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日蓮大聖人・池田大作

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サドーヴニチィ モスクワ大学総長 限りない創造力の開拓を

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

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2  ノーベル賞学者十九人の世界屈指の学府
 こんな話から始めたのは、ほかでもない。ごく当然と思っていることも、「本当に、そうか」と、自分の頭で考えることが大事ではないかと思うからである。
 私と対談したアメリカの経済学者、レスター・サロー博士は、「独創性こそが、二十一世紀に成功するカギである」と強調しておられる。
 博士は、予測不可能なグローバル経済の未来を「未知の海への航海」にたとえる。そして、探検精神と独創的な知力がなければ、日本は遅れをとるだけだという意見である。同感である。「今まで、こうだったから」では、勝ち残れない。
 では、どうやって創造性を育てるのか? なかんずく大学は、どうすれば新世紀の「創造的人間」を輩出できるのか?
 モスクワ大学は、ノーベル賞学者が十九人も名を連ねる世界屈指の学府である。世界の「大学ランキング」でも、つねにトップクラス。
 二百四十余年の歴史を貫くのは「つねに時代変革の先頭に立つ」という伝統であった。抽象論ではなく、私自身がおつきあいしてきた歴代総長が、三人とも、そういう人であった。
 一九七四年の初訪問で迎えてくださったホフロフ総長は、レーザーの著名な研究者。若くして登山中の事故で亡くなられたが、二十年以上たつ今なお、多くの人が慕う人格者であった。
 私は、ホフロフ総長が信条としていた三点が、「創造性」という点で大切に思われてならない。それは、次のログノフ総長、サドーヴニチィ現総長にも共通する「モスクワ大学の知的風土」そのものだからである。いな、世界の超一流大学に共通する雰囲気と思う。
 第一は「人生は、つねに先頭を走れ!」である。「先に行く人を追いかけるのではなく、新しい分野をめざし、新しい分野を切り開け」と教えた。
 日本の大学は「西洋に追いつけ」「西洋から輸入せよ」を至上命令に生まれた。それは明治という時代の歴史的要請であり、しかたなかったとも言えよう。また、どんな創造も模倣から始まる。
 しかし、「模倣の優等生」であった日本が唯一、まねしなかったのが、「学問は創造の戦いなり」という西洋文明の根本精神ではないだろうか。
3  ”人類への新たな貢献”を使命感に
 かつて、大学から政府に研究費を申請するさい、「欧米などでの研究状況」を聞かれて、「この研究は、ほかではやっていない」と答えると、「それではだめだ」と断られたという。笑い話のようだが、「二番せんじ」を恥ずかしく思わない雰囲気が今も続いているのだろうか。
 もちろん「人と違うことをやる」とは、奇をてらうことではない。「人類に新しい貢献をしよう」という使命感である。
 「道なき道を開く」ためには、いかなる権威にも頼らず、とことん自分で考えぬく「強靭な知性」が必要である。先人なき孤独に耐える「強靭な精神力」が必要である。いつ結果が出るか、いな結果が出るかどうかもわからない手さぐりのなかで、それでも地道に一歩一歩進む「不屈の忍耐力」が必要である。
 受験勉強の秀才は、既成の知識を要領よく、すばやく習得する。いわば「ウサギ」型である。創造のためには、むしろ愚直なまでに一徹な「カメ」型のほうが向いているかもしれない。天才的に見える創造者にも、陰には、血みどろの苦闘があるものだ。
 そういう人材を育てるには、初め失敗したとしても、「安全な道を選ばずに挑戦した」エネルギーに注目し、「挑戦もせず、したがって失敗もしない人間」よりも高く評価する眼力が必要だろう。
4  権威を恐れず「一人立つ精神」養え
 ホフロフ総長の信条の第二は「教授や学生など『上下』の区別はしない」。
 ハーバード大学のガルブレイス博士も、「学生時代に、友と夜を徹して世界情勢などを語りあった。議論には教師たちも加わってきた」と、懐かしそうに振り返っておられた。
 「真理の前に立てば、だれもが平等の探究者」という伝統なのだろう。相手の立場がどうであれ、先入観なく、自分で確かめて、「いいものはいい」と率直に認める、聞かれた精神である。この民主的風土がなければ、大学は、たちまち権威主義の砦になる。そうなれば、精神は官僚化され、空洞化されてしまう。
 創価学会の牧口初代会長は、地理学と教育学の学者であったが、日本人が評判とか権威の言に弱いことを憂えていた。「認識せずして評価するな」が口ぐせであった。自分で確かめる科学的思考を教えたのである。
 信条の第三は「人間は、学問だけでなく、文化、音楽、読書、スポーツと幅広い分野に関心をもつべきだ。人と人とのつきあいのなかでこそ、『人間の豊かさ』は生まれる」であった。
 「学は人なり」である。学問といっても、人間から生まれる。その人間性がやせていて、豊かな発想が生まれるわけがない。
 サドーヴニチィ総長も、プーシキン、トルストイ、レールモントフを愛読し、チャイコフスキーを愛し、専門外の知的な会話を愛する。
 総長は「人家が十軒しかない寒村」に生まれ、モスクワ大学に入学するまでは、鉱山労働者として働いていた。その意味でも、幅の広い見方ができる人である。
 日本の大学を「知の鎖国」と呼んだ人がいる。島国根性というのか、小さな「なわばり」を守って、「よそもの」を寄せつけない悪弊があるというのである。(アイヴァン・ホール『知の鎖国』鈴木主税訳、毎日新聞社、参照)
 「出る杭」を打ったり、抜きんでた人の足を引っ張ったりする、そういう「やきもち」ほど創造的精神の対極にあるものもない。
 この三点を貫くのは「独立した個人として勝負せよ」という哲学である。
 「日本では団体が強く、個人が弱い」と言われる。しかし創造は、あくまで個人の仕事である。権威を恐れず、わが道を行く「一人立つ精神」を養うのが大学の使命であろう。
5  大学は「二十一世紀への最も強い懸け橋」
 ロシアは、まだ混沌の中にあるが、「だからこそ、今、人間の限りない創造力を開拓することが必要なのです」と、サ
 ドーヴニチィ総長は言う。
 「二十世紀から二十一世紀へと懸ける、いちばん強い橋は大学です。大学が二十一世紀の人材をつくるのですから」とも。
 ソ連の崩壊という大激動期に総長となり、大変な財政難のなか、関係各所にみずから頭を下げて、奔走した。「教育を優先せずして国家の未来はない」ことを、繰り返し説得しなければならなかった。
 「私がいるかぎりは、学生が安心して勉強できるようにしたい」という決心であられた。偉い方である。ある年の総長室での面談は、二千回にもなった。
 高等教育にも商業主義の波が押し寄せるなか、学問の光を守り、「人間性に富んだ、心の清らかな人を育てたい。『人間的な社会』へと発展させられる人材を育てたい」と奮闘しておられる。
 その努力に対し、フランスから「功労勲章」が贈られた。これもまた、フランスの「開かれた精神」であろう。
 何年か前、クリントン米大統領とモスクワ市民との語らいで、モスクワ大学の女子学生が言っていた。「ロシアには、大いなる精神の力が秘められています。近い将来、必ず、世界の文化的な中心になっていくと信じています」と。
 傲慢ではなく、苦難の峰を乗り越えて、かなたに人間文化の都を創造しようという、力強い「希望」である。
 そういう気概をもっ学生が今、日本にどれくらいいるだろうか。

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