Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新任幹部候補面接 豊かな指導性もて

1967.9.30 「池田大作全集」第3巻

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3  有名な四条金吾に与えられた崇峻天皇御書に、次のような一節があります。「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし
 中務三郎左衛門尉とは四条金吾のことです。「主の御ためにも」の「主」とは社会という意味です・大聖人は四条金吾に対して、社会においても立派に尊敬、信頼される人になりなさいと仰せです。また「仏法の御ためにも」との仰せは、前文の「主の御ためにも」と関係して深い意味があります。すなわち、ここのところは信心即生活をおっしゃっているのです。信心が社会の上にどういう実相となって現れるか、それが大事なのです。普通であれば「仏法の御ためにも」の次に「主の御ためにも」がくるところでしょう。それを大聖人は「主」を先にして、社会――すなわち会社、事業等で勝利者にならなければ、本当の仏法の証明者になれないことを強調されているのです。
 創価学会という仏法の世界の大幹部になっていながら、社会の人達から信用がなかったり、笑われるようでは、法を下げることになります。それでは、仏法を奉持した広宣流布の闘士とはいえません。私達は社会の勝利者にならなくてはならないのです。「世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」とは、そのことを仰せなのです。仏法を奉持した場合には、世間の批判、悪口は当然、覚悟の上です。私たちは、そうした障魔と戦わなければならない。しかし、世間の批判が、いつの場合でも「信心」に反対しての批判だと考えることは、少し極端すぎます。信心さえしていれば、あとは何をやっても正当なのだというのでは、信心の利用になってしまう。
 「心ね」とは「心根」「根性」ということです。世間の人々からも、本当に人柄のいい人だ、誠実で、接していても春風のような感じがすると評判にされるような人にならなければいけないとの仰せなのです。自然の形でにじみ出る豊かな人間性の根底に、信心があればよいのです。しかし、また逆に、そういう世間の毀誉褒貶のことばかり考えて、仏法律を忘れたいき方をすれば、これは罰を受けます。似非信者になってしまいます。この点を、よく考えていただきたい。仏法、世間、そして自分のうえの実証、この三つを実践して、始めて「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」となるのです。「此の御文をご覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」とは、この三つが、きちっと実践されていなくてはならないとの仰せです。信心さえしていれば心の財をつむことができる、あとはどうでもよいという考え方ではなくして、以上の三つが全部そろって、始めて信心即生活の実践となり、大聖人の仰せ通りの生き方になるわけです。
 今こうして御書の文々句々を心新たに読み返してみますと、更に深甚の哲理が明白になってまいります。どうか一生涯、不退転の決意をもって、いつも明るく自信をもち、日々、月々、年々、微動だにしない幸福を築きゆかれんことを、心よりお祈り申し上げます。

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