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日蓮大聖人・池田大作

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井上靖氏 ”烈日の生”を求めた詩人の魂

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  「潮」が日本を代表する文化誌に
 総合雑誌「潮」が、今年(2000年)、創刊四十周年を迎えた。
 読者の皆さまに支えられ、また多くの作家、芸術家、学識者の方々のご支援によって、今や日本を代表する文化誌の一つに成長したと、私は確信する。
 聖教新聞社の中に編集部を置いてスタートした当初とは、隔世の感がある。
 そうした発展を、陰に陽に見守り、励ましてくださった作家のなかで、とくに忘れられないお一人が、井上靖さんである。
 親しくしていただいていた「潮」の若き編集長に、ある日、井上さんから電話があった。
 「少し、お話ししませんか」とのこと。
 編集長が、ご自宅にうかがった。
 一九七〇年(昭和四十五年)――「言論問題」の嵐の渦中であった。
 当時、何人かの作家は、「潮」をはじめ創価学会関連の雑誌には、今後、執筆しないという共同声明を発表した。「潮」の連載を中断した作家もいた。
 井上さんが理事長を務める「日本文芸家協会」でも、一部の作家の間から、創価学会への抗議声明を出すべきだという声があがっていたようだ。
 井上さんが編集長を呼んだのも、そのことについて話すためであった。
2  嵐の中の励まし
 私が彼から聞いたことを、ありのまま記すと、井上さんは開口一番、こう言われたそうである。
 「私は、池田先生とお会いして、あれほど深く文学を理鰍し、また、ご自身でも筆を執られる先生が、『言論の自由』とか民主主義の基本となることに対して、間違ったとらえ方をされるはずがないと信じています。池田先生のことが、人間的な理解が伴わない形で、誤解されたまま、マスコミに喧伝されているのではないでしょうか」
 「火がつけば、付和雷同しやすいそれがマスコミの欠点です。私も新聞記者をしていましたから、ジャーナリストとしての経験上、よくわかっています」
 そして「協会として特定の人々を排斥するような、そんな声明を出すなど、少なくとも私が理事長をしているかぎり、するつもりはないし、させません」と断言されたのである。
 同席されていたふみ夫人も「池田先生は、大変な文学的見識をお持ちなんですね。靖も先生にお目にかかって、興奮して、興奮して話していましたよ」と、言葉を添えてくださったそうである。
 私を評価し、信ずるというかたちをとって、苦境の青年編集者を何とか元気づけたいという、ご夫妻のお心であったにちがいない。
 また、彼を通じて、私に何らかの励ましのメッセージを送ろうとしてくださったのかもしれない。
 こうも言われたという。
 「仕事でも人生でも、いろいろあるものです。私もそういう時代をくぐり抜け、いろんなことで板ばさみにもなってきました。今は、降りかかった火の粉みたいに、”なんでこんなことを”と思うかもしれないけれども、すべて、人生のかけがえのない体験だったと、後々になって思い起こされてきますよ」
 ”逆境”にある人に対して、どういう態度をとるか。そこに、人の「人格」は表れる。
 井上さんご夫妻とは反対に、ここぞとばかりに罵声をあびせる人々が多かったことは言うまでもない。
 私の心境は、わが身がどうなろうとも、恩師戸田城聖先生からあずかった大切な創価学会を守るという一点にしかなかった。
 ある会合で、「潮」のスタッフを見つけ、声をかけた。
 「雑誌は出せるのか? 執筆拒否は大丈夫か?」
 「大丈夫です」と、スタッフ。
 私は言った
 「(雑誌を出し続けるのが)どうしても苦しかったら、私を批判して乗り越えろ!」
3  往復書簡で『四季の雁書』を編む
 井上さんとは、往復書簡『四季の雁書』(本全集第17巻収録)を編んだ。
 「潮」の一九七五年(昭和五十年)七月号から一年間の連載で、七七年に一冊にまとめられ。
 「日本の文化に貢献するためにも、ぜひ、やらせていただきたい」
 温かいお言葉が忘れられない。七五年三月四日、聖教新聞社で三時間余にわたって語りあったさいであった。
 井上さんとは、それ以前にも、作家の有吉佐和子さんらとともにお会いしている。
 書簡を交わし始めたとき、井上さんは六十七歳。私は四十七歳。立場も年齢も異なる二人であった。
 私は、井上さんからのお手紙が、いつも待ち遠しかった。
 そこには、花があり、星があり、旅情があった。美へのときめきがあり、歴史のロマンがあった。
 四季折々の自然を語り、人間の運命を語り、人や芸術との出あいを語りながら、行間には、いつも、井上さんの文学者としての「高い志」が香っていた。
 最初のお手紙には、中国に作家代表団の一員として招かれ、長江(チャンチャン〈揚子江〉)の流れを初めて目にした印象を記されていた。
4  「永遠に触れる」仕事がしたい
 悠久の大河。その畔に暮らす人々。太古から続いてきた自然と人間の営みを見つめた一文には、井上文学の中心にある祈りが語られている。
 「――揚子江の岸で、手を赤くして甕を洗っている女たちを見た。私もまたそのようなところで、そのようにして私の文字を書きたい。
 これはその時の私の感懐であります。私は一人の文学の徒として、いつでも永遠に触れたところで仕事をしていたい気持でおります。そして永遠を信じ、人間を信じ、人間が造る社会を信じ、中国の女の人たちが手を赤くして甕を洗っていたように、私もまた手を赤くして自分の文章を綴りたい」(「”永遠”に触れること」、『四季の雁書』所収)
 つかのまに過ぎていく無常の人生が、永遠なるものと交差する瞬間がある。その詩的瞬間を求める旅が、井上さんの文学だったかもしれない。
 井上さんは、中国だけでも二十七回。多忙なスケジュールのなか、アジア、ヨーロッパ、アメリカなど世界中を旅された。六十六歳から八十一歳までの十六年間は、海外に出ない年はなかったほどだ。
 しかも、シルクロードの遺跡の町など、過酷な旅路を、あえて進まれる。
 そのバイタリティーの源泉は、若き日に柔道で鍛えた体躯と、ふみ夫人が丹精こめて庭でつくった野菜の滋養と、やはり「永遠に触れたところで仕事をしたい」という内奥の衝動だったのだろう。
 一九七九年の夏には、東洋哲学研究所の研究者、「聖教新聞」のカメラマンも同行し、カラコルム山脈の奥地からインダス渓谷を下る旅をされた。
 朝五時に出発してハイウエーを走る。日本から持っていったセ氏五〇度までの寒暖計は、すぐに使えなくなった。
 断崖や岩石砂漠の問を縫うように走り続けること十八時間。用意した食糧は午前中に尽きた。地震多発地帯のため、崖崩れで何カ所も道路が寸断されている。目的地に着いたのは夜中の一時だった。
 「こういう旅だと知っていたら、遺書を書いてくるべきだったね」。そう言って笑いながら、大学ノートを手に、いつものように克明なメモをとり、詩作し、スケッチをされていたという。井上さんが七十二歳の時である。
5  亡くなる直前まで毎月、詩作を発表
 井上さんは、雑誌の記事などで「詩人」と呼ばれると、「ほら、見てごらん」と、わざわざ家族を呼んで、うれしそうに見せたそうである。
 主な作品だけでも、八冊の詩集を出しておられる。
 「どんなにすばらしいことを書いても、人に伝わらなくてはなんにもならない」と、とくに散文詩の形を好まれた。
 小説『猟銃』や『漆胡樽』も、先に同じ題の詩があって、その詩が「小説に生まれ変わりたがっている」と感じて、書いたものだという。
 井上文学にとって、小説は「詩が閉じこめられてある箱」であった。そこから、あの気品も叙情も劇的効果も生まれたのだろう。
 晩年、体力が衰えてからも詩作は休むことなく、月一回の詩の発表は、亡くなる直前まで続いた。
 詩人として活躍されている二女の佳子さんの作品が初めて活字になったとき、井上さんは笑みを浮かべ、こう言われたそうである。
 「詩を一篇書けば、それはもう誰でも詩人。だから詩を書いた君は、もう詩人」
 しかし、ある時は、厳しく言われた。
 「卑しくも詩人と自分を言うのなら(中略)詩を書いて書いて、書きまくれ。詩のひらめきを待って書くなんて、あまっちょろい。詩人というなら、一年に千、いや万の作品をも書くべきだ。僕はそう思うね。そうしているから、ひらめきも湧く。たくさんの駄作のなかから、秀作も出る。そのなかにひとつでも、本当にいい詩が生まれるならば、それで本望じゃないか、そういうものだろう」(黒田佳子『父・井上靖の一期一会』潮出版社)
 井上さんには、温厚な紳士的良識の裏に、令嬢に語られた言葉のような「烈しいもの」が共存していた。
 書簡にも、こう書かれていた。
 「夏」と題する詩の一節。
 「私は書斎の縁側の籐椅子に椅って、遠い風景を追い求めている。烈日に燃えた漠地の一画、遠くに何本かの龍巻きの柱が立ち、更にその向うを、静かに騎舵の隊列が横切っている。そうした旅への烈しい思いだけが、風の死んだ、もの憂い、しんとした真昼のうしみつ刻の中に、私を落着かせる。私を生き生きとさせる」(「烈日のごとき人生への想い」、前掲『四季の雁書』所収)
 「烈日」という言葉が好きだという井上さんの”旅への渇仰”である。
 また、正月元日の感懐をこめた一節。
 「今自分はもう凧を揚げるために、凍てついた広場にも、田圃にも出掛けて行くことはない。揚げるべき凧も持っていない。しかし、何かを揚げなければならない、そんな思いがやって来る。凧に似たものを、高く揚がるものを、烈風の中に舞い、奔り、狂うものを、高く揚げなければならぬと思う」(「老人問題・龍のこと」同前)
 「烈日」のごとく!
 「烈風」に向かって!
 この、迸る闘志が、井上さんの作家魂であると私は思う。
6  「生涯青春」の言葉に共鳴
 だからなのだろう。私の書簡に「生涯青春」という言葉を見つけて、ことのほか共鳴されたのは。
 「生涯青春、生涯青春、――たいへんすばらしい言葉を頂戴した思いであります」
 「人間の一生が青春の姿勢で貴かれていたら、本当にどんなにすばらしいことであろうかと思います」
 「私もまた”生涯青春”を心掛けようと思いますし、実際にまた心掛けて来ております」(同前)と。
 井上さんが本格的に小説を書き始めたとき、すでに四十代であった。そこから堰を切ったように作家活動を始められたのである。
 『四季の雁書』の連載が終わった一九七六年(昭和五十一年)の秋、井上さんは「文化勲章」を受けられた。
 ささやかながら、お祝いの気持ちをこめて、松の盆栽を贈らせていただいた。
 ところが、この松を、どう置くかで、ご心労をおかけしてしまったようなのである。
 当時のご様子を、ふみ夫人が日記風に記されている。
 「文化勲章のお祝いに、池田大作様からいただいた見事な松の大盆栽は、大そう手入れが難しいようだ。二百年も経っているであろうという老木を、高松からフェリーに載せて、特製の大きな鉢を積んだトラックには、数人が付き添って来られた。
 枯らしては申しわけない。靖とあれやこれやと方法を考えてみたが、なかなか名案が浮かばない。私には、枯らさずに、守りをする自信はとてもない。
 植木屋に相談して、直接、庭に降ろすことになった。水捌けをよくするために、土を小高く盛り上げて、その上に植えた。昔、出雲へ行った時に頂戴した小さな石灯龍を傍に供えた。庭の椴が一段と上がった」(井上ふみ『風のとおる道』潮出版社)
 かえってご一家を煩わせてしまい、恐縮至極だが、ご夫妻の温かな心に守られて、松は今も堂々と、幸せそうに、井上家の庭に溶けこんでいるとのことである。
7  病床で命を注ぎ小説『孔子』を完成
 井上さんが私に、しみじみと言われたことがあった
 「今の私は、一生に一冊、書ければいいという気持ちで、『最後の作品』の仕上げを課題としています。晩年、人間として完成に近づいていく年代に、最高にいいものを書ける――できることなら、これが一番、幸せなことと思います」
 井上さんにとって、その「一冊」となったのが、小説『孔子』である。
 「二十一世紀に於ての孔子解釈を、小説の形で書きたい」。その思いは、長年、温めておられたものであった。しかし、実際に原稿用紙に向かったのは、一九八七年(昭和六十二年)五月、八十歳になってからである。
 きっかけは、前年の秋の「食道ガン」の手術。五時間にわたる大手術を乗り越えられた。
 「まだ、やりたいことがたくさんある」
 二カ月で退院した後、翌年春から活動を再開。最初に取り組んだのが、「孔子」の連載であった。
 一九八九年(平成元年)の春まで二十一回にわたって執筆。その間、肺にガンが見つかり、コバルト照射のために入院せざるをえなくなった。
 病室に机を持ち込んで連載を続行。身も心もすり減らす思いで完成させたのが『孔子』であった。
 執筆中、以前から続けていた中国への五回目・六回目を敢行された。「なら・シルクロード博覧会」にも足を運ばれた。
 そして一九八九年九月に発刊された『孔子』は、大きな反響を呼び、その年の「野間文芸賞」を受賞。六一年の『淀どの日記』に続いて、二度目の同賞受賞となった。
 井上さんが、どれほど一途に孔子を思索しておられたか。すでに食道ガンの手術後、それが現れたと、ふみ夫人は証言しておられる。
 手術を終えた夜、集中治療室に入った井上さんは、なんと無意識のうちに、周りの医師や看護師たちに、孔子の講義をされたのである。
 テーマは「仁について」。
 人偏は「人」、「二人」。たとえば医師と患者、患者と看護師の二人が、互いに相手の立場になって考えてあげること、これが仁である――等と。ご本人は覚えていないが、理路整然と、楽しく語られたそうだ。
 先ごろ、「中国の上海博物館が所蔵する戦国時代の竹簡が、新たに解読された」との報道があった。(「静岡新聞」2000年8月17日付夕刊、参照)
 その中には、孔子が若き弟子たちに「詩」について語った言葉も、約九百八十字しるされていたという。『論語』その他の文献にもない、重要な発見であるとのこと。
 なかに「孔子日く、詩は志を離るるなかれ」という一句があるとの記事が目にとまった。
 古来、心の中の「志」を言葉にしたものが「詩」とされる。詩人をつくるものは、その高き志なのである。
 孔子が活躍した時代は、今から二千五百年ほど前とされる孔子と弟子たちの言行録が『論語』だが、その成立は、孔子の死後、三百年たってからだと言われている。
 小説『孔子』の時代設定は、孔子の没後三十三年。まだ『論語』がまとめられていない時期である。
 架空の弟子・蔫薑えんきょうを登場させ、彼を囲んで、当時の孔子の研究者たちが質疑応答や討論を展開していくという構成である。
 仏教で言えば、釈尊亡き後に弟子たちが”師の教えは、こうであった”と確認しあう「仏典結集」に似ているであろうか。
8  「歴史だけは真塾な姿勢で勉強を」
 歴史に取材した、スケールの大きな小説は、井上さんの仕事のなかでも、最も人気のある作品群と言えるだろう。
 その魅力について井上さんに語った夕べ、私は、戸田先生から「歴史だけは真摯な姿勢で勉強せよ」と教わったことを伝えた。
 すると、井上さんは、うなずいて一言、ぽつりと「歴史は一番こわいものです」
 歴史への謙虚な畏敬をなくして、”歴史を手玉にとる”ようなまねはしてはならないとも語っておられた。
 たしかに、そうである。古人は「歴史は鏡」と教えたが、才知にまかせて、歴史を”手玉”にとったつもりでも、そういう軽薄な「賢しら」をも、やがて、くっきりと映しだしてしまうのが歴史のこわさだと思う。
 孔子を通して、井上さんが、その「一番こわい」歴史に挑み、後世に残そうとされたものは何であったか。
 それは――人類発展の機軸は「師弟」という人間性の触発である――という、井上さんの洞察であり、未来へのメッセージではなかったかと、私は思う。
 井上さんは書いている。
 「私は人間と人間との関係の中で、一番好きなのは師弟の関係である」(「私の自己形成史」、『井上靖全集』23所収、新潮社)
 『四季の雁書』でも、私が戸田先生への真情を率直に申し上げると、井上さんは、厳粛なまでに真剣に受けとめてくださった。
 「私の傍らにはつねに今は亡き恩師戸田城聖先生の姿があります。先生が青年と語らったときの表情や言葉が私の前に克明に像を結ぶように思えます」
 「私の心の中には、いつも戸田城聖という人格がありました。それは生きつづけ、時に黙して見守りながら、時に無言の声を発するのです。生命と生命の共鳴というのでしょうか」(「滝山祭・そして思師戸田先生」、前掲『四季の雁書』所収)
 これに対し、井上さんは書いてくださった。
 「こんどのお手紙で、私にとって最も大切な部分は、静かな文章で、しかし烈しく語られてある、亡き戸田城聖氏との運命的出会いの部分であります」
 「今や哲学も、宗教も、道徳も、何もかもが初めからやり直さなければならぬように思われます。池田さんがこれまで長い間情熱を以て為されているお仕事の中心がそこにあることは言うまでもありません」(「カントの言葉・若い人たちのこと」、同前)
 何もかも初めから――現代文明への井上さんの憂いは深かった。
 人間が失った「聖なるもの」を取り戻さなければならないとも、どこかで書いておられた。
 ある青年には、こう語られたという。
 「『自分の師』というものが、日本人の意識から失われて、ずいぶん時がたった。そういう、日本人が忘れてしまったものを思い起こさせるような作品を書いておきたいね」
9  師の教えの周りを弟子よ回れ! 動け!
 小説『孔子』では、蔫薑が、師・孔子と、顔回、子路、子貢ら弟子たちとの「師弟の交流」を回想し、蔫薑の心に刻まれた師の姿、弟子の生き方などを、研究者たちに語っていく。(前掲『井上靖全集』22所収。以下、同書から引用・参照)
 回想される場面の一つが、放浪の旅の一夜の”星空座談会”。北の空を見つめながら、孔子が考えている。
 「北辰、その所に居て、衆星、……」(=北極星が、居るべき場所に居れば、他のもろもろの星は……)
 そのあとに続く言葉は何だろう。
 弟子たちは口々に言う。
 ――他のもろもろの星は、これを「囲む」でしょう。
 ――「迎える」ではないでしょうか。
 ――「捧げる」だと思います。
 孔子は、皆の顔を見まわすようにして言った
 「ただ、私には北極星を中心にして、他の星がその周囲を廻っているように思える」
 「若し廻っているとすると、”北辰、その所に居て、衆星、これを廻る”がいい」
 「これを廻る」――なぜ、師がそう言われるのか、弟子たちは考えた。
 師と同じように口誦さんでみた。すると、大きな感動が、皆の心にわきあがってきた。
 「俺たちは今まで、子(=孔子)を囲んできた。子を捧げ、仰いできた。子を、お迎えしてきた。
 併し、これからは、子のまわりを、子の大きい訓えの廻りを、心虚しくして廻らねばならない。
 廻るということは行動である。子の教えを、子の訓えを、中原のすみずみまで行き亘らせねばならない」
 そして後に蔫薑は、研究者たちからう在がされるようにして、亡き師への思いを語る。
 「子とは、毎夜のようにお会いしている」
 「人間について、人間が生きる現世というものについて、あれこれ思いを廻らしていると、私の考えを訂正したり、励まして下さったりする子のお声が、時折、遠くから、或いは近くから聞えて参ります」
10  「この人だ」と決めた人が人生の師匠
 「君の師匠は、池田先生だろ?」。ある青年が、井上さんから聞かれた。
 「はい。池田先生が、どう思われるかわかりませんが、私は、そう決めてます」
 「そうなんだ!」。井上さんは目を、かっと見開いた。
 「人生の師匠というのは、お稽古ごとの師匠とは違う。学校で習ってるから師匠――そんな平板なものでもない。自分が『この人だ』と決めれば、その人が、自分の人生の師匠なんだよ」
 ”青年は無限の可能性の泉だ”と、つねに励ましを惜しまない井上さんであった。
 日中友好の先駆者として、中国の友人との信義のためには、身を危険にさらすことも厭わない井上さんであった。
 売らんがために学会を中傷する週刊誌の関係者に会うと、「池田さんは大事な人だ。あんなことやめろ! 社長に言っとけ!」と語気を強める井上さんであった。
 人生の最後まで、「烈日」のごとく、皆を照らし続けた井上さんであった
 『孔子』発刊の翌々年(一九九一年)の一月二十二日、入院。一週間後の二十九日、八十三歳の太陽は空を茜に染めながら、静かに山の端に融け込んだ。
 入院前にしたため、最後の詩となった「病床日誌」(前掲『井上靖全集』1所収)の一節。
 「一日、端座して、
 顔を庭に向けている。
 樹木も、空も、雲も、風も、鳥も、
 みな生きている。
 静かに生きている。
 陽の光りも、遠くの自動車の音も、
 みな生きている。
 生きている森羅万象の中、
 書斎の一隅に坐って、
 私も亦、生きている」
 かけがえのない生――。
 静かに燃える命のその風景に、あの庭の「松」もあったのかと思うと、どこかでまた、その話題から、井上さんと対話を始めたい気持ちが湧いてくる。

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