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日蓮大聖人・池田大作

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第93回本部幹部会 教学の筋金入れよ

1967.10.29 「池田大作全集」第3巻

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1  きょうは細かい話をいくつかさせていただきます。
 始めに、一般講義について申し上げます。一昨日の数学部長会で種々検討を重ねた結果、講義の開始時間は、東京都内は午後六時四十五分から、その他の地方では午後七時からということに、決定させていただきました。これは仕事の都合でなかなか定刻に集まれない人もいますし、また、早くきて数十分も待っている人もいますので、開始時間を今度明確にしておく必要があったからです。十一月度から来年の四月度まで、とりあえずそうしたいと思いますのでご了承ください。(拍手)この一般講義は、創価学会にとっても非常に重要な行事でありますので、本部の教学部で、全部、状況報告をうけることにいたします。講師が惰性にながされているようなところは、どんどん交代するとか、本部としても、この半年間は、教学の筋金をいれるよう、力を注いで生きたいと思っております。
 なお教材として、方便品・寿量品講義を要望する声が多いので、これを取り上げることにしました。いままでの御書講義に加えて方便・寿量品の講義をすることにいたします。毎朝、毎晩読んでいるのですから、勉強してよく理解をしておきましょう。(笑い)特に、入信間もない人は、なぜ方便品の十如是を三遍読むのか等、基本的な問題が、よくわかっていないと思いますし、三、四か月かけて、一通り終了するようにしていただきたいと思います。また今回、講義会場には、本部として新たに推進委員をおき、その充実を図ることにしました。これは講義をうけた人を、必ず立派な人材に育てていくとの方針に基き、大幹部がそれを推進していくことになるわけです。
2  次に「御義口伝講義」下巻の執筆が、おかげさまで終了いたしました。(拍手)五年間の学生部対象の講義を終えて、日達上人猊下のご決裁もいただき、十一月十七日、公明党結成三周年を記念して発刊したいと考えています。青年部代表、学生部代表、高等部代表の三名に協力願って、十月十二日の正本堂建立発願式の日に全部脱稿しました。御義口伝は口伝書であり、日蓮大聖人の仏法の骨髄であります。したがって、学会教学においても、この御義口伝講義を一つの中核としてまいりたいと思いますし、特に幹部の人たちは、しっかり研鑽していただきたいことを、お願いするものであります。(拍手)
 第三に、聖教新聞社の本館を造ることが決まりました。明年四月、聖教新聞の創刊十七周年を記念して起工式を行う予定であります。建て坪は約三千百二十八坪。地下二階、地上八階。工費は約十億円。土地はすでに購入ずみです。またコンピューターを設備し、園他、最新の事務機械等も入れる予定です。これで皆さん方のご便宜を一層図ると共に、さらに、新時代にふさわしい充実した文化活動、言論活動を展開していく本城としていきたいと考えております。
3  第四に金銭問題ですが“金銭にみだらな人で強信者は一人もいない”ということを知っていただきたいのです。本部で厳しく禁じているにもかかわらず学会員同士で共同事業をに行うとか、信心を利用して同志からお金を借りるとか、そういう幹部がいるとすれば、それは、まじめに信心即生活を実践していない証拠です。“信心していれば、事業のほうはなんとかなるだろう”“学会活動さえしていれば、タナからボタ式になんとか金もはいるだろう”と、そんな甘い考え方でいるのは大謗法です。信心が強くなればなるほど、金銭にたいしては厳格な態度で臨むべきです。金銭は生活の尺度であり基本ですから、金銭についてふまじめな人、だらしのない人には、信心の厚い立派な指導者は一人もいないということを自覚していただきたいのです。
 長い期間にわたってみていれば、よくその実態がわかるものです。“火の用心”をしている人は、さも真剣に学会活動をしているようでも、結局は生活をおろそかにしてるために、あとで退転したり、人に迷惑をかけたりするような結果になっています。自分の生活は自分で律していく。まじめに働き、家計簿もきちんとつけて、月給が少ないときは少ないように切りつめ、家庭経済を常に完璧にしていく。そのようなまじめな生活のなかにこそ、初めて御本尊の功徳も顕現するのです。これが、一念三千であり、信心即生活です。どうか生活に負けるような幹部は一人もいないよう、立派に実践していってください。
4  第五に、最近、私自身のことを評論したり、書こうとしたりする動きが、あちこちにあるようです。いくら私のことを書いても、どうしようもないのですけど……。(笑い)むしろ創価学会の本質を書き究めることの方が大事だと思います。しかし言論の自由ですから、それをとめるわけにもいかない。(笑い)いずれにしても、私は皆さんがご存知のように、ただこれだけの人間です。あとはなにもありません。ですから、私は、どんなことを書かれようと、なにをいわれようと、そんな毀誉褒貶にはとらわれません。八風にはおかされません。私は誰人がなんと批判しようとも、妙法流布のために一生を捧げきる以外何もありません。これからも、マスコミはいろいろな角度から私を取り上げ、本にも書いていくでしょうが、創価学会はあくまで御本尊が根幹です。私がどのようにいわれようとも、皆さんは縁に粉動されてはなりません。私などを基準にして、一生の仏道修行を棒に振るなどということは、愚かのなかの愚かであります。そういう本が、何冊か出るということが予想されますので、まえもって一言申し上げておきます。あとは、皆さん方の賢明な判断と、自由な裁量にお任せします。
5  第六に、十二月度の本部幹部会で世帯数の整理をしたいと思います。海外へ行った人、亡くなった人、退転した人など、このさい、本部で厳格に検討し、年末に整理して世帯数から外します。世帯数が若干少なくなったとしても、実態の基盤のうえに立って、思う存分活動していけるようにしたいと思いますので、ご了承ください。
 第七に、本部職員の学会活動について申し上げます。いままでは、本部の仕事が忙しいという理由で第一線に出られなかった人もおりました。たしかに本部の仕事は忙しい。人の三倍も五倍も仕事をしていることも事実ですし、広宣流布の原動力となる仕事ですからやむをえない場合もあると思いますが、総務または総局長、局長が特別に許可した人以外は、全員、午後五時半に仕事を終わらせて、学会活動に出ていくようにいたします。本部職員だからこそ、真っ先駆けて戦わなくてはならない立ち場です。これは、私が戸田前会長のもとにいたときからの伝統です。あすから第一線に出て、思う存分、折伏に座談会に戦っていくことになりましたので、よろしくお願いいたします。
6  最後に、四条金吾殿御返事の有名な一節を拝読したいと思います。
 「将門は・つはものの名をとり兵法の大事をきはめたり、されども王命にはまけぬ、はんくわひ樊噲ちやうりやう張良もよしなし・ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし、すぎし存命不思議とおもはせ給へ、なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候、恐恐謹言」「将門は・つはものの名をとり兵法の大事をきはめたり、されども王命にはまけぬ」――平将門は、平安朝時代の武将、関東の制覇者で、自分自身が天皇のような気持ちになって朝命に反抗し、最後に無残な死に方をした人であります。武士としては最高のところまでいったが、朝廷にはかなわなかった。結局、最後には敗北者となっています。「はんくわひ・ちやうりやうもよしなし・ただ心こそ大切なれ」――攀噲と張良は漢の高祖に仕えた有名な大武将であったが、不幸な死に方をした。大忠臣であり、そしてまた偉大な側近であったから、栄誉栄達をほしいままにする最高の人生が送れたにもかかわらず、最後は寂しく、左遷されて殺されかかった人です。やはり敗北者としてその一生を終わっています。
 この例を通して大聖人は「ただ心こそ大切なれ」と申されています。結局、信心する以外に絶対の幸福はないのです。大聖人が「心こそ大切なれ」というその心は、唯心の心ではなくして、色心不二の一念です。生涯、永遠に福運を積んでいける“心”をさします。俗に心がけがいいとか悪いとかいいますけれども、商売や事業、また世間の付き合いでも、心がきれいな人は、やはりかわいがられ、大事にされています。反対に悪い心の人は、顔つきや目つきまでよくない。(笑い)いわんや、宇宙の本源である御本尊に対する信心の“心”のある人は、必ず最高の人生を送ることができるというのです。
7  「いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし」――いかに御本尊があっても、また大聖人が祈ってくださっても、信心がなければ、ぬれた“ほくち”に火をつけようとするのと同じで、ムダなことです。それでは真実の幸福は得られない。たとえば、どんなに立派な自動車があってもエンジンが止まっていたのでは動かない。またどんなに優秀な無線機を使って発信しても、受信機が止まっていては通じない。それと同じ道理であります。「はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし」――結局、自分自身が信心に励み、また同志と団結し励ましあって、強盛に信力を出す以外にない。「すぎし存命不思議とおもはせ給へ」――いま自分自身が生きているのは、なんのためか、いかなる使命があるのかを考えよということです。つまり自分自身の生活観、社会観、世界観を考えなくてはいけない。そうでなければ生きていても、生ける屍みたいな存在で終わってしまう。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」――剣道、柔道など、いろいろ兵法はあるけれども、その根本の兵法は結局、法華経の兵法以外にない。崩れざる幸福を確立する、人生を勝ち抜いていく兵法は、法華経の兵法、御本尊を拝むことに尽きるのです。「『諸余怨敵・皆悉摧滅』の金言むなしかるべからず」――とは、三障四魔を打ち破ることも、諸天善神の加護をうけることも、全部、自分自身の法華経の兵法によって決まるのです。たった一行ですけれでも、これを色読し、実践するか否かで、自分自身の現在も将来も決まってしまうのです。私はこの一節を身で読み、戦ってきた一人です。大阪のいちばん厳しい参院選の戦いのときにも“この一節を色読しよう”というのが私の信念でありました。
 「兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり」――いかに武芸の達人である宮本武蔵であろうが、千葉周作であろうが、また、呉子、孫子の兵法であろうが、あらゆる兵法剣形は、この妙法から出たものです。宇宙の法則はもちろん、その他、学問、学理、音楽等、あらゆる「法」といわれるものの大事も、すべて根幹は南無妙法蓮華経から出たものであります。三船十段という柔道の達人がおりましたが、この人の話のなかにも、これと同じような意味の言葉が出てきます。「技の本質、本源になにかある。それは表現できないけれども、そこをつかむかつかまないかが、実をいうと名人と達人の本質的な違いなのだ」と。この一節を読んで、非常に感銘をうけたことをおぼえております。「あへて臆病にては叶うべからず候」――信心は臆病であってはならないとの厳しいご指導であります。
 十一月の幹部会に、また明るく意気揚々と集まりましょう。(拍手)

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