Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ジョン・モンゴメリ一博士 広島の復興に尽力したアメリカの政治学者

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

前後
1  無関心、傍観者ではいられない
 広島に原爆が落とされて半年後のある日、廃墟の街を、一台のジープが走っていた。
 呉のアメリカ軍駐屯地から、広島市庁舎へ向かっている。
 乗っているのは、大学を卒業したばかりで、二十代なかばの青年将校。後にハーバード大学ケネディ政治学大学院の教授になる、ジョン・モンゴメリー博士であった。
 瓦礫の残る市庁舎の石段を上り、部屋に入ると、四十人ほどの日本の役人が待っていた。
 一斉に立ち上がって、拍手で迎えてくれたが、表情は硬かった。
 青年がここへ来たのは、軍の命令でも、特別な肩書があったからでもない。みずから望んで”広島の再建計画に、ぜひ協力したい”と、やってきたのだ。
 ともかく、この人たちを励ましたい。青年は、そう思った。
 ”かつてアメリカの首都ワシントンDCも、イギリスとの戦争で荒れ果ててしまいました。それでも再建計画が立てられ、新たな近代都市が誕生していったのです”
 そして博士は計画ができるだけ具体的であるよう望んだ。これを受け、早くも第一回の会議から、市の中心に「平和公園」を造ること、原爆ドームを残すこと、その近くに原爆の遺留品を展示し、平和のための記念館とすることが話しあわれた。
 「悲劇の都市」から「国際平和都市」へ。
 広島の蘇生は、この、ささやかな会合から始まったのである。
 博士は毎日、呉から広島に通い、市の復興に情熱を注いだ。計画を練り、提案をし、連合軍の援助を求めて東京に陳情にも行った。(以上はジョン・D・モンゴメリー『ヒロシマ・ベトナム・核』〈高村忠成/他訳、第三文明社〉を参照)
 博士は傍観者ではいられなかった。多くのアメリカ人が、広島の将来に、あまりにも無関心なことに憤った。原爆を落としておいて、「その後」のことを、だれも考えていない!
 「広島の復興を実際に推進したのは、ほんのわずかな人数でした」
 後に「めざましい復興ぶりを、この目で見ました。もし、ここが広島だと言われなければ、信じられなかったほどの変化です!」。わが子の成長を見つめる父親のように、目を細めておられた博士の慈愛のまなざしが忘れられない。(1990年12月、聖教新聞社での語らい)
 功績を永遠に顕彰するため、翌91年3月、私は広島池田平和記念会館に、ご夫妻の桜を植樹させていただいた。
 博士が発展・開発にかかわった国は、日本だけではない。ドイツ、イタリア、ベトナム、アフリカのマリ……と、八十カ国にも及ぶ。
2  政治家を「人間」にもどすため
 博士の「政治学」がめざすもの――。それは「政治家を人間らしくする」(同前)ことだという。政策決定をする政治家自身が、往々にして「権力のとりこ」になり、目先のことしか考えられなくなる。その場その場での人気と保身が最優先になる。その結果、民衆を幸福にできるチャンスを目の前にしながら、みすみす取り逃がしてしまう。
 そして広島への原爆投下のように、決定した「その後」の影響と結果を考えない。この無責任!
 「だからこそ民衆の側から、指導者が忘れている本来の使命を思い出すよう、つねに働きかけていかねばなりません。道徳的リーダーシップをとるよう、民衆の影響力を行使しなければならない」
 民衆よ傍観者になるな! 権力者を監視し、左右せよ! それが民主主義なのだというのである。
 いつでも「現場の人」であった。空理空論ほど博士に縁遠いものはない。
 創価学会の中道主義が左右両極から非難されてきたことに対しても、中道こそ「生きた平和運動」であり、その否定は「死んだ平和運動」であると支持してくださった。
3  平和へ「英知のネットワーク」作り
 気取らない人である。礼儀正しいが、時に、がらっぱちなまでに、あけっぴろげである。
 竹を割ったような性格。それでいて、こまやかな心づかいのできる人。親切、気さく、ユーモア、屈託のない笑い。
 頭脳の回転の速さは天下一品であり、ぐいぐいと本質に迫っていく迫力がある。
 不正に対しては、周囲がびっくりするほど大声で怒り、落ち込んでいる人がいれば、そっと励まさずにいられない。趣味もテニス、水泳、音楽と幅広く、ヴィオラの演奏は玄人はだし。
 要するに博士は「人間」そのものなのだ。
 「人間が好き」なのだ。
 だから、皆の良い点を引きだせる。意見が対立し、紛糾している場合でも、博士が来ると不思議に混乱が収まってしまうという。人々を「協力」させていく名人である。
 私は、博士に、アメリカ創価大学「環太平洋平和・文化研究センター」の所長就任をお願いした(1990年12月)。「英知のネットワーク」を作るのに、これほど、うってつけの方はいない。
 私心のない方であり、精魂こめてセンターを育ててくださっている。
 こんなことがあった。
 1992年の秋、センターが、タイのチュラポーン研究所と協力し、国際環境セミナーを開くことになった。博士をはじめ代表数人の参加が決まった。しかし、博士の住むボストンからバンコクまでは、飛行機で二十時間。
 創価大学のスタッフは考えた。「いくら博士がお元気だからといって、あのお年(当時七十二歳)で、この旅は過酷だ。ファースト・クラスの席で行っていただきたいが、予算がない。せめてビジネス・クラスを使っていただこう」
 ところが博士は、ご自分でわざわざ、全員の航空券を、いちばん安いエコノミークラスで取って来られた。
 「センターの研究費は、大勢の市民の真心に支えられている。それを思うと、大事に大事にしなくちゃいけない。少しもムダづかいしちゃいけない」
 恐縮するスタッフに「だいたい、飛行機なんていうのは、着けばいいんだからね。違うかね?」。
 こう言って、いつものように茶目っけたっぷりに笑う博士であった。

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