Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ジナイダ・F・ドラグンキナ会長 ロシアの子どもたちを援助する慈善団体「プラゴベスト」

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  「すべての小さな瞳から涙をぬぐいたい」
 彼女は迷わなかった。
 「ロシアの子どもたちのために生きよう」と。
 「子どもたちの頬に涙が流れているなら、それは社会の『何かがおかしい』という警鐘です。子どもたちは笑っているべき存在なんです」
 だから、国で初めての慈善団体「ソ連児童基金」ができたとき、迷わず基金に移った。十四年も勤めたコムソモール(党の青年団体)を離れて。「もっともっと、子どもたちの笑顔が見たかった」から。
 やがて、国民援助センター「ブラゴベスト」を、みずから創立した。「もっと、たくさんの笑顔をつくりたかった」から。モスクワの市議会議員になったのも、社会の注意を子どもたちへと向けさせるのに役立てられると思ったからだった。
 すべての小さな瞳から涙をぬぐいたい――自分の心に従っていれば、彼女に迷いはなかった。
 ただ教師をやめるとき、彼女は迷った。コムソモールに移る前だ。「どうしよう。クラスの子どもたちと別れるのは、絶対いやだ」
 しかし結局、立場は変わっても、彼女を子どもたちから引き離すことはできなかった。
 多くの男性のように「立場で動く」のではなく、「心の声」に従って生きていたからだ。
 ジナイダ・F・ドラグンキナさんが「チェルノブイリの子どもたちとの連帯」の活動を始めてから十一年。原発事故で放射能の被害に苦しむ子どもたちを、健康回復のために十八カ国へ送った。その数、約一万五千人。毎年、千人以上も。大変在労働だった。
 善意の受け入れ先を見つけることから始まって、膨大な書類を用意し、政府に交渉して飛 行機を無料で貸してくれるよう頼む。子どもたちには、最低限の服と靴とカバンだって要る。
 チェルノブイリだけではない、ほかの地域にも、たくさん孤児もいる。浮浪児。捨て子。非行。病気。売られていく子どももいる。
2  「私は人の不幸から目を背けない」
 彼女は、来る日も、来る日も、毎日、早朝から夜中まで、分刻みのスケジュール。
 そんな彼女に、あからさまに「焼け石に水じゃないんですか? どんなに頑張ったって、みんなを満腹にしたり、みんなに家を与えられるわけじゃないでしょう」と言う人もいる。
 しかし、そんなことは、彼女自身がだれよりも知っているのだ。
 「何千回も自分に問いかけてきました。『何をしたらいいんだろう』『何ができるんだろう』。全国の子どもたちから、助けを求める手紙が何千通も届きます。無力なために、とても思うようには応えられない。『こんな私たちに、いったい何ができるんだろう』と悩んでしまうのです」
 そう私に述懐する彼女の誠実さに、胸を打たれた。(1999年2月、東京で。二度日の出会い)
 善行を誇るのではなく、彼女は、ただ愛情に導かれて生きているのだ。
 人の苦しみから「目を背ける」ことができなかった。ただ、それだけなのだ。
 「人の不幸に無関心でいることはできません。私たちは『自分に無関係な苦悩などない』という信念で運動しています。私たちの援助は、たんに、のどの渇きをいやし、寒さから身を守るためではないんです。援助を受け取った一人一人が『この世には優しい心をもった人がいる』と感じるんです。『自分は一人じゃないんだ』。そうわかって、人生に希望がもてるようになるんです。そのことが大事なんです」
 そして「それが私の幸せなんです!」。
 彼女は思う。健康で、おなかいっぱい食べられて、暖かい住宅があって、ときどきは遊びに行けるくらいお金があって……それが幸せなんだろうか? でも、それでは「心」はどうなるの? 「心」は、周りで起きている不幸な出来事を知っているんじゃないの? 知っていて、人に無関心でいたとしたら、「心」が死んでしまうんじゃない? 「心」は死んでしまったら、いったい、自分の中の何が「幸せ」を感じられるというの?
3  善意が善意を呼び、協力が広がる
 東カザフスタンのお生まれ。お父さんは鉄道や製材所で働いていた。一家の子どもは三人姉妹と二人の兄弟の五人。ジナイダさんは真ん中。
 お母さんは、毎日三時に起きて、牛を牧場に放し、腰を曲げて畑仕事をした。とれたタマネギを自分で売って歩いた。働きすぎて、心臓を病み、早くこの世を去った。
 うちが貧しかったから、少女は市場で、バナナとかブドウを「安くして」と、ねぎるのは得意だった。
 ただ、どこかのおばあちゃんが、一束のニンジンや、ラディッシュ(二十日大根)を売っていると、どうしても「言い値で買ってしまう」彼女だった。そのおばあちゃんが、どんなに大変な思いで野菜を育てたか、よく知っていたからだ。
 今でも、街角で子どもが花などを売っていると、駆け寄って、花を全部、買ってしまうことがある。
 そんな彼女の愛情の「火」が、運動を始めたとき、人々の胸の「火」をかきたてた。あの慈母の微笑みを見れば、だれだって協力しないわけにはいかなかった。呼びかわすこだまのように、善意が善意を呼び集めた。
 「すべては愛から始まる」。彼女はとの言葉が好きだ。
 「新聞などで、不幸な子どもたちへの寄付を呼びかけると、だれがいちばん、頻繁に応じてくれると思いますか? それは年金生活者をはじめ、決して裕福とは言えない人々なんです。子どもたちのために、自分のわずかな年金や、お給料から絞りだすようにして寄付してくださるんです」
 語らいの最後に、彼女は言った。「今、ロシアは第二次世界大戦後のような混乱のなかにあります。でも今、私は勇気を得ました。ロシアは必ず蘇る、必ず元気になると!」
 美しい笑顔だった。花壇の花の美しさではなく、年輪を重ねた花樹からこぼれ咲く美しさだった。
 私は彼女に、ぴったりと思うトルストイの言葉を贈った。
 「ああ、母たる女性よ、あなたがたの手の中にこそ、世界の救いがある」(Л.Н.Толстой, Так что же нам лелать?, Полное собрание сочинений, том 25, Художественная литература)

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