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日蓮大聖人・池田大作

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有吉佐和子さん 朗らかなぺンの戦士

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

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2  「これは避けて通れない」――光る作家魂
 昭和六年(一九一三年)のお生まれ。私が昭和三年だから、まあ同世代である。
 数えてみると、前後八回も、お会いしている。
 創価学会の本部や聖教新聞本社に来られたり、編集者や友人を交えて、食事をともにしたこともある。昭和四十七年の秋には、京都の衣笠で、私どもの会館の茶室にお迎えした。(一九七二年十一月七日)
 有吉さんは、京都が好きだった。日本の伝統芸術の真髄を探求した方でもあった。
 もとは紀州――名作『紀ノ川』の舞台・和歌山の名家のお嬢さんである。
 ちょうど、長編小説『恍惚の人』が大変な話題になっていた。人間の「老苦」に真っ正面から取り組んだ労作である。
 「人間が『老いる』ということは、厳粛ですね。これから日本は老人だらけになっていくでしょう。医学が進んで、みんな長生きするようになって、いいことのようですが、何年も何年も機械につながれて生かされていることが幸せなのか、どうか。ボケる人もいます。寝たきりの人もいます。家族も大変です。
 『老い』の苦しみには、資本主義もなければ、社会主義もありません。資本家だろうが、労働者だろうが、関係なく、みーんな年とっちゃうんですから! 私は作家として、『これは避けては通れない』と思ったんです」
 作家魂が光る言葉だった。肚のすわった女性である。「とことん『人間』を探求するのが文学者だ」という覚悟があった。
 老人について、何年もかけて徹底的に取材したそうである。
 反響は大きく、「恍惚の人」は流行語にまでなった。しかし、文壇からは評価されなかったと、嘆いておられた。それどころか、いろんな人から「これは本当の文学じゃない」とか「大衆迎合だ」「きわものだ」などと、相当”叩かれた”ようである。
 しかし、「生老病死」の現実に、がっぷり取り組むことが、どうして「文学じゃない」のだろうか。これこそ人間普遍のテーマではないか!
 後の『複合汚染』にしても、「生きる」根本にある「食べる」ことが、今、どんなに汚染されているかを広く認識させた。功績は大きい。
 彼女は時代に迎合したのではない。彼女のペンが時代を目覚めさせ、時代を引っ張っていったのだ。
 「有吉さん、妬みですよ。男のやきもちです」と私は励ました。
3  「なぜ学会に若者が集うのか知りたい」
 有吉さんは、斜に構えたような、ひねくれた見方をしない人だった。
 創価学会に対しても、「断面を切り取って、悪口を書くのは簡単です。感情論や、自分の立場からの批判も、だれにでもできます。しかし、事実として、若い人たちが生き生きとして集まっている。わがまま放題の今の社会なのに、なぜ、こんなに大勢の青年が、新しい価値観を求めて集まるのか? その本質を知りたいのです。これは文学者として、人間として、追求せねばならないことです」
 「大石寺にも行ってみたいです。私はキリスト教徒ですけど、若い人が大勢、参詣している姿は壮挙です。作家として、その様子を、ありのままに見たいものです」と、非常に謙虚で科学的な姿勢であられた。
 「創価学会の若い人たちを見ていると、心打たれるものがあります。目標をもった若者は、清らかで、禀としていて、ほれぼれしますね。女子部の人は、賢そうで、とてもきれいですね」とも言ってくださったが、お世辞だけではなかったと信じている。
 あるときなどは、有名な某作家の批判の低次元さに立腹し、「『私は、池田先生と何度もお会いしてるけど、そんなんじゃないわよ! ちゃんと勉強しなさい!』って、言ってやったんですよ」。
 もう時効だろうし、有吉さんの好意に感謝して、ありのままに記しておきたい。
4  京都で、有吉さんは「おかげさまで、劇のほうも大成功でした。切符が売れるだろうかと心配したのが、うそみたいで、席が足りなくなって、大変なくらいでした」。
 このとき、有吉さんが来られたのは、裁判劇『ケイトンズヴィル事件の九人』の「御礼に」ということだった。律義な方である。この年の七月に聖教新聞本社に来られ、私に「十月に劇を上演します。ぜひ、劇の『推薦人』になってください」との依頼だったのである。
 劇の趣旨を聞いて、私は「喜んで推薦させてもらいます。全面的に協力させていただきます」と約束した。推薦人には、湯川秀樹博士や市川房枝さんらも、名を連ねておられた。
 劇は、アメリカの実話がもとになっている。ベトナム戦争に反対する九人のカトリック教徒が、兵役事務所から「徴兵の書類」を大量に持ち出して、焼き捨て、逮捕された事件である。首都ワシントンのそばのケイトンズヴィルという町でのことだった。
 ”「ベトナムで子どもたちを焼く」代わりに、私たちは「戦争に青年を送る書類を焼いた」のだ。政府と私たちと、どちらが悪なのか!”と、行動で問題提起したのである。(『ケイトンズヴィル事件の九人』有吉佐和子、エリザベス・ミラー共訳、新潮社、参照)
 作者は、逮捕された九人の一人である神父。
 アメリカで、この劇を見て感動した有吉さんは、みずから翻訳し、上演権を取り、演劇界に呼びかけ、演出までするという力の入れよう。感激屋で行動力のある有吉さんらしい全力投球だった。
 「法」の名のもとに九人を裁こうとする社会。しかし、何のための法なのか? なぜ国家だけが、戦争という人殺しを許されているのか? いつ、だれが許したのか?
 劇中で”被告”は言う。高く頭を上げて。
 「人の命を救うためなら、人間の法律は破っていいのです」
 「人間はより高い法律に従うべきです」(同前)
 専門家や政治家が、どんなに言葉巧みに言いつくろっても、血の通った「人間」として考えて、おかしいものは、おかしいのだ!
 《人間の名に、おいて》ここに有吉さんの熱い魂があった。
 彼女の”中国との関わり”も、この一点から生まれたと私は思っている。
5  「将来、中国は必ず発展します」
 その六年前、初めてお会いしたときに、有吉さんは言われた
 「これまで三回、中国に行ってきました。毛沢東主席と周恩来総理にも会ってきました。共産主義の中国は、何となく『こわい』感じがしていましたが、とんでもない思い違いでした。皆さん陽気で、明るくて、建設の息吹にあふれています。自信を持っています。未来への展望があります。『将来、この国は必ず発展するだろう』と、指導者たちの姿を見て、感じました」
 もちろん日中の国交正常化の前である。
 昭和四十一年新緑がきれいな季節だ(一九六六年五月十七日)
 月刊誌「主婦の友」の対談企画で、編集者と一緒に学会本部に来られた。
 有吉さんは、すっと背が高く、透きとおるような色白であった。
 ご案内すると「え、これが会長のお席なんですか。皆さんと一緒なんですね! 驚きました」。
 はきはきした言い方だった。彼女は、まっすぐに目を見る。
 座ってもらったのは、事務所の端の簡単な応接コーナーである。多忙であったし、来客があっても、事務所からすぐに応対できるので、つごうがよかったのである。
 有吉さんは、その前年にも、半年ほど中国に長期滞在されており、見たまま、感じたままを伝えてくださった。
 そして、居ずまいをただす感じになって、「ぜひ、ご報告したいことがあります。中国は、創価学会に非常に関心をもっています……」と、るる語られたのである。
 そういう情報は、かすかに私も得ていた。私が会長になったころから、周総理の指示で研究が始まったようである。後でわかったことだが、この三年前(一九六三年)には『創価学会』という小冊子も作られていたらしい。
 総理は、新中国建国の直後から、早くも「日本との国交正常化」を考えておられた。そして、友好の土台は「民衆と民衆の心の通いあい」であると見極め、「民をもって官を促す」方針を固めておられた。
 そして創価学会については「民衆の中からわきあがった団体」「日本の国家主義と戦ってきた団体」という認識をもっておられたようである。
 有吉さんは「じつは、周総理から、伝言を預かってまいりました。『将来、池田会長に、ぜひ中国においでいただきたい。ご招待申し上げます』と伝えてください、とのことでした」。
 重大なメッセージである。「ありがとうございます。将来、いつの日か、必ず考えます。有吉さんのご厚情は忘れません」
 そう答えながら、私は、いよいよ本格的に日中友好に動き始める「時」が来たことを直覚した。
 すでに公明党の結成(一九六四年)にさいして、党の創立者として、ただ一つの注文として「日中国交回復の推進」を提案しておいたが、さらに思索を進め、有吉さんと会った二年後の六八年に、学生部の総会で「日中国交正常化提言」を行った。
 有吉さんは「池田会長は、約束どおり、本当に決断された。実行してくれました」と、満面の笑顔で喜んでくださった。
 周総理との会見が実現したのは、昭和四十九年(一九七四年)の年末である。有吉さんの伝言から八年がたつていた。
6  知ろうとしない日本人
 中国は「心」を大事にする国である。
 有吉さんは、清水のような純粋な気持ちで「友好」を願っておられた。その心が通じるのか、中国の要人にも、こよなく信頼され、太い友情のパイプを、たくさん作っておられた。
 令嬢の玉青さんの名づけ親は、中日友好協会会長だった廖承志氏だそうである。
 それだけに、有吉さんは、利用の心で「日中」に近づく人間には厳しかった。「相手にしない」と。
 友人の編集者には、激しい口調で、こう語っておられたという。
 「私と中国のつきあいは、他の人と違うんだから! 薄っぺらな党派性をかざしたような人、日中友好を口先だけで言っているような人とは、まったく違うの! 私は、自分の父親や兄弟のような気持ちで、つきあってるのよ。党派じゃないの、心なの。こんな大切な思いを、日中友好の大事な話を、あんな軽い人たちの所へ持っていける?」
 有吉さんは書いた。
 「明治以来、日本人はヨーロッパ諸国を知ろうとして懸命になって努力してきた。ここ三十年は、アメリカを知るために必死になった。それなのに、かつて日本は一度として中国を知ろうと努力した時期があっただろうか」
 「中国人と日本人の距離は、アメリカ人と日本人との距りより大きい」(『有吉佐和子の中国レポート』新潮社)
 この谷間を埋めるために、有吉さんは尽くした。駆けまわった。
 日中文化交流協会の会長だった作家の井上靖さんが、こう賛嘆しておられた。
 「有吉君が今、中国と日本の文化交流のトップです。私は彼女の後について行っているだけです」
 有吉さんは、私に周総理の伝言を伝えた後、さっそく「光明日報」の劉徳有りゅうとくゆう記者(後の中国文化部副部長)にも「今、日本に、まじめな団体があります。創価学会といって、若い人たちが多く、礼儀正しい人たちの集団です。ぜひ会っていただけませんか」と連携をとり、学会の青年部の代表との橋渡しをしてくださった。
 初会合(一九六六年七月)には、孫平化氏(後の中日友好協会会長)らとともに、有吉さんみずから出席しておられる。
7  「牡丹の花はあなたです」
 有吉さんの初訪中は、昭和三十六年(一九六一年)。
 日本文学代表団の一員として、亀井勝一郎氏、井上靖氏、平野謙氏らとともに、香港経由で大陸に渡った。最年少であり、紅一点だった。
 日本を出る前、「社会主義国だし、なるべく地味な服にしてくれ」と言われていたようだが、かまうことなく、矢車模様の着物姿で堂々と振る舞い、大いに好評を博したそうである。いかにも、ものおじしない有吉さんらしい。
 着物を「中国の国花の『牡丹』の柄にしたらよかった」と思って、周総理に言うと、「あなた自身が牡丹の花ですよ」と言ってくださったそうである。
 「記念撮影の時も、それまで中央におられた周総理が、写る瞬間、さっと私のそばに来られていたるところで披露しておられたらしい。
 文学代表団に対して、周総理は言われたという。
 「いま我が国はアメリカ帝国主義を徹底的に攻撃しているのは事実です。またアメリカも我が国を憎み、敵視しています。こういう場合、日本はその間に立って仲介の労をとり、橋わたしの役劃をつとめてくれてもいいと私は思っています」(『中国の旅』、『亀井勝一郎全集』14所収、講談社)
 国際情勢は大きく変わったが、この言葉は、今も”生きている”と私は思う。
 米中の橋渡しは、二十一世紀も、日本の重大な使命である。
 さらに総理は「お互に隣国同士で、二千年間も文化交流の歴史があるのですから、我々は友好を深めたいと切望しているのです。日中戦争のことは忘れましょう」。(同前)
 戦争のことは過ぎ去ったことだ、と言ってくださったのである。
 だからこそ日本人は、断じて忘れてはならない! ごまかしてもならない。
 たとえ中国の方が「忘れよう」と言われたとしても、日本人は「絶対忘れません」と誓う――それで初めて友好の歯車が、がしっと噛みあう。
 中国で、こんな言葉を聞いた。
 「日本には『水に流す』という言葉があるそうですが、日本人が中国でしたことを流すほど、たくさんの水は中国にはありません」
 家族を殺され、突かれ、焼かれ、辱められ、生き埋めにされた中国の人たちが、日本人が良心をもっているかどうかを、今も、じっと見ているのである
 有吉さんはその後も、何度となく訪中された。
 『複合汚染』の執筆後は、文化大革命後の中国に単身で赴き、「一緒に農作業をさせてください」と言って、外国人として初めて各地の人民公社に入った。
 じかの交流をする。自分の目で確かめる――彼女の取材哲学は、ここでも変わらなかった。
8  置き去りにされた「離島」を描く小説
 「ぜひ、読んでいただきたい本があります」
 いつだたか、『海暗』という小説を持参してこられた。
 伊豆諸島の御蔵島のことを描いた新作だった。(昭和四十三年十月刊、文書春秋。以下、同書から引用・参照)
 すぐに読ませていただいた。何を言わんとしているのか、興味があった。
 「海暗」というのは、三宅島と御蔵島の聞を流れる「黒潮」の別名である。御蔵島は「海の荒れるときは定期便の船も近づくことのできない島」。当時の人口は二百人。
 その島に突然、「米軍ミサイル射爆場」の建設計画が降ってわいた。島は、てんやわんやである。
 主人公の「オオヨン婆」は、怒りをぶちまけた。
 「日本は戦争を放棄しただぞ、お前は知らねえか。新しい憲法はそうなってるのだぞ。戦争のねえ国に、なしてアメリカの爆弾が落ちるか。理屈も何も通らねえぞ」
 八十歳の老婆の、血のたぎるような意見に対して、新聞記者や村の役人は、ただ驚くばかりであった。
 「オオヨン婆」は自分のことを「俺」と呼ぶ。
 「俺は日本だけでねえ、どこの国の戦争も反対だ。俺は島が射爆場に反対するのは、戦死した島の人間を無駄死で終らせねえことだと思うぞ。墓地へ行って聴いてみろ。戦死した連中は、みんな戦争反対だ。生きてる人間より大反対だぞ」
 婆は、兄を日露戦争で亡くしていた。婆の長男は、”大東亜戦争”に召集され、太平洋の島で戦死した。遺骨も還ってこなかった。
 自然保護団体も建設に反対したが、その理由は”御蔵島は野鳥や緑の宝庫だから”であった。
 何かが狂っている。
 「島で守らねばならねえのは、島に住んでる人間だぞ。本土の人らは、なしてそれを言わねえか。これではまるで、人間より鳥や樹木の方が大事だと言わんばかりでねえか」
 有吉さんには、離島を舞台にした作品がいくつもある。
 本土が経済成長、経済成長と浮かれている陰で、置き去りにされたような離島の人たちの元へ、足を運び、丹念に聞き取りをした。
9  「いのち」の側に立った問いかけ
 近代化という、ぴかぴか美しく装った大型機械が、うなりをたてて進む。人間性を蹴散らして行軍していく。
 「乗り遅れるな」と駆けていくだけの日本人。それで、いいのか。その先に、本当に「幸せ」は待っているのか。
 むしろ、島にこそ、村にこそ、学ぶべき何かがあるのではないのか。
 そういうことも、私は有吉さんと語りあった。
 彼女には、ペンを武器に、「大勢の人の役に立ちたい」という志があった。
 世評には敏感だったが、人気を追いかけたり、売れればいいという卑しさとは根本的に違った。
 また、自分の小さな周辺にしか通用しない自己満足のような文学よりも、もっと普遍的なテーマに肉薄していった。
 人種差別、嫁と姑の葛藤、女性から見た日本史の裏面、権力の横暴、偽善の信仰者、政・財・官・学界ぐるみの汚染隠し……。
 「こんな、ばかなことがありますか?」
 有吉さんのあの、よく通る声が聞こえてくる気がする。
 それは、「人間らしく生きたい」という原点からの声、いわば「いのち」の側に立った問いかけだったのではないだろうか。
 しかも決して、大上段の「告発」の文学ではなかった。こぶしを振り上げたり、声を張り上げたりはしない。抑制のきいた、格調ある文章であった。
 『海暗』では、御蔵島が江戸時代、流刑の島だったことも紹介されていた。よく、ここまで、お調べになったと感心した。
 古来、正義の流刑者が、どれほど多かったことか。日本でも、そうだつた。世界でも、そうだったろう。
 正義の人が「悪」の烙印を額に押され、悪の人間が正義だと胸を張り、悪意の勝利者が帝王のごとく振る舞う社会。
 そんな人間社会とは、何だろう。そんな矛盾だらけの人生とは、何だろう。
 彼女の目は、矛盾の奥にあるはずの「信じきれる真実」を探し続け、光り続けていた。
10  真剣! 息をするのも忘れて書く
 有吉さんは、豪胆のようで、こまやかな神経を持った方だった。
 私が肺病であったことも、ご存じで、「よく耐えましたね。そんなお体で、よくもまあ、ここまで……信念、信仰というものの、大きな実証ですね」。
 かくいう有吉さんも、幼いころから体が弱く、二十歳まで生きられるかどうかすらわからなかった(有吉玉青『身がわり――母・有吉佐和子との日日』新潮社、参照)。作家になってからも、決して頑健な体ではなかった。新聞、月刊誌などの連載を多数かかえておられた。
 「書く」という作業は疲れる。体じゅうの細胞が消耗しきったようにさえ感じるものだ。
 彼女は、作品のためなら、すべてを注ぎ込んだ。時間も惜しまない。労力も惜しまない。原稿に向かえば、「息を止めて書いています」という真剣さである。(「小説を書くのは難しい」、宮内淳子編『作家の自伝109 有吉佐和子』所収、日本図書センター)
 「一つ書きあげたあとは、必ず倒れた。けれども静養の間に、もう戦いは始まるのだ」と娘の玉青さんはつづっている。(前掲『身がわり』)
 書いて書いて、倒れても、また書く。次へ。また、その次へ。しかも「次」は、いつも新たな挑戦であり、脱皮でなければならないのだ。
 玉青さんは、小学生の時、書き初めに何と書こうか、お母さんに相談した。言下に、答えが返ってきた。
 「我生きん」(同前)
 それは有吉さんが自分に言い聞かせていた言葉だったのかもしれない。
11  私は生きる! 燃え尽き灰になるまで
 有吉さんは、時代へのアンテナを高く張りめぐらしていた。
 「これからは漫画の時代になるかもしれません」と言って、二十冊ほどの漫画を私に贈ってくださったことがある。
 その中に劇画『あしたのジョー(高森朝雄作、ちばてつや画、講談社)があった。不良少年ジョーがボクシングに目覚め、生きる手ごたえを戦いとっていく物語である。
 「プスプスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない ほんのしゅんかんにせよまぶしいほどまっかに燃えあがるんだ そしてあとにはまっ白な灰だけがのころ……」(第16巻)
 そんな生き方を、有吉さんもしたいという意味だったと思う。
 昭和五十九年(一九八四年)夏、突然、有吉さんの計報が全国を駆けた。急性心不全。五十三歳という若さだった。
 前の晩までお元気で、「おやすみ」と言って、寝床に入り、そのまま起き上がらなかった。朝、数秒だけの発作で、苦しみもなく、安らかなお顔だったという。
 有吉さんのことを、だれよりもよく知るお母さまが、こう言われたと聞いた。
 「あの娘は……燃え尽きたのです」
 残ったものは、しかし、灰ではなかった。
 真っ白な花のような香り高い名作の数々と、真っ白な光のような鮮烈な生の軌跡であった。

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