Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

カール16世グスタフ国王夫妻 「一人を大切に」のスウェーデン王国の伝統を堅持

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  街角で気さくに対話、人生相談も
 王宮は、水の上に浮かんでいるように見えた。
 ストックホルム自体が、水に浮かぶ都である。「バルト海の白鳥」と呼ばれ、白鳥がふんわりと翼を広げたような美しさと高貴さがある。
 橋で結ばれた十幾つもの島々。街中の水路を船が静かに行き交う。水路は釣りができるほど澄んでいる。
 スウェーデン王国の首都の美は、華麗というよりは清楚であり、建物にも人々の温かい思いがこもっている気がした。
 会見は、お母さまの名前を冠した「シビラの間」。
 カール十六世グスタフ国王は、当時(一九八九年六月五日)、四十三歳の若さであった。
 気さくな方である。国民と街で親しく話を交わす。時には「聞いてほしい」と人生相談を持ち込まれることもあるという。
 私どものイギリスの拠点である「タプロー・コート総合文化センター」には、国王の祖父にあたるグスタフ六世が皇太子時代、記念植樹をした記録がある。
 そう紹介すると、「私もそこに行って見たい」と、国王は祖父君が懐かしそうであった。
 国王は、生後九カ月で父君を亡くした。飛行機事故であった。祖父君の手で育てられ、王はこの王孫に幅広い勉強と経験を与えた。
 大学での勉強のほか、ロンドンのスウェーデン大使館に勤務し、スウェーデン商業会議所、ハンブロズ銀行、アフリカのスウェーデン国際開発公団でも働いて経験を積んだ。そして祖父君の逝去を受けて、二十七歳の若さで即位されたのである。(七三年)
 考古学への興味も「祖父の影響です」とのこと。
2  すべての人にチャンスを励ましを!
 ともに迎えてくださったシルビア王妃は、七二年のミュンヘン・オリンピックで西ドイツ・コンパニオン代表。皇太子だった国王が「ひとめぼれ」したことは有名である。
 王妃の父君はドイツの実業家。母君はブラジル人。ブラジルとドイツで育ち、スペイン語の通訳になった。王室では外国の貴族との結婚が伝統だっただけに、「オリンピックが結ぶ世紀の恋」と言われた。
 「結婚してスウェーデンに来た時、町の中に身障者の姿をたくさん見かけたのです。なぜだろうと思い、調べました。それでわかったのは、たとえば映画館やトイレなどに身障者用の施設が整えられていて、皆と一緒に生活できるようになっていたわけです」
 駅をはじめ公共の施設には、ほとんど車椅子用のエレベーターがつけられている。どの建物も、段差をなくす工夫がしである
 「一人で遠くまで車椅子で出かけられる」社会なのである。
 「人間はだれでも、何らかの課題をもっています。身障も、そういう課題の一つにすぎないと思います。決して、欠点でも負い目でもないのです」
 王妃の言葉に「スウェーデンの心」があるのかもしれない。人間への眼差しが優しいのである。
 「寝たきり(寝かせきり)老人がいない国」でもある。高齢者も、身障者も、精神障害者も、隔離しない。自分たちの地域で、日常生活を皆とともにしながら、必要な介護を受けられる。
 老人”問題”というと、まるで老人が悪いように聞こえる。身障者”問題”というと、身障が悪いように聞こえる。そうではないはずである。
 人問、だれもが病むし、老いる。この生老病死という「生命の法則に合わせて」社会の仕組みを粘り強く改善し続けているのが、スウェーデンである。
 「どうすれば人間は、もっと幸せに生きられるのか?」と衆知を集め、挑戦し続けている。
 日本では反対に「政治と企業のエゴに合わせて」人間らしい暮らしを犠牲にしているのではないだろうか。現状に人間を押し込め、「しかたがない」と思い込ませて。
 個人の人生にもテーマがある。国家にもテーマがあるとしたら、スウェーデン王国のテーマは「すべての人に、幸福を追求するチャンスを与え、支援を与える」ことである。
 いわば「一人の人を大切にする」、これが国のモットーなのだ。
 第二次世界大戦でも、この国の動きは傑出していた。難民は各国から中立国スウェーデンをめざした。人々は懸命に世話をした。
 時のグスタフ五世は、ナチスの軍事的脅威にもひるまず、ハンガリーを占領したナチス政府に対し、ユダヤ人への人道的扱いを呼びかけ、手を尽くした。
 戦後も、東欧や中東からの移住者、南米や東南アジアからの亡命者を受け入れてきた。経済的にも楽な選択ではなかったが、「余裕のある人間が、困っている人を助けるのは当然」という意見が多数派であった。
 一九九七年の上半期の難民受け入れも、アメリカが五千四百七十三人、スウェーデンが千三百三十人である。しかもスウェーデンの人口はアメリカの三十分の一以下なのである。日本は九六年の一年間でわずか一人であった。
 北欧の小さな国に百五十カ国から集まり、全人口の八分の一が移住者の子孫といわれる。外国人を受け入れるだけではなく、語学教育(スウェーデン語と母国語)まで国が面倒をみ、地方議会の選挙権も与えた。
 「住まわせてやってる」という考えではない。同じ人間として、平等に助けあい、「共に生きよう」という哲学である。
 この国は経済不況の時でさえ、途上国に莫大な経済援助を続けたのである。
 「世界全体が豊かになり、安定してこそ、自分たちも守られる」と考える。
 ヴァイキングの末裔のせいだろうか、国境にとらわれない。人類全体のことを考えている。だから国際的信用がある。
3  「生命への慈愛」を原動力に
 一九七二年の歴史的な「国連人間環境会議」もスウェーデンがホスト国であった。グスタフ国王(当時、摂政)は、みずから会議に出席し、自然保護への強い姿勢を明らかにされたのである。
 そして、すべての家庭と学校で環境保護の大切さを学べるよう小冊子が作られた。その巻頭に、国王は書いておられる。
 「はるか何億年という年月を重ねてきた地球の生物の進化も、精神の遺産も、人類が注意を怠れば、わずか数年で消滅してしまうでしょう」と。
 今も、自然資源や野生動物の保護のために、国際的な活動を続けておられる。
 世界一の福祉国家を支えているのは、こうした「生命への慈愛」なのである。
 スウェーデンの女性運動家で教育家のエレン・ケイは『児童の世紀』(一九〇〇年刊)を書いて、二十世紀の新教育運動の原動力になった。彼女は「生命の使徒」と呼ばれた。
 生命主義――生命の可能性を心身ともに伸ばすものが善であった。阻害するものが悪であった。
 ケイは『児童の世紀』をホイットマンの言葉で結んだ。「私は私の負傷した同胞たちのが苦悩如何を訊ねない、私は私自身との負傷した同胞そのものになるのだ」(原田実訳、玉川大学出版部)
 この人間愛を、青年よ、わが指標にせよ! これがケイの叫びであった。
 牧口先生(初代会長)の創価教育学と完全に合致する。違うのは、スウェーデンは彼女の思想を実現しようと努力したことである。
 牧口先生は獄死されたが、ケイが逝去した時(一九二六年)、国王は皇太子(現国王の祖父君)を勅使として弔問に派遣し、大教育者に厚い敬意を示したのである。
 あの日、グスタフ国王との語らいは広がり、国王は「アジアの美術に私は関心があるんです」と言われて、タプロー・コートに東洋美術館(オリエント・ギャラリー)があることに興味を示しておられた。
 ストックホルムには国立の東洋美術館がある。翌一九九〇年には、東京富士美術館が共催で「日本美術の名宝展」を開催した。国王は開幕式で「日本の古典美術は『時を超えた美』の理想を伝えています。スウェーデン人も、同じく、それを求めているのです」とスピーチされたのである。会場は「同じ人間として」を確認する場となった。
 予定時間を大幅に超過するほど、ご夫妻で熱心に鑑賞しておられたという。
4  「やってみよう!」の心を引き出せ
 表敬のさい、ご夫妻は、身障者のスポーツ振興のために作られた『GO FOR IT!(やってみよう)』の本に署名をして私ども夫婦に贈ってくださった。
 本の冒頭、王妃がこんな言葉を寄せておられる。
 「私たちは、自分が思っている以上の可能性を秘めているのです。肉体的にも、精神的にも。でも可能性は、開拓される必要があります。余りにも多くの人が、失敗を恐れるあまり『やってみよう』としません。だからこそ、支援と励ましが必要なのです。まず最初のハードルを飛び越せるように。
 それができれば、あとは、ぐっと、やりやすくなります。自信は大きくなり、ためらいは小さくなります。障害と恐怖を征服すれば、私たちは幸福を感じるのです」
 語らいの結論も「心こそ大切ですね」であった。
 いとまを告げて街に出ると、六月のストックホルムは、あちこちにライラックが花盛りだった。青紫の気品ある花房が美しかった。
 見ると、ライラックの葉は、ハートの形にそっくりである。
 数知れぬ幾つも幾つものハートの連なりが、「人道の競争」の最先端の国を、さわやかに装っていた。

1
1