Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ラムオーバン市長 オーストラリア初のアジア系女性市長

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  大混乱のサイゴンから決死の脱出
 「爆撃だ! 逃げろ!」
 父が叫ぶ。兄弟は防空壕へ急ぐ。母が小さな子どもをかかえていく。
 ラムさんも走った。走りながら見た。
 あっ、女の人が倒れた。あの子どもも。もう動かない。死んでしまったの? どうして?
 何の罪もないのに!
 「助けて!」。泣き叫ぶ声。轟音。爆弾が炸裂した。
 空を見て、あっと息を飲んだ。人間の体がバラバラになって落ちてきた――。
 一九七五年のベトナム。
 四月にサイゴンが陥落。それからの混乱は、すさまじかった。
 両親は、中国からベトナムに移住した実業家。
 幼いころ、裕福で、愛情を体いっぱいにあびてきた少女は、十代の青春に”地獄”を見た。
 「国を脱出するしかない」
 波に向かって、少女は立っていた。
 「でも、どうして、この海が越えられないのだろう」
3  「お前は家族のなかでいちばん、勇気がある。頼むぞ」。父はラムさんに言った。
 まずラムさんが、兄とともに国外脱出に挑んだ。しかし失敗。
 また挑戦。また失敗。。そのたびに牢に入れられた。
 「運に見放されてるわ!」
 逃避行のなか、クラスメートや近所の人が目の前で死んでいった。自分も、十回以上も殺されそうになった。
 だが生きた。生きているだけよかった。
 「一緒に行かないか」。フアという少年が、ラムさんと弟、妹を誘った。
 音楽の才能があり、牢獄でも敵にギターを教えて友だちになる――そういう人だった。彼は、難民として国を出る特別許可を得、小船を与えられたのだ。
 天文の知識をもっフアさんが針路を決めた。
 夜の海へ。
 今度こそ――。しかし強風にあおられて転覆。暗い波間に漂い、必死で助けを求めた。運よく、通りかかった米軍の船に救助された。
 十二回目の失敗だった。
 「さあ、いいわね。我慢するのよ」。母が言った。
 一九七七年。十三度目の脱出。
 長さ二十四メートル、幅六メートルという小さな船に、何と四百九十八人。身動きすらできない。
 その中に、ラムさん一家も、フアさんもいた。爆撃で負傷した父が一緒に行けないことが心苦しかった。
 船は出航した。何も起こらなきゃいいけど……。
 「そこの船、止まれ!」。タイの海賊船だった。
 殺されてしまうの!?
 海賊がきた。「私が通訳しましょう」。母だった。もしものことがあっても、わが子だけは守りたい――決死の思いで飛び出したのだ。
 皆、有り金を全部、奪われたが、命だけは助かった
 恐怖に震えた四日間を超え、そして船は、とうとうマレーシアに着いた。
 夢にまで見た、この日。だがラムさんの心は沈んでいた。「これからいったい、どうやって生きていけばいいの?」
4  夢の新天地、待っていたのは差別
 しかし、それでも人は生きていかねばならない。
 半年後、カナダのトロントが新しい人生の舞台となった。母を先頭に、一家をあげて働いた。
 ラムさんは十九歳。話せる英語は「イエス」「ノー」だけ。働きながら学校に通った。
 幸い、ベトナム人医師の病院で受付の仕事につけた。週末は近くのホテルで清掃係。休みの日は写真たてを売る店で働いた。
 そのなかで、ラムさんは大学で経営学を修めるまでになったのである。
 一九八五年、やっと父をカナダに呼べた。一家に、ようやく春の陽が差してきた。
 夜の海で苦難をともにした、あのフアさんは、オーストラリアにいた。やがて連絡がとれ、遠く”太平洋をはさむ恋”が続いた。
 ラムさんが、彼の待つオーストラリアへ渡ったのは八七年。二十七歳の年だった。
5  苦しむ人を放っておけない!
 シドニーでも、ラムさんが住んだあたりは外国からの移住者が多かった。
 かつては「白豪主義」で有色人種を排斥した豪州。
 とうに政策を変えていたとはいえ、まだ差別はあったとくにアジア系の移住者に対して、ひどかった。
 十六歳で結婚して子どもがいる女の子もいた。しかし満足な公的サービスも受けられない。貧しさから抜け出る道が閉ざされていた。
 まるで、かつての自分たちを見るかのようだつた。ラムさんは心がうずいた。
 ラムさんは心がうずいた。
 難民になりたくてなった人なんて一人もいないわ。どうしてあんな扱いをするの?
 ラムさんは、心境を私に語ってくださった。
 「私は、私の体験を通して、自分と同じように苦しんでいる人を救いたい、できることは何でもしてあげたいと思うようになったのです」
 運命を使命に変えて――ラムさんは決心した。オーバン市の市議会議員選挙に出たのである。当選し、猛然と働き始めた。
 彼女は、不動産会社の仕事ももっていた。平均して、十五、六時間働き、寝るのは三、四時間。寝ないで出ていくこともあった。そのなかで息子さんを産み、娘さんを産んだ。
 議会の終わるのが夜十一時を回る――そんな時は子連れで議会に出て、有名になった。
 いったい、ラムさんを支えていた哲学は、何だったのか?
 ラムさんの信条は「政府とは、どんな規模であれ、民衆に尽くすもの」である。
 「オーストラリアの地方自治体の政治家は、権力者というよりも『草の根の市民』の中から選ばれます。だから、政治家は市民の生活を幸福にしよう』『市民に奉仕していこう』と誓願を立てるのです。ですから、給料は安いですが文句を言いません。人の心のわからない権力者とは違うのです」
 この言葉のなかに、二十一世紀がある。
 民衆と別世界に君臨している指導者ではなく、「指導者即民衆」――民衆の苦労をだれよりも知る人物でなければならない。
 そして、「民衆即指導者」――民衆自身が社会の未来への責任を自覚した聡明な一人でなければならない。
 「しろうと」の初心と「くろうと」の技術を、あわせもった指導者が、求められているのだ。
6  「心の鎖国」続く日本への警鐘
 オーバン市は、市民の五三パーセントが外国からの移住者。中国、ベトナム、フィリピン、レバノン、トルコ、インド、アラブ系等々、まるで「小さな地球」である。
 ラム議員は、移住者のための「アジア福祉センター」を一九九六年に設立。中国の広東市との姉妹交流、湖南(フーナン)省や長沙(チャンシャー)市との友好も進めてきた。
 数々の実績が評価され、九九年、市長に。同国初の「アジア系女性市長」の誕生となった。
 ラム市長の目が、まっすぐに見つめているのは、ただ「人間」である。
 「私は思うのです。文化が違うから仲違いするのではなく、違うからこそ、お互いにない良い面を学びあい、補いあうことが重要ではないだろうかと」
 すぐに「右へならえ」になる日本への大きな警鐘であろう。同質化を強要する「軍隊式の思考」が、いまだに抜けていないからだ。
 在日韓国・朝鮮人の方々の地方参政権すら認められていない。長らく日本に住んで、税金も納めているにもかかわらず。
 これ一つとっても、「日本ほど、ひどい差別社会は少ない」「心の鎖国・知性の鎖国が続いている」と非難されるのは当然であろう。
 2000年秋、人類の祭典オリンピック、そしてパラリンピックが開かれた。メーン会場となったのは、このオーバン市であった。
 ラム市長の奮闘は続いている。
 「私たちは今、歴史を転換させ、進歩させるかどうかの、大事な分かれ道にいるのですから!」
 今、世界のどこでも、「変革」の先頭に、女性が立っている。

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