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李国章香港中文大学学長 「インターネット時代」の人材育成を推進

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  ロンドンの学校でいじめを経験
 香港中文大学の李国章学長は、いつも「メガネの替え」を数本用意しておられるという。
 じつは、この習慣、「少年時代に、いじめられた」後遺症なのである。
 場所はロンドン。
 少年は十六歳。
 名門アッピンガム・スクールである。全校生徒九百人の中で、香港から来た李少年は”たった一人の外国人”だった。
 「お前、香港じゃ、木の上に住んでんだろう?」
 「お前んちの壁は、紙でできてるんだって?」
 容赦ない言葉をあびせられた。
 言い返せば、殴られた。
 しかし李少年は絶対に下を向かなかった。自分が、うなだれてしまうことは、自分だけの敗北ではない。
 ”中国人はイギリス人には、かなわない”と認めたことになる――。
 小さな少年が、中国人の大きな誇りを背負って、毎日のように、けんかである。
 「なんて生意気なやつだ!
 何度かやられるうち、李少年は「孫子の兵法」を使うことに決めた。
 三、四人に囲まれるや否や、まず自分からメガネを外し、一人に攻撃の的を絞る。一人を指さして「さあ、かかってこい! ぶっ飛ばしてやる! 目玉を、ぶち抜いてやるからな!」。
 一人を倒せば、あとの連中は、むやみに手を出さなくなることを知ったからである。
 李少年は、万一に備えて、メガネの替えを四、五本用意していた。その習慣が身についてしまったというわけである。
 いじめは続いた。週に四、五日は校庭を走らされた。しかし、その結果、体が鍛えられて、けんかにも負けない強さができていったのである。
2  戦いと努力で「新しき門」を開く
 2OOO年の2月、李学長の、お招きで、懐かしい香港中文大学を私は訪れた。
 中国の旧正月「春節」の休みが明けたキャンパスには、春の華やぎがあふれでいた。
 ことは開学まもない創価大学と初めて海外交流を開始してくださった大学であり、その後、世界七十数大学に広がった教育交流の「原点の大学」である。
 折しも「日本文化祭」が、にぎやかに開催されていた。
 李学長はみずから構内を案内してくださった。昨年末、東京でお会いして以来の再会である。
 歩いていくうちに、私の目は、大きな石の彫像に止まった。学長が説明された。
 「これは『二人の人間が太極拳をしている姿』です。『門』の形になっています。つまり『戦いと努力――これなくして、新しい門は開かない』ということを表しています。
 「戦いと努力」。それは、学長の人生そのものだったかもしれない。
 ケンブリッジ大学で医学を学んだ学長は「最優秀生」で卒業。しかし――。
 イギリスでは、開業医となるには、一年間、研修医として病院に勤める必要がある。李青年は自信をもって病院に申し込んだ。
 しかし、結果は不採用。十七の病院すべてで断られた。
 「なんということだ!」
 絶望のなかで、李青年は、かつての担当教授に手紙を書いた。面談した教授はたずねた。
 「君ほど優秀な学生が、なぜ採用されないのだろう?」
 率直に答えた。「人種への偏見だと思います」
 「それじゃあ、私も偏見をもっているとは思わなかったのかね?」
 李青年は穏やかに言った。
 「思いませんでした。なぜなら、先生は『教育者』ですから」
 この信頼に、教授は応えた。李青年は職を得た。
 「新しき門」は聞いた。
3  「教育」を高めよ、「普遍的技術」へ
 教育と医学。
 一見、遠く離れた分野のように見えるかもしれない。
 しかし、これを「兄弟姉妹のような応用科学」と呼んだ人がいる。ほかならぬ牧口創価学会初代会長である。
 医学と教育は、ともに、相手の生命力が委縮していくのを防ぎ、生命力が伸び拡大するのを助ける。
 医学が主に生理の面から、それを行い、教育が主に心理の面から行うという違いはあるが、ともに「人間の生命を対象」とする。
 それなのに、どうして、医学の進歩ほど教育学は進歩しないのだろうか?
 医学の進歩はめざましい。
 「かつては助からなかった命も助かる」ようになった。
 たとえば香港中文大学では、親子の間の生体肝移植手術に成功した。執刀したのは教授時代の李学長である。
 李学長は肝臓ガンや、鼻腔・口腔ガンの治療にも新技術を開発した。
 学長が育て上げた同大学医学部は「人工耳(人工の聴覚装置)」を脳幹に埋め込む手術にも、アジアで初めて成功した。障害のある人にとって大朗報である。
 それでは、世界の教育の進歩は?
 医学のように「かつては見放されたような子どもも、立派に育成できる」ように変わっただろうか?
 反対に、教育は、ますます行き詰まっているのではないだろうか?
 この点に、早くから心を痛めていたのが牧口先生であった。
 「教育学を医学のように組織立でなければならない」。そうしないと「すべての子どもに『幸福になる力』を身につけさせる」という教育の目的は実現できない。
 牧口先生にとって、教育は精神論や観念論ではなく、「科学」であり「技術」であった。
 その技術を修得すれば、だれでも、どこでも、優れた教育成果が得られなければならなかった。
 医学は、多くの「臨床経験」をもとに、成功例・失敗例を研究し、公開し、普遍性のある技術や治療法を進歩させてきた。
 ところが教育は「現場の教師」の貴重な体験が尊重されるととなく、学者や官僚、政治家その他、教育現場の経験のない人間によって指導されてきた。
 一方、現場の教師も、教育実践を分析して「普遍的な教育技術」にまで高める努力が十分でなかった。
 すばらしい教師がいても、その人がいなくなってしまったら、経験の蓄積も技術も消えてしまい、個人的な職人芸で終わってしまう。
 その結果、教育の方法は「科学」とならず「原始的状態」のままである――。
 このように憂える牧口先生に対して、ある若手教師が質問した。
 「いかなる児童にも当てはまるような普遍妥当性のある教育方法が成り立つのでしょうか? 児童の個性が一人一人異なっているのに、これを一様の型にはめ込むのは無理があるのではないでしょうか」
 牧口先生は答えた。
 「あなたは今まで、風邪をひいたことがありますか。そのとき、医者にかかりませんでしたか」
 「かかりました」
 「それでは、あなたは医学には普遍妥当性をもっ真理の存在を認めているではありませんか。教育学には認めないという理由はないでしょう」(『創価教育学体系』下、『牧口常三郎全集』6、第三文明社、参照)
4  「大学に奉仕」の理想に身を投ずる
 李先生が香港に戻られたのは一九八二年、三十七歳の年である。
 「私は『教育』を生涯の事業として選んだのです。中国人の大学に奉仕したいという理想に身を投じたのです」
 イギリス人のダイアナ夫人をともなって、一家をあげての帰郷である。
 当時、すでに国際的に著名な外科医であった。外科の「上級専任医師」になったのが二十九歳。イギリスで最も若かった。奨学金を得てアメリカに渡り、ハーバード大学では研究のかたわら、教鞭も執った。
 しかし、どうしても香港に貢献したかった。「香港中文大学が医学部を創設し、外科医を求めている」という知らせがあった。返還前の「揺れる香港」であったが、だからこそ帰ろうと決めた。
 名門の李家は、もともと「仁」を重んじ、「人のために奉仕すること」を家風として、幾多の人材を輩出しておられる。
 帰国した李先生に香港のジャーナリストから意地悪い質問があびせられた
 「あなたは欧米での教育が長く、中国文化の素養に乏しいのでは?」「中国人の心がわからないのでは?」
 李先生は三歳から学んだ唐詩・宋詩をそらんじて、記者を黙らせたそうである。
 東西の教養を身につけた学長は、こう評されている
 「中国人らしく非常に謙虚で包容力がありながら、西洋人のように何ごとに対しても勇敢に取り組み、向上しようという志を兼ね備えている。ゆえに臆することなく大任を成功に導いてきた」
 お会いしてみて、まったく、そのとおりのお人柄である。
 明るい声と明るい瞳で、笑みを絶やさず、精力的な話しぶり。語らいのたびに、次々に質問をしてこられる。多くのことを「知っていこう」「学んでいこう」という謙虚さと積極性が全身から発散している。
5  正しい知識の「学び方、考え方」を教えよ
 一九九六年、香港中文大学の第四代学長に選出された。
 九九年の「発展計画」では、学長は「本学は『教師が何を教えたいか』ではなく、『学生が何を学びたいか』に方針を転換する」と宣言した。
 たとえば、社会のニーズに合わせた新たな教育コースを、次々と開設しておられる。
 「過去の教育方法は、学生に情報を提供し、知識を授けるだけでした。ところが今は、情報が欲しければ、インターネットで、いくらでも手に入れられます。学校に行かなくても、ベッドの上に寝そべりながらでも、コンピューターのスイッチを入れればいいのです。情報は増える一方ですが、問題は、何が『役立つ情報』で、何が『ゴミ』なのかを見分けることです。その判断力・分析力を学生が養えるようにしなければならない。そのように、大学は教育改革訟をしなければならないのです」(「中大校友」1999年冬季号、参照)
 これも創価教育の思想と通じる。牧口先生は「教師の本務」は「知識の切り売り」ではなく、どうすれば正しい知識が得られるか、その「学び方、考え方」を教えることにあるとした。
 すべて「あらゆる子どもが一生、幸せに暮らしていけるように」という慈愛から出た教育学であった。この点でも、〈慈愛と技術の結合〉である医学と共通する。
6  医師が治療を間違ったら、人を殺してしまう。
 間違った教育も人を殺す。魂を殺す。頭脳を殺す。社会の未来をも殺してしまう。医学のように、ただちに目に見えないから、その怖さ、大事さに鈍感になりがちなだけである。
 思えば、中国革命の先達・孫文先生も医学を学んだ。魯迅先生も医学を学んだ。
 そして、社会の病を「治療」し、人々の魂を「蘇生」させる革命に生涯を捧げた。それは、広い意味での人間教育の事業であった。
 そして孫文先生は「私は革命を香港で習った」と言われた。
 今、その香港から、世界的名医である李学長が、蓄えに蓄えた渾身の力で「教育革命」の波を起こしておられるのである。
 日本の社会は――いつになったら謙虚になるのだろうか。
 「子どもを救え!」「現場教師の宝の体験を聞け!」――いつになったら、牧口先生の叫びに耳をかたむけるのだろうか。

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