父は、日本人を憎んでいなかったと思います。『日本人のなかにも善い人はいる。韓国人のなかにも悪い人はいる。どんな人にも、愛をもって接していくべきだ』。こういう原則を父はもっていました。私は、知らずしらずのうちに、父から『人を愛すること』を学びました」
 李家の教えの一つに「冷たいティーカップになるのではなく、熱い溶鉱炉になれ。正しいもの、間違っているもの、すべてを溶かす溶鉱炉になれ」がある。
 「一つの物差しだけで、善悪を分ける人になってはならない。溶鉱炉nおような”愛”と”和解”で、人を善導していけ」という心だという。
 父君はいつも「決して、うそをつくな。心に一点のやましさもないよう、堂々と生きていきなさい」と教えた。
 子どもたちに「将来、同胞に仕えよ」と言う以外、どんな職業を持てとも、いわんや高い官職につけなどと言うことはなかった。
 そんな父君がいちばん尊敬していた人物――それは「韓民族独立の大英雄」金九キムグ先生であった。
4  韓民族独立の大英雄に会う
 父君は、「巨木(偉大な人物)に会わせることが『夢の木(子ども)』の背丈を伸ばすことになる」――と信じておられた。
 「一九四八年の六月だったと記憶しています。父が『金九先生に、お会いしに行こう』と、ソウルの西大門の先生のお宅に連れていってくれたのです。そのとき、金九先生は私の頭をなでてくださいました。そして、ご著書の『白凡逸志ペクポムイルジ』(自伝)に『李寿成イスソン学人がくじん』『恵存けいそん』と署名をして贈ってくださったのです。金九先生ほどの方が、小学生にすぎない私に『恵存』と尊敬をこめて書いてくださったことが、今もって不思議です」
 このとき金九先生、七十一歳。
 後の韓国首相、李寿成少年は十歳
 先生は「同胞の大きな柱になりなさい」と、少年の肩をたたいて激励されたという。
 金九先――日本の軍国主義との戦いに生涯を捧げた偉人である。韓国では、最近も「過去百年の歴史で最も誇らしい人物は?」とのアンケートで、圧倒的な支持を受けて第一位であった。
 しかし、おおかたの日本人は、金九先生の名前さえ知らないかもしれない。残念なことである。
5  「心の中の三十八度線」
 李少年が金九先生に、お会いした四八年六月は、ちょうど韓国で”南”だけの単独総選挙が実施された翌月であった。
 金九先生は、「単独選挙・単独政府は、南北の分裂を固定化するものだ」と強く反対した。
 一生をかけて追い求めてきた祖国の独立は、断じて「分断の独立」ではないのだ!
 先生は「心の中の三十八度線が崩れなければ、地上の三十八度線もなくならない」(千龍淑編『韓国近代の叫び』内田富夫訳、雲亭文化社)と訴え、三十八度線を枕に死ぬことがあろうとも、平和統一を成し遂げたい”と、四月には”北”の平壌をみずから訪問された。
 しかし、五月十日には、南の単独総選挙が行われ、李承晩政権が発足した。
 冷戦を背景に、多くの論調が南北の単独政府誕生を支持していた。その結果、金九先生は、右からも左からも攻撃され、女性スキャンダルまで、捏造された。
 ”逆風が吹きつけるなか、金九先生は知人の青年に「将来、必ず、今、わしの言っていることが、どういうことなのか、わかるようになるだろう」と語られたという。
 そういうなかでの、李少年への激励であったのだ。
 その翌四九年、一家はソウルの恵化洞へファドンの家に引っ越してきた。その家は、かつて金九先生が一カ月あまり住んだ家であった。不思議な縁を、お父さんは大いに喜んだ。
 引っ越してきた翌日のことだった(四九年六月二十六日)。外から駆け込んできた客が「金九先生が狙撃された!」と伝えた。皆、息を呑んだ。父母と四男四女の一家である。
 お父さんが涙を流していた。
 その日、ソウル全都に、民衆の働突が響いた。
 「天も地も泣き 海さえも泣く声
 終わりなく泣く声 君よ 聞いておられますか
 君よ 聞いておられますか
 同胞の進む道が険しく遠くとも
 君がおられるから 心強いと信じたのに
 二つに分かれた地 このままにして
 天古のハンをいだいて どこに行かれるのですか
 どこに行かれるのですか」(宋建鍋「李承晩と金九の民族路線」の中で紹介され追悼歌。和田春樹・高崎宗司編訳『分断時代の民族文化』所収、社会思想社)
 そして李少年も、初めて「父の涙」を見た。
 「国の大きな柱であられる金九先生が亡くなられた! どうしたらいいのか!
 子どもたちよ。国と同胞のために命を捧げる人こそが立派な人なのだ。お前たちも、そういう人になるのだよ……」
 国と同胞のために――何度も聞いていた言葉だったが、この日ほど衝撃的に聞いた日はなかった。
6  「軍国主義」対「文化の力」
 私が李博士を東京牧口記念会館にお迎えしたのは一九九九年十二月二日。金九先生の殉難五十周年の年であった。記念会館は言うまでもなく、日本の軍国主義に殺された牧口初代会長を顕彰する建物である。
 金九先生も牧口先生も、「力で他国を抑えつける」野蛮な権力と、まっこうから戦われた。
 私は尊敬をこめて、金九先生の次のような言葉に共感を語った。
 「わたしは、われわれの国家が、世界でもっとも美しい国となることを願っている。もっとも富強な国となることを願うものではない」
 「ただ、かぎりなく多く持ちたいものは、高い文化の力である。文化の力は、われわれ自身を幸福にするばかりでなく、さらに進んでは、他国へも幸福を与えるだろうから」
 「とりわけ教育の力によって、必ずや、この事業は成し遂げうるものと信ずる」(『白凡逸志』梶村秀樹訳注、平凡社)
 文化と教育の力で平和を!
 創価学会の根本精神と同じである。
 李博士は、うなずいて、「金九先生は言われました。『真の世界平和が、わが国から、わが国によって、世界中に実現されていくようになることを願っている』と。
 先生は、日本のことも憎んでおられませんでした。日本に占領されていたときには熾烈に戦った。しかし日本が退いた後は、お互いが信頼しあい、仲良く協力し、世界の平和のために力を合わせるべきである――そういうお気持ちだったのです」。
 なんと大きな”溶鉱炉のような人間愛”だろうか。今なお反省なき日本の多くの指導者の心根と、天地の差がある。
 そもそも「三十八度線」も、もともとは、日本の武装解除を目的とした米ソによる「暫定的な境界線」のはずだった。つまり、日本による半島占領がなければ、その後の分断もなかったとも考えられるのである。
 その事実を、日本人はどこまで真摯に受けとめているだろうか。
 分断の悲劇に幕を――そう願う李博士は、金大中大統領の諮問機関「民主平和統一諮問会議」の首席副議長も務められた。
7  連れ去られた父
 金九先生の暗殺の翌年、李家に大悲劇が起こった。
 父君が「拉致」されたのである。
 一九五〇年、韓国動乱(朝鮮戦争)のさなかだった。忘れもしない八月の十日である。以来、生死も定かではない。
 父君は、それ以前、李承晩大統領から、韓国初の法務部長官(法務大臣)になるよう要請されたが、断ったという。
 李博士によると「父は、日本の支配下で判事をしていた自分は、その任務にふさわしくないと思っていたのです」ということになる。
 しかし、父君は一度も節を曲げていないのだ! それどころか、多くの独立の闘士に無罪を言いわたしたり、釈放した父君であった。
 「駐日公使にという話も、父は断りました。当時は大使はなくて、公使だけだったのです。父は李大統領とは『路線の違い』を感じていました。心では金九先生を尊敬申し上げていたのです。李大統領の取り巻きの人たちが、父を『共産主義者』として追い出そうとしたこともあります。成功しませんでしたが――」
8  女手ひとつで――偉大な韓国の母
 父君が連れ去られた後、八人の小さな子をかかえ、お母さんの苦労は並大抵ではなかった。
 日本女子大学で文学を学んだ才媛であられるが、当時は女性が働ける職場もない。
 コムシンという韓国伝統の靴を売ったり、手に入った車でタクシー業を開いたり、ついには唯一の財産である家を売った。十回も引っ越しをし、そのたびに家を小さくしては子どもたちを学校に行かせた。
 貧しいなかでも、子どもが本を買うことには一度もお金を惜しまなかった。
 「友人は財産である」と、子どもたちの友人を、いつも喜んでもてなしてくれた。
 「叱るよりも、ほめるほうが男らしい勇気をはぐくむ」という教育方針。決して、頭ごなしに叱ったりしなかった。子どもたちにも「絶対に、先に腹を立ててはいけない。我慢する『忍』の字を三回、心の中に書きなさい」と言い聞かせた。
 「日記を書く人は正道を歩む」と、日記の習慣をつけさせ、読書による思考力と、文章力、表現力がいかに大切であるかを教えた。
 「お父さんは、目に見える財産の代わりに、”目に見えない財産”を残してくださった。お前たちも、小さなことでも、不当なことには膝を折つてはならない。どんなに苦しくても、正しくないことに頭を下げてはならない」――。
 そして八人全員を大学にやって、立派に育て上げた。
 偉大なる韓国の母であられる。
 「私が母から学んだいちばん大きなことは『自負心をもっ』ことでしょうか。『誇り』をもつことです。しかし、そのために私は、生きていくうえで、ずいぶん苦しみましたし、後悔したことは一度もありません」
 そして「これからも、人から『ばかだな!』と言われるとともあるかもしれませんが、こういう生き方をしていくしかないと思っています」と、李博士は微笑まれた。
 博士の「囲碁の腕前」のすばらしさが話題になったときも、「将棋や囲碁は『戦略的な遊び』と言えます。しかし私は、じつは戦略的な生き方は嫌いなんです。純粋な生き方が好きです。ですから政治家には向かないかもしれません」。
 しかし、そういう人にこそ、民衆は政治を担ってもらいたいのである。
 一九九五年、ソウル大学総長になった年に、博士はいきなり韓国の首相に抜擢された。
 博士は迷った。自分は教育者として生きることを最高の誇りとしている。
 夫人も泣いて反対した。母堂も反対であったという。
 しかし、ついに、わが身を捨てて国に奉仕しようと決断されたのである。
9  政治は「泥沼に蓮華を咲かせる」作業
 「政治の中で、清らかさを守るということは、たいへんにむずかしいことです。理想と現実の溝は、それほど大きいしかし、政治とは泥沼の中の戦い』ではなく、泥沼に蓮華の花を咲かせる作業』であるべきです」
 「『政治家のための政治』ではなく『国民のための政治』でなければならない。『政治家による政治』ではなく『国民による政治』でなければならない。そのためには、指導者が国民に対して限りなく謙虚でなければなりません。
 地位が上がれば上がるほど謙虚と献身に徹してこそ、独裁がなくなり、民主主義が前進する。民主主義が前進した分だけ、国民のエネルギーを引き出し、一つにできるのです。
 言葉のとおり、博士の振る舞いには、大きな大きな愛情が、にじみ出ている。
 障害者の小さな集いにも、そっとふだん着で現れ、車椅子を押しながら、打ちとけて対話されたと聞く。いつも”壇上から人を見おろして、虚しい言葉を投げかける”来賓ばかり見てきた人々は、「あまりにも違う姿だ」と涙を流した。
 博士が長い間、匿名で障害者の団体に支援金を送ってこられたことが、後で知られてしまったこともあった
 博士が弟さんと乗ったタクシーが事故を起こし、兄弟とも重傷を負う事件があった。拘束されてしまった運転手のために、「かわいそうだ」と、あらゆるととろに嘆願書を出し、無事釈放を勝ち取ったのは博士その人であった。
 なんという美しい生き方であろうか。
 美しいということは、強いということである。
 私は「博士の人生それ自体が、多くの人の『教科書』です」と申し上げた。
 博士は、師と仰ぐ金九先生が「白凡ペクポム」と号したのにならって、ご自身の決意を「又凡ウボム」――もう一人の白凡という号にこめておられる。
10  中・韓・日で「三国団結」の力を!
 二十一世紀のアジアについて語りあったさいも、博士のお考えは、金九先生の思想を、まっすぐに継いだものであった。
 「西洋の物質文明に対して、中国・韓国・日本が友情をもって信頼しあい『三国団結の力』を示すべきです」と。
 二十世紀は、「富国強兵」が東アジア各国の至上課題であった。その分、「平和の連帯」を追求する知性の役割は軽視された。二十一世紀の東アジアは、金九先生の示された高次元の国家観を土台とするべきである――そういうお考えなのである。
 すなわち、金九先生の、あの永遠の名言が、李博士の五体を今も、熱い血潮となって駆けめぐっているのであろう。
 「わたしは、われわれの国家が、世界でもっとも美しい国となることを願っている。もっとも富強在国となることを願うものではない」
 今、私たちは見た。
 師から弟子へ、親から子へ、「美しい生き方」が伝えられていくドラマを
 私たちは知った。
 そこにこそ「美しい国」の実像があることを。
 そして私は思う。
 日本も、今こそ、この「美しい人々」に学ぶべきだと。

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