Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ロートブラット博士 「核兵器在くす」ために行動するノーベル平和賞受賞者

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
2  戦争は人間を「動物」に変える
 大阪で、お会いしたとき、こう言われた。(一九八九年十月)
 「戦争は、『人間』を愚かな『動物』に変えてしまいます。いつもは思慮のある科学者も、戦争が始まると、正しい判断力をなくしてしまう。『野蛮』を憎んでいた人が、みずから『野蛮』な行為に走る。そこに戦争の狂気があります」
 博士は原体験を語ってくださった。
 祖国ポーランドに愛妻を残したまま、英国のリバプール大学で研究することになった。奨学金が少なくて、一人でしか暮らせなかったからである。
 ちょうど、物理学界は「核分裂」の原理を発見したばかり。博士も、先駆的業績をあげた。やがて待遇が良くなり、夫人を迎えに行った。
 しかし、折しも夫人は病気になり、英国に同行できなかった。夫人は後からくることにして、博士が一人、リバプールに帰った。その二日後に、ヒトラーが、ポーランドに侵入した。
 「私はアメリカの『マンハッタン計画(原爆製造計画)』に参加しました。それは、『ヒトラーも必ず原爆を造るだろう』と思ったからです。そうなったら、おしまいです。どうしても、こちらが先に開発しなければならない。つまり、『原爆には原爆で対抗し、相手に使用させないようにする』という考え方だったのです。この『核抑止論』は、後に、明らかな間違いだとわかりましたが、こうして核兵器の製造が始まったのです」
 ナチスという「野蛮」に対抗するためには、こちらも、いったん道徳的立場を捨てて、「大量殺裁兵器」という野蛮にかかわらざるをえない――苦渋の選択であった。
 博士は「科学は、人類に奉仕しなければ意味がない」と信じていた。「科学そのものは中立であり、何でも、どんどん新しいものを追求すべきだ」という考えを否定していた。
 この世に、道義的に中立のものはありえないと思った。
 これは重要な思想である。
 日本でも、「中立」は、多くの場合、価値判断を明確にしない言いわけとして使われている。しかし、価値判断しないということは、結局、現状に追随すると言うことである。
 たとえば、権力悪と、それに対する民衆の抵抗を前にして、「中立」であると言うならば、それはつまり「権力に追随する」と言うことである。
 科学者の場合で言えば、「研究成果が、どう使われようと私には関係ない」という立場は、科学の悪用を黙認することであり、結局、悪用を後押しすることになる。
 博士は、苦悩しながらも、時間に追われるように、原爆の研究に没頭した。しかし、やがて、「ナチスは原爆を開発していない」確証をつかんだ。
 このときである博士の博士たるゆえんが、発揮される。一人、敢然と「マンハッタン計画」から離脱したのである。「それならば、原爆は開発するべきではない」と。
 しかし、離脱は容易ではなかった。機密を漏らさないことを誓っても、「ソ連に教えに行くのだろう」と疑われ、監視され、大事な書籍や記録を奪われた。生命の危険さえ感じた。
 離脱したのは、博士ただ一人。同僚の中には、博士に内心で賛成していても、「途中でやめたら職歴に傷がつく」とか「始めた以上、原爆が本当に実現できるかどうか確かめたい」と言う人もいた。
3  「被爆国として日本は核廃絶に行動を」
 しかし、もしも、このとき、科学者が「断じて、大量殺裁兵器には加担しない」と結束すれば、〈ヒロシマ〉も〈ナガサキ〉もなかったはずである。
 生き証人の博士は明言しておられる。「日本への原爆使用が『大戦の早期終結のためだった』と言うのは嘘です! 真の目的は『ソ連にアメリカの力を見せつける』ことだったのです」と。
 博士は、トーラ夫人と再会することは、ついにできなかった。夫人は、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)の犠牲になられたのである。夫妻に子どもはいなかった。一緒に暮らせた時間は、あまりにも短かった。
 ……悲しみは、人を無気力にすることが多い。しかし博士は深い悲哀を平和への決意に変えた。そして独り、半世紀を走り続けてこられたのである。
 原爆開発を途中でやめたにもかかわらず、あるときは被爆者を前に、涙を流して自分の過ちを語り、「残りの人生をかけて核廃絶に取り組みます」と語った博士であった。
 博士が長年、世界最高の知性と協議した結論は何か。それは「核のない世界のほうが、核がある世界よりも安全である。そして核のない世界は必ず実現できる」である。
 夢物語と笑うことは簡単である。しかし、理想のために戦う人を「甘い」と笑う人は、笑う自分自身の甘さを忘れているものだ。
 今から十五年前に「冷戦がまもなく終わる」と言ったら、「何をばかな」「現実を知らない奴だ」と冷笑されたであろう。日本では、よく「国際情勢に対応する」という。しかし国際情勢とは、本来、みずからつくるものである
 理想なき現実主義。それは現実との格闘ではなく、現実への卑屈な追従でしかない。
 じつは、冷戦後、核保有国は、あのときの博士と同じ課題に直面している。
 「核兵器を開発する理由がなくなったのに、なぜ、それを続けるのか」と。
 続けるとしたら、何か別の理由を蹴さねばならない。新しい「敵」を作りすか。それとも核兵器が「大国たる地位のシンボル」になっていることや、軍需産業からの要請という、おぞましい事実を認めるのか。
 博士は「日本は被爆国として、核廃絶に積極的に行動してほしい」と、繰り返し言ってきた。たしかに、これ以上の「国際貢献」はないはずである。
 しかし日本はアメリカ追随を貫徹してきた。国連での「核兵器の不使用」等に関する決議にも、長い間、ことごとく反対か棄権をしてきたのである。
 そういう一方で、きな臭い「国際貢献」だけに熱心であるとしたら、いったい世界のだれが日本の平和意思を信用するというのだろうか。
 私はゴルバチョフ氏と対談集も出したが、初来日したソ連大統領の広島訪問の希望さえ「アメリカの神経を逆なでしないよう」日本側に拒否されたという。(「朝日新聞」1991年4月14日付朝刊、参照)
4  「人類の絶滅」か「戦争の絶滅」か
 ロートプラット博士は、大阪での語らいの後、芳名録に、こう記帳された。
 「核時代においては、二つに一つの選択しかない。人類を絶滅させるのか、それとも戦争を絶滅させるのか」
 歴史家トインビー博士も強調しておられたが、少なくとも「ヒロシマ以後」は、武力による平和という概念は幻想でしかない。戦争に勝者も敗者もなくなったのだから。
 しかも今、核物質の流出や、小型核兵器の製造の危険も高まっている。通常兵器も、核に近い破壊力に近づいている。
 真の安針保障のためには「戦争を不可能にする」制度を生みだす以外にない時代に変わっているのである。
 「平和のためには戦争の準備を」。これは、十九世紀的なハードパワーの発想である。
 「平和のためには平和の準備を」。これが、二十一世紀的なソフトパワーの発想である。
 平和とは「武力バランス」ではない。平和とは「人間性の開花」なのだ。
 そのためには、文化で心を耕し、教育でヒューマニズムの種を育て、人間的交流で各国に友情の橋を架けることだ。
 「人間性以外のものは、すべて忘れよ!」「正しい戦争も、正しい殺人もない!」
 二十一世紀の礎石には、この思想を置くべきではあるまいか。
 そうでなければ「史上最高に人を殺した世紀」二十世紀から、何を学んだと言えようか。

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