Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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バノレコ元コロンビア大統領 麻薬との戦争に一人立つ

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  「世界で最も危険な職業」に挑む
 コロンビアの大統領は「世界で最も危険な職業」と呼ばれた。
 麻薬組織・極右組織・反政府ゲリラ。それらの暴力と戦わざるをえないからだ。
 とくに、麻薬組織は、莫大な資金を手にしているだけに、陰の権力機構と呼ばれるほどの力をもち始めていた。
 政治家とも役人ともつながっているとされ、国会議員も麻薬組織から資金援助を受けていると、ささやかれた。しかも組織は、国軍以上と言われる武装をしているのだ。
 だれも手がつけられなかった。やれば、やられる。麻薬組織と対決すれば、本人ばかりか家族まで殺すと脅迫され、事実、誘拐も頻繁にあった。
 麻薬組織を叩いた新聞は社長が暗殺され、その容疑者に逮捕状を出した判事も暗殺された。「身の安全が保障されない」として全国の裁判官四千三百人が一斉に辞表を出した。
 一時、この国の成人男子の死因のトップは「殺人」とさえ言われた。
 しかも、暗殺者の中には、青年とも呼べないほど若い「少年たち」も多かった。貧しい彼らは、お金ほしさに、簡単に悪に手を染めた。警官を一人殺せば、いくら。負傷させれば、いくら。麻薬組織は「暗殺学校」までつくって養成したという。
 「まじめに仕事していたって、しかたがない。麻薬犯罪に加担したほうが、ずっと割がいい」。善と悪の違いさえ、あいまいになった。
 私は思う。少年たち自身の絶望を思う。
 警官も、テロを恐れて勤務につかない。それどころか、押収した麻薬を警官が私物化して横流しし、もうける。
 こんななか、どうやって民主主義を守るというのか?
 やはり、一つの道しかなかた。「一人立つ」以外になかった。
3  「言葉ではなく、行動で示すのが正義だ」
 語りあううちに、大統領の頬に赤みが戻ってきた。時に笑い声まで聞けるようになった。強靭な精神力の持ち主である。
 スペイン語の格言に「おのれに勝つものは、何人をも恐れず」とある。
 パルコ大統領が、それまでだれもできなかった戦いに立ち上がった。一九八六年に就任すると、敢然と「貧困と麻薬の撲滅」を宣言したのである。
 多くの人が意州に思った。大統領は控えめで、学者か技術者タイプと見られ、「マスコミ受け」するような派手な言動などと無縁の存在だったからだ。しかし、そういう堅実な人のなかにこそ「勇気ある人」はいるものだ。
 自分が血を流そうと、どうなろうと、この国を救わねばならない。だれ一人味方がいなくても、「病根」を取り除くのだ。命、なんか惜しんでいられるか!
 「言葉で語るのが正義ではない。行動で示すのが正義だ」――大統領の覚悟は皆を感動させた。
4  私との会見のころは、こうして開始された「麻薬戦争」がピークを迎えていた。
 四カ月前の八月には、次期大統領の最有力候補が、麻薬組織の凶弾に倒れた。政府と組織は、一気に全面対決へ。
 大量の摘発の一方で、「毎日、五、六件」という無差別テロが続いた。テロの対象は一般人、外国企業、大使館にまで拡大された。
 八月末から二カ月だけで、要人十三人を暗殺。百十八件の爆破事件。政府施設、銀行など百六十一カ所を破壊。旅客機も爆破された。大惨事である。
 こういう「激戦中」の来日であったのだ。来日は「麻薬問題の解決には国際協力が不可欠」とのバルコ大統領の信念の表れであった。
 私にも、こう言われた
 「平和、それは『人類共通の目的』です。この実現のために、手をたずさえて進んでいきたいのです。皆さまが推進されている世界平和の運動に、私は深く敬意を表します」
 平和――麻薬の撲滅も「全人類の課題」である。「よその国のことだから」関係ないのか。とんでもない。
 そこに現に苦しんでいる人間がいるかぎり、無関心ではいられないはずだ。何かしないではいられないはずだ。人間ならば。世界市民ならば。
 そもそも麻薬を消費する豊かな先進国があるから、貧しい国で麻薬がつくられるのである。
 いわば大統領は、全人類の先頭に立って、コロンビアの地で麻薬との戦いを続けておられるのだ。私は、大統領の鋭き両眼を見つめた。
 「どうか、お体を大切に。コロンビアの国民のために、ますますのご活躍をお祈りします。私どもも”同国民”の思いで、貴国のために貢献してまいります」と。
 ”同国民(コンパトリオータ)”とは、大統領がつねづね、国民に親愛の心をとめて呼びかける言葉であった。
 苦難の渦中にある大統領とコロンビアの人々。その苦しみを分かちあいたい。希望が開けるよう、何かで貢献していきたい。
 その思いから、あえてが同国民という言葉を使ったのである。
 語らいの日の夕刻、パルコ大統領は、内外の記者団に向かって、あらためて不退転の決心を語られた。
 「私たちの戦いは、コロンビアだけのためではなく、全世界のためであります!」
5  苦難の道をあえて行く
 翌九〇年四月、パルコ大統領のご尽力によって「コロンビア大黄金展」が実現した。
 世界初公開の「千七百カラットのエメラルド結品原石」をはじめ国宝級の五百点
 東京富士美術館での開幕式には、大統領夫人も同展の名誉総裁として出席し、スピーチされた。「以前は私たちを引き離していた大海(太平洋)が、これからは私たちを結びつけることになるでしょう」と。
 あの出会いから一年半後(一九九一年六月)、私たちはロンドンで再会した。バルコ大統領は任期を終えて、駐イギリス大使になっておられた。
 「太平洋が結ぶ友人」と「大西洋のほとり」で会えたわけである。
 再会の五日前、コロンビアでは、大統領の仇敵であった最大の麻薬組織の首領が逮捕されていた。後に組織は崩壊。「麻薬戦争」は大きな山を越えた。
 バルコ大統領の悲願を、若きガビリア大統領が受け継ぎ、見事に結実させたのである。東京での会見で、バルコ大統領は「以前は、青年がいつも年配者の後ろにいた。今は青年を前面に押し出し、ぞんぶんに活躍できるよう努めています」と言われていた。まだ三十九歳だったガピリア氏を大蔵大臣(後に内務大臣)に登用したのも、バルコ大統領である。
 ガビリア大統領ご夫妻とも私は親交を結ばせていただき、その招きでコロンビアも訪問した(九三年二月)。厳戒態勢のなかであったが、私は「勇敢なるコロンビア人の一人」として、断じて行くことを決めたのである。
6  「迫害はつねに最高の栄誉の勲章」
 だれもが「バルコ大統領は生きて任期を全うできない」と考えていた。しかし大統領は厳然と生きぬいた。しかも在任中、反政府ゲリラとの和平も成し遂げた。
 お元気そうな様子を拝見して私は安心し、申し上げた。
 「人間としての栄光は、強大な権力のなかにではなく、苦難との闘争のなかにあります。苦難の国に生き、苦難の民のために、苦難の道をあえて歩んだ――その指導者こそ崇高です」
 元大統領は、尊敬する”コロンビア建国の父”サンタンデル将軍のことを熱っぽく語られた。「わが国をつくった人ですから」と。原点の人を大切にしておられた。
 サンタンデルは言う。
 「残酷な迫害は、つねに私の最高の栄誉の勲章である」
 「私を攻撃する手が高く上げられているならば、汚名は私にではなく、手を上げたほうにある」
 「私は財産を失い、生命をも失うかもしれない。しかし『誇り』は絶対に失わない」
 元大統領は、東京での出会いを「生涯忘れえぬ思い出です」と、懐かしそうに振り返っておられた。
 その笑顔には「苦難を乗り越えた誇り」が、太陽のように輝いていた。

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