Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ケノレテースフローレス大学学長 アルゼンチンで「人間教育」の学舎を創立

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  「真実は、命を賭してでも守る!」
 学長として、学生の、なかに飛び込んで対話しておられるが、いつも、ジャンパー姿で「全然、学長らしくない」そうである。
 学生を、あまり増やそうともしない。増やせば大学の経営は楽になるが、「それでは、学生との接触が薄れてしまいます。一人一人の状況もわからなくなるし、意見の交換もできなくなります」
 私財をはたいて、フローレス大学を創立したのも「マスプロ教育は、だめだ。人間をつくれない。一人一人を大切にして、一人一人に価値を見いだす教育をしたい」という思いからであった。
 今も博士は、心理学者としてのカウンセリングの収入を大学に注ぎ込みながら、ご自身は質素に大学の一室に暮らしておられる。
 「創造性を開花させる教育」を模索するなかで、牧口初代会長の思想に巡りあい、博士は『創価教育学体系』のスペイン語版を大学から出版。授業にも取り入れた。「色心不二」「依正不二」の哲学にも深く共感したという。
 独創的な博士の信念は、教育界からも、心理学の世界からも、理解されたとは言えなかった。
 しかし「真実は、命を賭してでも守る!」と、博士は孤立も恐れない。圧迫も恐れない。「私は、やると言ったことはやる」まっしぐらに突き進んでとられた。
 「より高き人生をめざして進め!」
 フローレス大学のとの理想は、学長の歩みそのものなのである。
3  大量生産される「空虚な人間」の危険性
 人間を育てる教育。そのためには、何が必要か。
 「何のため」という人生の価値観が必要である。めざすべき人生のモデルが必要である。それなくして知識のみを与えると、どうなるか。
 「ドイツの学校教師の力によって、ヒトラーはドイツを掌握することができたのだ」(『われわれ自身のなかのヒトラー』佐野利勝訳、みすず書房)。こう指摘したのは、哲学者ピカートである。
 それは、教師たちがナチス支持だったからではない。
 青年たちに「詰め込み教育」を施すことによって、「刹那的で空虚な人間」を大量に生産してしまったからである。
 高度な知識を得ても、知識と知識の間に相互の関連はなく、支離滅裂な断片として、頭脳の中に浮遊しているだけ――。
 無批判に、ただ目新しいものだけを追いかけ、善も、悪も、忠実も、裏切りも、すべてが、ごっちゃにされていく。高潔な人への尊敬もなければ、嘘つきや詐欺漢への激怒もない――。
 こうして、”国家主義に屈従したのだ”という自覚すらないままに、知らずしらずのうちに滅亡へと転落していったのである。
 ナチスの犠牲者の一人であるケルテース学長は言われた。「今こそ、教育にヒューマニズムが必要なのです!」
 それは、全体主義の悲劇を知る人の、切実な叫びであると私は思う。日本も、絶対に、人ごとではない。

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