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日蓮大聖人・池田大作

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エクトル・ナパロ教育大臣 教育改革でベネズエラの再建めざす

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

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1  「何のため」と自問自答で自身を高めよ
 最近、日本では「普通の子どもが突然『キレる』」と言う。きのうまでの「よい子」が、急に暴力や非行に走ったり、無気力になってしまう。事態を理解できず、親や周囲は、悲しみ、とまどう。
 いったい、何が起こっているのだろうか。
 東京の創価学園で、ある生徒が質問した。(一九九九年七月)
 「『何のため』という考え方について、どう思われますか?」
 学園の校歌に「英知をみがくは何のため」とある。
 「すばらしい質問です」と、ベネズエラのエクトル・ナパロ教育大臣は優しく受けとめ、答えてくださった
 「『何のため』と考えて、答えが見つからない場合も多いでしょう。しかし、問いかけ自体が大切なのです。なぜか。そう自問自答することによって、低い次元から高い次元へと自分を高めていけるからです。
 私の父はよく、少年の私に『今日は、どんなことをしましたか。何を学んだのですか』『今日という日は、自分にとって”プラスの日”でしたか”マイナスの日”でしたか』と聞きました。それを寝る前に考え、『今日は何も学べなかった』と反省するととも、一つの喜びでした。『明日はまた学べる。また発見できる』と。
 何のため――自分中心の目的のためだけでなく、『他の人々のために自分は何ができるか』と考えていくことが大切なのです。創価教育の創価とは、価値創造のことですね。私は、価値創造とは、まず自分自身をつくるととだと思います。『自分をつくって、周りの人たちにも善を尽くしていく』ことです」
 大臣は国立ベネズエラ中央大学の教授である。一九九九年、教育大臣に就任。「教育改革で国を建て直す」大手術を託されたのである。朝早くから出動して、帰宅は午前三時になるととも、しばしば。規定の勤務時間の二倍働く大臣。
 「私は『何のため』に大臣になったのかと自問しました。仕事は増えた。給料は減った。しかし、私は社会に貢献したかったのです。この機会に、人間としての私の生き方を何としても実行したかったのです」
 大臣の話は、生徒たちに深い感動を与えたようだ。
 通訳の女性によると、大臣は高速道路で移動しているときも、「日本は便利ですね」と言いながら、「ベネズエラでは、小さな舟で通学している生徒もいる。歩いてくる子も、雨が降ると道がふさがって、学校に行けない。私は何とか、いい環境でみんなが勉強できるようにしてあげたいんだ」と、熱い思いを語っておられたそうである。
2  「居場所がない」と苦しむ子どもたち
 同国では、貧しさのため学校に行けない子どもが二百万人もいるという。日本では反対に、豊かさのなか、不登校の子どもが激増してきた。
 今、子どもたちは、よく「自分の居場所がどこにもない」と言う。自分を、そのまま丸ごと受け入れてくれる場所がない、と。
 それは、家庭さえもが「優秀かどうか」という学校や企業の価値観で「子どもを査定する」場所になってしまったからかもしれない。
 親の期待に応えようと頑張っても、頑張れば頑張るほど「もっと、もっと」と期待は強くなってくる。
 しかも「何のため」と問うと「おまえ自身の将来のため」と言われる。「おまえを愛しているから、うるさく言うのだ」と。それでなおさら、「愛情と期待に応えられない自分」を「駄目な人間だ」と罵り、絶望してしまう。
 その内攻したエネルギーが出口を求めて、子どもたちを苦しめているのではないだろうか。
 「勉強しなさい」と言うしか愛情の表現ができない大人の貧しい人生観。それが子どもたちを荒れさせている元凶かもしれない。
 まず、ありのままの子どもの姿を受け入れ、認め、抱きとめてあげることではないだろうか。親の「理想の子ども」像を押しつけるのではなく。「あなたが『よい子』だから好きなんじゃない。あなたが優秀だから好きなんじゃない。あなたがあなただから好きなんだ。あなたが何をしようと、私はあなたの、いちばんの味方、なんだよ」と、たっぷり愛情をそそぐことではないだろうか。
 そうしてこそ、子どもは自分で自分が好きになれる。自分を好きな子どもは、自分で自分をはぐくめる。
 子ども自身が「何のため」を考えながら、「多くの人たちのために!」と自分で動機づけができれば、こんな強いものはない。親が模範を示せば、なおさらである。
3  「黄金の大臣」の人間愛
 南米解放の父、シモン・ポリパルは言った。”教育が羽ばたけば、国家は羽ばたく”(ホセ・ルイス・サルセド=パスタルド『シモン・ボリーバル』水野一監訳、春秋社、参照)。大臣は、彼の名を冠した国家計画「ボリパル2000」に挑戦を開始した。
 二千以上の校舎の修復。百五十万人の教育研修の計画。貧しい児童のために「無償の給食」を倍増。文具や制服の支給制度の改善――等。
 何のため――この「心の原点」を、もっているから強靭だ。エネルギーが尽きない。その手腕を、黄金の大臣」と呼んで敬愛している。その人気の秘密は、誠実で、少しもいばらない人柄にもあるようだ。
 就任したばかりのころ。大学で大学院生の論文検討会議があった。大臣は審議員の一人。だれもが、この日は欠席と思った。ところが、いつものように時間どおりに現れ、手には、みんなのためのお菓子の袋があった。
 ある時には、朝六時に学生を自宅に招き、登庁する車の中で、学生の論文の相談にのったことも。
 来日のさいも、長旅のうえに、フライトが遅れて急にマイアミで一泊したりと、お疲れのはずが、そんなそぶりは微塵も見せず、かえって出迎えの人に優しく気をつかう大臣ご夫妻であった。広島では、ベネズエラからの留学生四人に、わざわざ会って励ましておられた。
 教育者にとって、いちばん大切な「人間への愛情」をもっておられる大臣であった。太陽のように明るく、温かく、仲の良い、幸せそうなご夫妻であった。(一九九九年七月に東京で会談)
 その振る舞いは、ベネズエラの「万能の天才」アンドレス・ベージョ先生の言葉を思い出させた。
 「教育とは『子どもたちの頭を知識で一杯にする』ことではありません」
 「教育とは、心を美徳で飾り、人間を幸せにするためにあるのです」

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