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日蓮大聖人・池田大作

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ぺトロシャン副総裁(前東洋学研究所所長… ロシア科学アカデミー・サンクトぺテルプルク学術センター

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

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2  歴史の教訓から学ばない政治家たち
 博士の専門の一つは、オスマン・トルコ帝国の歴史である。
 「オスマン・トルコの崩壊は、ソ連の崩壊の過程を思い出させます。ソ連時代、私は、このテーマで論文を書いたこともありますが、政治家たちは興味を示しませんでした。人間は、歴史の教訓から『学ぼうとしない』ものです。だから同じ過ちを繰り返すのです」
 サンクトペテルプルク。この「水と宮殿と緑の都」を私が訪ねたのは、一九七四年(昭和四十九年)、初めての訪ソのさいであった。当時は、レニングラードである。
 世界遺産でもあるとの美しき街の「学びの殿堂」が、ネヴァ川のほとりに建つ「ロシア科学アカデミー・サンクトペテルプルク学術センター・東洋学研究所」である。
 東洋の写本だけでも「六十の言語で書かれた約十万点」の貴重なコレクションを誇る。日本にはない日本関係の文献や木版本も、多数保存されている。
 その一つに「世界最初の露和辞典」がある。
 江戸時代の中ごろ、薩摩のゴンザ(権左)少年が、ロシアに漂着した。彼は11歳。漢字は一から十までの数字しか書けなかった。彼は、カタカナとロシア語だけで辞典を編んだ。
 「青春のエネルギーの力であるし、想像を絶する苦労の成果だと思います。私は、いつも思うのです。『順調なだけでは、人間はできない。さまざまな試練を経て、人は何かをなせるのだ』と」
 そう語るぺトロシャン博士自身、ロシアの「激流の世紀」を泳ぎわたってこられた。
 一九三〇年のお生まれだから、第二次世界大戦でドイツとの戦いが始まったとき、十一歳ということになる。カスピ海のほとりのバクーにおられた。バクー港の税関長だったお父さんは、本来は召集されない立場だったが、志願して戦場へ。しかも将校になれるのを、あえて初めは運転手として従軍した。
 お父さんは重傷を負って帰ってきた。
 「父がもし、今の役人の汚職の話を聞いたら、ショックで立ち上がれないでしょう」博士が、そう言うくらい清廉な人だったようだ。
 お父さんが博士に教えたのは簡潔な言葉だった。「人間として生まれたのだから、生涯、人間であれ!」
3  「文化の光」を守りぬいて
 その「人間」の魂を鮮やかに教えてくれたのが、博士の師匠であった。研究所の所長のオルベリ博士であり、コナノフ博士である。
 オルベリ先生は、大戦中の”レニングラード九百日の攻防”の英雄である。ナチスが「レニングラードを、この世から抹殺せよ!」と総攻撃をかけるなか、エルミタージユ美術館の館長として、美術品を守りぬいた。
 砲弾の雨が大音響で昨裂するなか、悠然と、ある詩人の生誕五百年を祝う会合を続けた先生であった。「ファシストたちの闇」に打ち勝つには、「文化の光」を燃やし続けることだ!――と。
 このオルベリ先生から、ペトロシャン博士は、「人間は、他人に価値をもたらすために生まれてきたのだ」と教わった。また「一本の木を見て、森全体を把握せよ」とも。精確な考察と、大きな展望の両方を要求されたわけである。
 一九六一年、そのオルベリ先生が亡くなった後、研究所は混乱した。「みんな先生に守られきっていたんです。後をどうするかなんて考えてもいませんでした」
 しかも、党の中央から後任の所長に指名されたのは、オルベリ先生とは正反対の官僚的な学者であった。「これでは学問は真っ暗になる……中央は、自分たちが何を言っているのか、わかっているのか!」
 所員は、尊敬するコナノフ先生に「ぜひ所長になってください」とお願いし、党との攻防戦を続けながら、”文化の世界”を守ったのである。
 「コナノフ所長からは、オルベリ先生にないものを学びました。とくに、時間に厳格な先生でした」
 時の一滴一滴を惜しんで、学び、創造する。その心を継いで、ぺトロシャン博士は、三十三年半の長きにわたって次の所長を務めたのである研究所の偉大な発展の時期であった。
 その間、学問に無理解な政治家との戦いも続いた。
 奥さんを亡くし、同じ年に十八歳の息子さんを亡くすという悲劇もあった。悲嘆に沈み、何も手につかなくなった博士に、お母さんが言った。「『いくじなし』になってはいけないよ。人生で出あった困難を嘆いてはいけないよ」
 三年後、苦しい時期を支えてくれた今の奥さまと再婚された。
 お母さんはまた、指導者として苦労している博士に、こうも言ったという。
 「人に腹を立ててはいけないよ。だれかが悪いと思ったら、怒らないで、良くなる方向に導いてあげなければいけない」
4  「法華経とシルクロード」展を開催
 博士が、しみじみとした声になった。
 「ぺレストロイカの前は『お金はあっても、自由がなかった』。今は『お金はないが、自由がある』。昔のほうがよかったのではと聞かれると、私たちは言うのです。『いいえ!』と。どんなに苦労しても、私たちには自由が大事です。その自由で、世界の友人と一緒に前進していきたいのです」
 「法華経とシルクロード」展も、研究所と私どもとの友情の結晶である東京、ウィーン、ドイツで開催できた。
 平和の経典・法華経の写本類が今日まで伝えられた陰にも、ドラマがあった。”九百日の包囲”の間問も、破損しないように、二人の男女の所員が、ときどき箱を開けては風を通したり、飢えに苦しみながら、身を挺して”仏の言葉”を守りぬいたのである。
 ペトロシャン博士が言われた。「いちばん大事なものは人材です。自分の仕事に命をかけていく。そういう人間こそが宝なのです」
 人間、人間、その人間を育てる根幹が師弟である。
 「私にとって、人生最大の幸福は、二人の偉大な師匠をもったことです」
 博士のとの精神が継承されるかぎり、東洋学研究所の未来は燦然と輝くにちがいない。

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