Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ベルビツカヤ総長 「英雄都市」の不屈の学府サンクトペテルプルク大学

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

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2  「人民のために」尽くしぬいた父
 ベルビツカヤさんは今、世界屈指の「サンクトぺテルブルク大学」の総長である。
 「人民の敵の娘」が、この栄誉ある地位につくまでに、どれほどの涙の川を越えてこられたことか!
 2000年の初め、来日された総長に、ご両親の思い出をうかがった。
 「娘から見ても、それはそれはすばらしい人格の人たちでした。『人民のために善いことをしよう、善行をしよう』と、いつも互いを励ましあっていました。だから、もしも私のなかに善いものがあるとしたら、それは何もかも、一つ残らず両親がくれたものなんです」
 お父さんは、レニングラード市議会の書記であった。市民にも人望があったのだろう今でもお年寄りから「昔、あなたのお父さんに、こんなことをしてもらったんですよ」と聞かされることがあるという。そのたびに、娘として、胸が熱くなる。
 しかし、そういう正義感の強い人ほど、うまく立ちまわれずに、悪の犠牲になるものだ。お父さんは、どこに埋葬されたかさえ、わからなかった。
 収容所に送られた、お母さんは、ひどく健康を害していた。しかし、なんとか生き延びた。
 一九五三年、スターリンが死ぬと、粛清された人たちの名誉回復が始まり、お母さんも、五四年、レニングラードに戻ってきた。しかし、壊れた体はもとに戻らなかった。
 お母さんは、七二年に亡くなった。
 「死ぬまで、母は『奇跡』を待ち続けていました。いつか父が帰ってくる。また会える。いつか会える。そう信じたがっていました……」
3  ナチスとの「人類の戦い」の最前線
 サンクトぺテルブルク。
 この街には「恩」がある。
 人類みなが「恩」がある
 ヒトラーの世界支配の野望を打ち砕いてくれた「恩」がある。
 ナチス・ドイツは、この都市を「地上から消滅させる」と決定し、空から、陸から、海から、徹底的な攻撃を続けた。二年半、「九百日」もの包囲が続いた。
 激しい戦闘。飢え。零下の寒さ。病気の蔓延。なんと、百万人以上が死んだ。いや殺された。
 第二次世界大戦で、世界の都市の中では最大の犠牲者であった。一万を超える建物も破壊された。
 「北のパリ」と呼ばれた美しき石造りの古都。
 大小の島々を五百の橋が結び、ネヴア川を中心に、運河が縦横に走っているところから「北のヴェニス」の別名もある。
 この街を私が訪問したのは、初訪ソのさいだった。一九七四年の九月である。
 当時は、まだレニングラード市、「レーニンの町」であった。
 モスクワから北西へ六百五十キロ。夜行寝台列車「赤い矢」号は、雄大な大地を一直線に進んだ八時間半の旅である。
 駅に降り、市街を見るにつけ、初訪問だという感じがなくなった。ドストエフスキーや、ゴーゴリ、ツルゲーネフの小説で、おなじみの街並みだったからかもしれない。
4  死の包囲下、皆を勇気づけた「声」
 〈だれ一人忘れることはない。なに一つ忘れることはない〉
 市の「ピスカリョフ墓地」に詣でたとき、との言葉が、胸に焼きついた。大戦の犠牲者を哀悼するため、壁に大要、次のように刻んであった。
 〈ここにレニングラードの人々が眠る……彼らは、生命をなげうち、街を守った。その高貴なる人々の名を、ここにあげることはできない。この御影石の下に永眠する彼らの名はあまりにも多いから。しかし、この石碑を見る人は、知ってほしい。私たちは――だれ一人忘れることはない。なに一つ忘れることはない〉と。
 「だれの言葉でしょうか?」
 教えてくれた人がいた。
 「ラジオのアナウンサーであった女性詩人の言葉です。壁に刻む言葉を、だれに書いてもらうか。市民の圧倒的な意見は『彼女に書いてほしい!』でした。ナチスの猛攻のなかで、彼女たちアナウンサーの『声』こそが、みんなを勇気づけてくれたからです」
 ベルピツカヤさんも、この「力強く声」を覚えているという。
 戦争中、初めはお母さんと一緒に郊外に疎開していたが、お父さんが病気になったので、レニングラードに帰ってきたのである。
 お父さんは、「危険だ」と心配したが――。
 事実、夜となく昼となく、爆音が聞こえた。
 パンの配給は一日に二枚。パンには紙が混じっていた。
 水道もない。市民が川に水を飲みに行くと、死体が放置されていた。
 明かりもない。夜、空を照らすのは、焼夷弾の光だった。
 地獄のような「包囲」の間に、五歳の少女は七歳になっていった。
 「私はまだ小さくて、重い黄疸になりました。そのときも、ラジオの声に、とても励まされました。希望を与えてくれました。
 私の専門は『音声学』です。人の言葉が、どれほどの力をもっているか。人を殺しもするし、生かしもする、救うこともできる。そのことを、よくわかっています。話し方、発音、抑揚、リズム、声。アナウンサーたちが、ラジオで話すと、状況が厳しくても、皆、元気が出たものです。
 仏法でも、「声が仏事(仏の仕事)を為す」と説く。
 声は、命の響きである。
 優しい響き。冷酷な響き、嘘つきの響き。勇気の響き。その響きが、人の命を同じ響きで振動させようとして、揺さぶるのだ。
 「それとともに、父が楽観主義者だったことが大きかったと思います。父は『必ず勝つ』と確信していました。勝利のために全力を尽くし、どんなときでも、希望を捨てませんでした。父は忙しくて、めったに会えませんでしたが、いつも私たちに希望を贈ってくれました」
5  「人民の敵の子」として遠い労働施設へ
 朝から夜中まで、市民のため、祖国のために、働いて働いて、幼い娘を顧みるいとまもなかった、お父さん。自分の体を壊してまで、みんなに尽くしきっていた、お父さん――あなたが「人民の敵」だなんて!
 やっと戦争が終わったと思ったら、あなたが「祖国の敵」と呼ばれて、処刑されるなんて! なぜ? なぜ? なぜ?
 一九五〇年。家族は皆、収容所に送られ、少女は独りぼっちになってしまった。
 「人民の敵」の子どもを「再教育」するため、当局は彼女を、遠いウクライナの「リヴォフ未成年労働教育施設」に送った。
 本当は、「再教育」すべき人間は少女ではなく、当局のほうであった!
 女子のためのソ連で唯一の施設。八、九歳くらいの子が多かった。十八歳から成人までの「犯罪者」と呼ばれる人たちもいた。
 施設には学校があったが、ほとんどの子どもが本を読まなかった。幼くして、過酷な人生を送ってきたからだろうか。
 ベルビツカヤさんは、そんな子らのために、毎晩、本を読み聞かせてあげた。彼女の声は、今も、心に染み入るような美しい声である。
 きっと、子どもたちは夜が楽しみだったにちがいない。そのうちに、だんだん自分で本を読むようになっていった。
 「施設で、いろんな人たちと出会ったことは、私にとって貴重な経験でした。とくに、親を亡くした子どもたちが犯罪に走る姿を目の当たりにして、『そういう子が自分を頼ってきたときは、いつでも支えになってあげよう』と決意しました。そのときから、私の『大人の人生』が始まったのだと思います」
 早すぎる「大人の人生」の開始だった。
 彼女は、理解ある副所長のおかげで、ずっと学校を続けることができた。
 リヴォフ大学に入った。本当は医学部に行きたかった。しかし不可能だった。
 あなたは『人民の敵の子』です。そんな人間を信じられますか! メスを手に、殺傷事件でも起こされたら大変ですからね!」。そういう仕打ちだった。
 そして、名誉回復の後、ふるさとに戻り、レニングラード大学のロシア語学科に編入学したのである。
6  大学二百七十年の歴史で初の女性総長に
 以来、ずっと学究生活。死にもの狂いの勉強が続いた。国内外から数々の賞を受けた。
 一九九四年に、総長に選ばれた。二百七十年の同大学史上、「初の女性総長」である。九九年に再選された。
 「総長という仕事は、女性がするものではありませんね、まったく。男性が務めたほうがいいと思います。男性は、うちに帰れば、家のことは奥さんがしてくれます。食事は作ってくれるし、シャツにアイロンもかけてくれる。女性は、そうはいきません。家でも仕事があります」
 笑いながら、そう語る総長は九八年に、四歳上のご主人を亡くされている。
 「幼なじみでした。あの『ナチスの包囲』の中で知り合ったんですから。父親同士が知り合いでした。『レニングラード事件』のときには、彼の両親も逮捕され、彼も収容所へ送られました。
 あのころ、私は小さくて、何が起こっているのかわかりませんでしたが、当時から、彼は裏側まで理解していたようです。
 夫は物理学者でした。いつも私を支えてくれました。知り合ってから五十四年間、一緒でした。結婚生活は四十二年でした」
 二人の娘さんも独立され、総長は今、「二万七千人のわが子」、学生たちのために全身全霊を捧げておられる。
7  「魂の再生」ができれば勝てる
 ソ連崩填後のカオスのなか、資金繰りにしても、並大抵の苦労ではない。
 大学には四百もの建物があり、その維持費だけでも大変である。
 経済は破綻し、授業料を払える学生のほうが少ない。巷には、これからの冬を、どうやって越せばいいのか」と、うめいている多くの民衆がいるのだ。
 外国への頭脳流出の問題もある。
 「金もうけできる人間が偉いのだ」という拝金主義も、はびこっている。
 社会が、文化と教育に「かまっていられない」風潮もある。
 しかし、今、「史上最大の困難のとき」だからこそ、「教育の再生」が必要なのである。そこから「魂の再生」が生まれるからだ。「魂の再生」さえあれば、どんな困難も乗り越えられるからだ。
 私は、そう信ずる。
 日本の再生も「教育立国」の道しかない。
 サンクトペテルブルク大学では、あの「死の包囲」の中でも、防空壕や地下室に入って研究を続けたという。
 二千人以上の学生が集まって講義を受けた日もある。
 「敵は、われわれを『まいった』と言わせたいんだ。だから、『断じて、屈しない』証拠を見せてやろうじゃないか!」
 そんな心意気であったろうか。
 攻防戦のなか、多くの博士号が取得された。新しい学科さえつくられた。戦闘の最前線に向かった学生も多かった。看護に献身した女子学生も。
 まさに「英雄都市」の「不屈の学府」である。
 その魂は、ベルビツカヤ総長の中に生きている。
 車の中でも仕事をするほどの多忙のなかで、「まだまだ、やりたいことが、私にはいっぱいあるのです!」と。
 たとえば総長は、駆けずりまわって資金を集め、卒業生に、靴、洋服その他を用意できるよう臨時金を支給した。
 孤児や、親の援助がない学生のためには、食費の援助を増額した。
 少女のころ、あの施設で、「この子たちが私を頼ってきたら――」と誓った心は生きていたのである。
 それこそが、ベルビツカヤさんの人生の勝利であった。
 地位ではなく、人に尽くすという「誓い」を果たしたことこそが――。
8  四十六年ぶりに「父の墓」へと
 一九九六年、長く不明だったお父さんの埋葬地がわかった。あるジャーナリストの調査のおかげだった
 モスクワのドンスコイ墓地に、総長は詣でた。死後、四十六年がたつていた。
 幼かった自分が、もう、とうにお父さんの年齢を超えてしまった。あれほど夫の帰りを待ち続けていたお母さんも亡くなっていた。
 総長は、身をかがめて、墓地の土を少しだけ取った。袋に入れた。
 その袋を抱きしめて、お母さんのお墓へと運んでいった。墓の土に、袋の土を混ぜた。
 ゆっくりと、ていねいに混ぜた。
 「やっと、やっと、お父さんに会えましたね。あ母さん!……」
9  ぎしぎしと骨がきしむような苦しみに耐えてきた”二十世紀のロシア”の人々。
 ”二十世紀のロシア”は、その分、きっと明るいにちがいない。
 「ロシアには『人間』がいる! だから、ロシアには未来がある!」(Н.А. Некрасов, Собрание сочинений, Т.1, Художественная литература)
 そう叫んだ詩人ネクラーソフも「サンクトぺク大学」で学んだ人であった。

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