Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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レスター・サロ一博士 「実社会に貢献する経済学」を志向

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  「第三次産業革命」の現代を駆ける
 「経済学者として、歴史上、いつの時代にいちばん、興味をひかれますか?」
 サロー博士は即答した。
 「現代です!」
 「理由は明快です。
 現代ほど、技術革新の進んだ時代はありません。にもかかわらず、だれも『どこに、たどり着くのか』目標点を見いだせない。ちょうど、月世界を『探検』しているような興奮があります」
2  今、起こっていることは「変化」でなく「革命」なのだ――これがサロー博士の時代認識である。
 一九九〇年代、社会が富を生みだす方法が根底から変わった。それまでの資源」が富を生みだす経済から、「知識」が富の源泉となる「知識主義経済」への移行である。
 後世の歴史家は、現代を「第三次産業革命」と呼ぶであろう、と博士は言う。
 博士自身、この「革命」の渦の中を、熱い鼓動で駆けておられる。
 教鞭をとるマサチューセッツ工科大学は、「シリコン・パレー」と並ぶアメリカのハイテク基地「ルート128」を支える頭脳。卒業生・教職員は四千の企業を興し、それらの企業だけで、世界で二十四番目の経済規模になるという。
 象牙の塔にこもって難解な専門用語を操るのが「学者らしい」と言うなら、博士は、まったく、その対極。社会の最前線にアンテナを張りめぐらせながら、ダイナミックに行動し、「実社会に貢献する経済学」を志向されておられる。
 「どんな学問の成果も、一般市民に理解できなければ、真の価値はない」が博士の信条である。
3  創造力とビジョンが求められている
 私は問うた。「人類にとって、『本当の意味での富』とは何でしょうか」
 「冒険心、そして探求心だと思います」と博士。
 始まったばかりの第三次産業革命。かつて探検家は「未知の国々」に向かった。同じように今、私たちの目前には、「未知の経済社会」が広がっている。
 その今、求められているものは何か?
 それは「創造力」と「ビジョン」だ。加えて、それを実行する「行動力」だ。
 これが博士の持論なのである。
 じつは、博士は、こうした「勝者の条件」こそが、今の日本に欠けているものだと、厳しく論じておられる。
 「今日世界がどうあるべきかについての日本のビジョンがない」
 「今まで日本は、規定されたゲームをするのはとても上手だった」「しかし、いつまでも他人ゲームのルールを決めさせるのでは、そのゲームに負ける可能性が高い」
 「重要なのは、自分たちが到達しようとしている目標の特質を正確に知っているかどうかではない。本当の問題は、旅を始めるために必要な、勇気、冒険精神をもっているかどうかなのだ!」(『経済探検――未来への指針』島津友美子訳、たちばな出版)
 そのとおりだと思う。
4  「指導者は、まず自分が変われ」
 日本では、あまりにも「人まね」が多い。
 また、すべてに、おいて個人の責任があいまいだ。
 一人立って、だれが何と言おうと信念を貫くという「精神的勇気」が乏しい。
 また、そういう人を応援せず、むしろ足を引っ張ろうという傾向さえある。そういう”横並び社会”では、ビジョンも冒険心も育ちようがない。
 しんらつなジョークがある。
 沈もうとするタイタニツク号の上で、船長が、女性と子どもを先に避難させようと思い、男性乗客に説得を試みた。
 どう言うか。
 イギリス人には「あなたはジェントルマンだ。女性と子どもに先をゆずるべきだ」。
 アメリカ人には「君はヒーローになりたくないか」。
 ドイツ人には「女性と子どもにゆずるのが『ルール』なんだ」。
 そして日本人には「みんながそうしてるんだから、あなたもそうしなさい」。
 第三次産業革命が始まった九〇年代は、日本では「失われた十年」と言われるが、それも責任をあいまいにした言い方であろう。正確には、「指導者層が失わせた十年」ではあるまいか。
 博士の意見も厳しかった。
 「指導者の使命は、『国民に変化を受け入れるよう説得する』ことです。しかし、その前に『まず自分が変わる』ことが先決です。ところが、日本のリーダーは、自分は変わりたくないと思っている。変化はトップからやるべきです。政策は、それからです」
 では、どうすれば未来を切り開く「冒険心」を養えるのか?
 博士は、日本再生の一つの鍵として「失敗に寛容な社会になれ」とアドバイスする。
 「アメリカのハイテクのベンチャー企業も、十社のうちの八社は失敗します。いい技術を持っていても、だめになるケースがある。
 しかし、そうした失敗も、三回も繰り返せば、成功するようになるものです。失敗した人に、次のチャンスを与えてこそ『起業家』が育つのです」
 これは、日本の教育にも重大な示唆を与えていると私は思う。
 生徒のマイナス面を数える”減点主義”よりも、「小さなことに、くよくよするな!」と励まして、励まして、自信をもたせ、意欲をかき立てていく愛情が、人を育てると信ずるからだ。
5  銅山のアルバイトで民衆に学ぶ
 「世界の人々に役立つことをしたい!」
 これが、博士が経済学を志した動機であった。
 ロッキー山脈にいだかれたモンタナ州の生まれ。お父さんは牧師、お母さんは高校の数学の先生。
 父は「人を思いやる気持ち」を教えてくれた。
 母は「ベストを尽くす」ことを教えてくれた。
 家庭は裕福ではなかった。奨学金のほかに、高校、大学のころ、銅山でアルバイトをしながら学んだ。
 「今は政府の教育予算が削減され、奨学金も少なくなったので、今ならとても大学には行けなかった」と述懐されている。
 銅山では、危険な職場で、精いっぱいに生きる庶民の実像に触れた。目の前で、作業員が機械の犠牲になった経験もある。
 「銅山で、何を学びましたか?」
 そう聞くと、博士は「彼らは、教育を受ける機会を得られなかったにもかかわらず、鋭い洞察力で、世界がどういう仕組みで動いているかを知っていました。インテリとは違った、彼ら独自の視点からの洞察でした」と。
 民衆に学び続ける人は、行き詰まらない。
 「学問の目」と「民衆の目」――その”複眼”を持っているところに、博士の強みがあり、人間性があると私は見ている。
6  「敗者のいない社会」へ
 オックスフォード、ハーバード大学に学び、三十三歳の若さでマサチューセッツ工科大学の教授となった博士が、最初に著した本のタイトルは『貧困と差別』。
 資本主義の宿命である「不平等の拡大」「貧富の拡大」をどう克服し、平等で公正な社会を実現するかに、博士の関心があった。
 なにごとも「行動」を信条とする博士らしく、ボストンの貧困地区に居を構えたこともある。
 博士を有名にした『ゼロ・サム社会』も、「利益と損失を合計すればゼロになる」すなわち、勝者がいれば必ず敗者がいるという「ゼロ・サム」の要素が社会には組み込まれている、と論じたものである。
 それを認識し、「敗者のいない社会」をつくるための社会的合意と政策を実行しなければならない、と博士は考えておられた。
 今、博士が憂慮しているのも、共産主義が退潮し、資本主義が「勝利」したなかで、資本主義に「遺伝子」として組み込まれたマイナス要素を、どうするかということである。
 すなわち、「弱肉強食」の論理と、長期的展望よりも目先の利益を優先する「近視眼」を、どう克服するのか――。
 博士とは、一九九九年、二回お会いした。一月と十月である。
 私と世界の識者との語らいは、いつのまにか、のべ千五百回を超えたが、経済学の泰斗とは、機会が少なかったかもしれない。
 その中のお一人、ジョン・ガルプレイス博士(ハーバード大学名誉教授)は、サロー博士と私の「共通の友人」である。
 仏法と経済学は、一見、関係がないようにも見える。
 しかし、実際には、「仏法」は即「社会」なのである。
 仏法は「人間の幸福」を目的とする。その人間は「社会の中で」生きている。ゆえに、社会を離れた仏法は、生きた仏法とは言えない。
 仏法は、経済活動を行う「人間」という主体に光を当て、その価値観や心のあり方にかかわっていくのである。
 一方、経済学の目的も本来、「社会の中で、どうしたら人間が幸福になれるか」であろう。
 「経済」の語源も「経世済民」。「世の中を治め、民衆を救う」ことだ。
 ともあれ、仏法者である私は、経済学が二十一世紀の人間と社会をどう展望しているか、世界最先端の博士から学んでおきたいと思った。
 サロー博士も、関係者にこう言われていたという。
 「池田SGI会長と、お会いしたいのは、経済を論じあうためではありません。もっと大きな視点から、世界の未来について、語りあいたいのです。経済といっても、社会の現象の反映にすぎない社会がどこに向かおうとしているのかを見極めなければ、経済のあるべき未来も語れないのです」と。
 創価学会についても「二十年にわたる日本との交流を通して、注目してきました。いろいろと批判されていることも知っています。しかし、行動するからこそ批判されるのです。批判されないのは、行動していないことを意味するにすぎません」と理解してくださっていた。
7  人間は「消費者」でなく「建設者」と見よ
 資本主義の「勝利」。
 では、次に来るものは?
 「国際資本主義の独裁」が、残酷な弱肉強食の世界をつくるとしたら、そんな世界が人間にとって――少なくとも圧倒的多数の民衆にとって――幸福なはずがない。
 かと言って、「共産主義の独裁」に戻るわけにもいかない。
 人類が自由に生きながら、富を公正に配分し、「共に栄える」ためには、何が必要なのか。
 二十一世紀は人類に、「その智慧があるか?」と問いを突きつけているのである。
 博士は「人間を、どう見るか」――その人間観を変えよと言う。
 多くの経済学者が、人間を「ホモ・エコノミクス」つまり「欲望のかたまり」ととらえて、理論を積み上げてきた。
 しかし、その結果、経済学は人間を救っただろうか?
 サロー博士は考える。
 人間を「消費者」ととらえるかぎり、行き詰まりは開けない。
 ”消費こそ「価値」であり、ほかはすべて、そのための「コスト」”と見ているかぎり、その貧困な人間観がもたらす未来は、荒涼たるものにならざるをえない。
 「消費者」ではなく、人間を「建設者」と見よ、と博士は論じるのである。
 「人間がほかの動物と違うのは、建設者である点だ」(『富のピラミッド』山岡洋一訳、TBSブリタニカ)
 「人類の記憶に残るのは常に建設者なのだ。決して消費者が歴史に残ることはない」(前掲『経済探検――未来への指針』)
 「弱肉強食」「近視眼」を生む「消費者のイデオロギー」に代わって、「建設者のイデオロギー」を広げることが、「共に栄える」二十一世紀の鍵だというのである。
 博士の着眼点は、結局、「人間の心の変革を推進するしかない」というところにあると、私は思った。
 「遠まわり」のようで、それこそが「近道」なのである。
 否、その道しかないのだ。
8  「宗教に”人間向上”の力がある」
 ゆえに、私はSGIがめざすものも「人間革命による創造的社会の建設」であることを、サロー博士に申し上げた。
 「ローマ・クラブのぺッチェイ博士と語りあったさいも『二十一世紀へ今、必要なのは、人間革命である』と一致をみました。
 この急速な変化の時代にあって、変化のスピードに負けず、むしろ『変化を先取り』しなければならない。そのために、どう自分を変えていけるのか。これが今、問われていると思います」
 博士は言われた。
 「資本主義の社会は、あるがままの人間を受け入れます。そのため人は、向上心をなくしてしまうことがある。
 しかし、宗教には『人間を向上させる力』があります。『人間は、より良くなれるんだ』ということを、宗教は資本主義社会の中で教えるべきです」
 私も、博士とともに、こう叫びたい。
 冒険者たれ!
 探検家たれ!
 そして、二十一世紀に探検すべき「未知の世界」は、何より人間自身の中にあるのだ。
 人間自身の中から、どれだけ「慈愛」を引き出し、「智慧」を引き出し、人の幸福に尽くすことを幸福とする生き方を、社会に定着させていけるか。
 新世紀という山は、「恐ろしい危険」という谷底と、「すばらしい未来」という山頂と、両方をもっているのである。
 厳しく、そして、おもしろい時代が始まった!
 アメリカの一ドル紙幣には、ピラミッドが描かれている。ピラミッドの頂上は、なぜかか宙に浮いている。
 サロー博士が言った。
 「これは、『これから何でも建設できる』という”希望”を意味しているのです!」

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