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ケノレテースフローレス大学学長 アルゼンチンで「人間教育」の学舎を創立

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  青年よ、苦労して自身を開花させよ!
 「森ケ崎海岸」の曲を、ピアノが奏でた。
 私の若き日の思い出が、いっぱいに詰まったメロディーである。
 弾いてくださっているのは、アルゼンチンのロベルト・ケルテース博士。場所は、東京牧口記念会館。
 一九九九年の一月、「真冬」の日本に、「真夏」の南半球から、はるばるとやってきてくださったのである。温度差は三十度にもなる。
 私に、みずからが創立したフローレス大学の「名誉博士号」を贈ってくださるためであった。妻にまで「名誉教授」の栄誉をいただいた。
 授与の儀式が終わるや、博士は「今日のために、ジャズ風にアレンジして、練習してきました!」。そう言って、気さくに、ピアノに向かわれた。真心の演奏を聞きながら私は、博士が式で語ってくださった言葉を、かみしめた
 「池田博士、あなたは少年時代、凍るように冷たい海で海苔を採りながら、病弱なお父さんと、働きづめの、お母さんを助けるために、新聞配達もされました。私も青年時代、家計を助けるために、労働者として働きました。しかし、この青春こそが、私の誇りであり、私の人格をつくった決定的な要素なのです……」
 博士の両親は、小さい印刷会社を営んでいた。
 家族全員が働いた。
 博士も、従業員の一人。中学校に通うこともできなかった。
 ご両親はハンガリーから移住してきた。一九三八年。ユダヤ人として、ナチスの迫害から逃れて、南米まで来たのである。博士は、まだ七歳だった。
 翌年、ヒトラーによって第二次世界大戦が始まった。博士の親族も犠牲になった。
 アルゼンチン人でさえ厳しい経済状況のなか、まして一家は移民である。何の生活の基盤もない。言葉の壁もあった。
 博士も十二歳から二十三歳まで、一工員として働いた。学校には行けず、試験を受けて中等教育を始めた。「小学校の勉強だけじゃ、だめだ」。自尊心を得たかった。知識を得たかった。仕事の後で猛勉強した。本を手から離さなかった。一心不乱だった。
 ある日のこと、論理学の口頭試問があった。終了するや、試験官の先生たちが、おもむろに立ち上がった。どうしたのか? なんと、この苦学生に拍手を贈ってくれたのである。そして「勉強を続け、ぜひ大学にも行くように」と励ましてくれた。博士は今も、この日のことを忘れない。
 お父さんに頭を下げた。「卒業したら、学費は必ず返します」。そして二十六歳で医学部に入学。できるかぎり早く卒業するために、毎日十六時間、勉強した。三十一歳で、精神科の医師の資格を取った。
 「私は、困難から学びました。『苦労』のなかにこそ、大きな『教訓』があります」
 博士の”人間を見る目”は深い。気取りや、権威主義が大嫌い。人間が人間にいばったり、支配することが許せない。頭でっかちのエリート主義や、口先だけの人間は相手にしない。
 「民衆こそが、いちばん偉いのです。毎日、一生懸命に働き、地道に努力して家庭を築き、一国のそして人類の繁栄をもたらしているのは民衆です。だれよりも尊いのは民衆です!」
2  「真実は、命を賭してでも守る!」
 学長として、学生の、なかに飛び込んで対話しておられるが、いつも、ジャンパー姿で「全然、学長らしくない」そうである。
 学生を、あまり増やそうともしない。増やせば大学の経営は楽になるが、「それでは、学生との接触が薄れてしまいます。一人一人の状況もわからなくなるし、意見の交換もできなくなります」
 私財をはたいて、フローレス大学を創立したのも「マスプロ教育は、だめだ。人間をつくれない。一人一人を大切にして、一人一人に価値を見いだす教育をしたい」という思いからであった。
 今も博士は、心理学者としてのカウンセリングの収入を大学に注ぎ込みながら、ご自身は質素に大学の一室に暮らしておられる。
 「創造性を開花させる教育」を模索するなかで、牧口初代会長の思想に巡りあい、博士は『創価教育学体系』のスペイン語版を大学から出版。授業にも取り入れた。「色心不二」「依正不二」の哲学にも深く共感したという。
 独創的な博士の信念は、教育界からも、心理学の世界からも、理解されたとは言えなかった。
 しかし「真実は、命を賭してでも守る!」と、博士は孤立も恐れない。圧迫も恐れない。「私は、やると言ったことはやる」まっしぐらに突き進んでとられた。
 「より高き人生をめざして進め!」
 フローレス大学のとの理想は、学長の歩みそのものなのである。
3  大量生産される「空虚な人間」の危険性
 人間を育てる教育。そのためには、何が必要か。
 「何のため」という人生の価値観が必要である。めざすべき人生のモデルが必要である。それなくして知識のみを与えると、どうなるか。
 「ドイツの学校教師の力によって、ヒトラーはドイツを掌握することができたのだ」(『われわれ自身のなかのヒトラー』佐野利勝訳、みすず書房)。こう指摘したのは、哲学者ピカートである。
 それは、教師たちがナチス支持だったからではない。
 青年たちに「詰め込み教育」を施すことによって、「刹那的で空虚な人間」を大量に生産してしまったからである。
 高度な知識を得ても、知識と知識の間に相互の関連はなく、支離滅裂な断片として、頭脳の中に浮遊しているだけ――。
 無批判に、ただ目新しいものだけを追いかけ、善も、悪も、忠実も、裏切りも、すべてが、ごっちゃにされていく。高潔な人への尊敬もなければ、嘘つきや詐欺漢への激怒もない――。
 こうして、”国家主義に屈従したのだ”という自覚すらないままに、知らずしらずのうちに滅亡へと転落していったのである。
 ナチスの犠牲者の一人であるケルテース学長は言われた。「今こそ、教育にヒューマニズムが必要なのです!」
 それは、全体主義の悲劇を知る人の、切実な叫びであると私は思う。日本も、絶対に、人ごとではない。

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