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日蓮大聖人・池田大作

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山梨総合本部幹部会 広布とは人材の集まり

1967.6.25 「池田大作全集」第3巻

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1  さる五月三日に、皆さん方のおかげで、盛大に会長就任七周年の総会を終了することができました。ここに山梨の同志の方々に、心から御礼申し上げます。(拍手)学会は、すでに次の七年間に向かって、花々しく前進を開始しております。私も、皆さん方のご支援をいただきながら、全力投球で、次の七年、なかんずく五年先の本門戒壇建立を目指して、指揮をとっていく決心であります。(拍手)
 十年前の山梨の世帯数は、二千数百世帯と聞いております。それが現在では、二万九千世帯を突破しています。この因習深い国土世間でよく戦い、よく切り開きました。その功徳は大きいと思う。先駆を切って戦ってきた先輩諸兄には、私も心から敬意を表するし、後輩の皆さん方も、感謝しなければならない。しかし、これで広宣流布が終わったというわけではない。もう一段歩みを進め、正本堂の建立を目指して、明るく、逞しく、楽しく、新しい建設に進んでいっていただきたい。
2  一般に、山梨の人々は、内向的で閉鎖的だといわれておりますが、私は決してそうではないと思う。かつて戦国時代には、武田信玄が出て、甲州武士の威力を全国にとどろかせました。また、末法の仏法においては、日蓮大聖人が最後の九年間をすごされたのも、この甲州の地であります。二祖日興上人のご誕生の地も、この甲州であります。また、世界の聖地である多宝富士大日蓮華山に厳存する総本山富士大石寺の北辺の守りは、いな将来は中央の守りになるかもしれないが、その守りは、山梨の同志が全部引き受けていただきたいのであります。(拍手)
 戦国時代の名将・武田信玄は「人は石垣、人は城」を理念として、特に城は築かず、勇猛な武将をもって、最高の守りとしました。広宣流布といっても、結局は幸福を満喫しつつ、そして社会のために貢献し、喜び勇んで人生を生ききっていく人材の集まりのことを意味します。したがって、創価学会の目的は、世界最高の人材の城を築いていくことであり、これが広宣流布に通ずるということを、知っていただきたいのであります。妙法を護持した人が幸せにならないわけがない。誰人たりとも必ず使命があるのです。森羅万象また山水草木等、いかなるものも、すべて、なんらかの使命をもって厳存しているのです。人間革命して幸福になり、社会に貢献し、価値創造をしていく。生ける屍ではなくして、生きること自体が、なんらかの形で社会、民族、世界に貢献していく。これが広宣流布という意味なのであります。したがって、私どもは誰人も、なんらかの使命があるのだという自覚と、責任感と、喜びをもって進んでいかなければならない。そうでなければ信心した人とはいえないし、地涌の菩薩とはいえません。指導されたから、組織があるからという義務ではなくして、生命の内奥からほとばしる勢いをもって生き、戦い、貢献していく。これが人間革命であり、信心であります。
3  私どもは不幸の人の見方となって生涯戦っていくのです。いま、虚栄高く、幸福そうに見える人も、時代が変わり、事件が起これば、たちまち不幸の奈落に陥ってしまう。いまはただ、自分ほど幸福者はいないという虚像や、幻影をみているにすぎない。だか、人生の根底を掘り下げてみれば、幸福か不幸かのいずれしかありません。中間の幻影などは、本質から論ずれば、すべて不幸となるのであります。それに対して、私どもは過去は不幸であった。また不幸であることを知った。その自分自身の不幸な生命を、妙法を信受することによって、根本的に幸福な生命に変えていきました。そしてまた不幸の人を本源的に救ってきました。この差、この力こそ、私は人生にとって、どれほど大きい福運を開くことになるかといいたいのであります。(拍手)
 皆さん方は、たしかに御本尊の功徳をうけたといいきれるかどうか。百万言の立派なことをいっても、その人が生命活動のうえで、生活の中で喜びを感じ、力を感じ、たしかに実証があったといえなかったならば、なんの理論であるか、なんの有名人であるか、すべて沫のようにはかないものであります。結局は、偉大な妙法の哲理を根底とした庶民の団結こそ、不幸から幸福になった民衆の潮のごとき力こそが、次の時代を建設し、民衆の勝利になることは、絶対間違いないと、私はいっておきたいのであります。(拍手)
 そのためには、純粋に日蓮大聖人の教え、日興上人の「御遺誡置文」を勇気をもって実践していっていただきたい。大御本尊があっても、実践がなければやはり功徳はでない。皆さん方は功徳をうけたというけれども、私からいわせれば、まだまだ何百分の一、何千分の一しか功徳を満喫しておられない。いわんや大聖人からみるならば、ごく微小の功徳しか感受していないのではないかと心配するのです。いまの何十倍、何百倍、何千倍の功徳をうけられるような御本尊と境智冥合し、実践していくことをお願いしたいのであります。御本尊があっても、功徳をうけなければ、本当の大信者とはいえない。山梨という限られた国土での活動だけで一歩も外へ出たことがない、日本国中など旅行することもない。まして世界には一生行けないなどという、退嬰的な人生でなくして、功徳をうけて、日本国中へ夫婦そろって行こう、全世界へも折伏をしに行こう、金婚旅行に行こうなどといえるような功徳をうける信心、一念をもっていただきたいのであります。(拍手)
4  しからば、その根本の仏道修行とは何か。それは、題目を真剣に唱えきっていくことです。蚊が鳴くような声で(笑い)しかも朝晩百遍か二百遍唱題するだけで、功徳がでないなどというのは、少しおこがましいと思う。(笑い)そしてまた、功徳を受けていくもう一つの源泉は折伏を行ずる以外にない。信心とは折伏であり、実践です。その折伏の実践とは慈悲です。道理と慈悲ほど強いものはありません。したがって、結局は、折伏をしきった人が、十年、十五年、二十年の長い人生行路を考えた場合には、必ず社会の勝利者となり、安定しきった生活を築いております。
 次に、同志は仲良く、団結して進んでいっていただきたい。同志の間柄に怨嫉があっては、九仭の功を一簣に虧(欠)いてしまいます。自分自身で、わざわざ功徳を消してしまうのです。妙法の徒、仏の使いをいじめたり怨嫉して、なんで幸せになれましょうか。これは、最も功徳をはばむ原因であることを知っていただきたい。なお、信心の世界にあっては、一人ぼっちではいけない。会合に行き、大勢の人と接しなければ、逞しい、正しい、深い信心の確立はできなくなってしまいます。人間は弱いものです。一人になると、これほど弱いものはない。そのためにこそ、大聖人の和合僧といって、組織を大事にすることを教えられているのです。戸田前会長も「学会の組織は戸田の命よりも大事である」と、そのことを強調されているのです。弱い自分自身の信心を強盛にし、正しく生きていくために、この学会の組織、和合僧を大事にしていくということも、広宣流布を大きく推進し、妙法を守るということに通ずるのであります。(拍手)
 仏法は、皆さん方もよく教学で聞くとおり、依正不二であります。私どもは正報(主観的智)であり、その正報である私どもの信心の力によって自分自身の生活、家族全体の生活、さらには山梨県という依報(客観世界)が変わっていく、それが仏法の原理です。その妙法の当体である正報によって依報を変えていくのです。個人個人が依正不二であるし、王仏冥合という原理のうえの依正不二ということもあります。その原理によって、この山梨県をどの国土世間よりも繁栄し、発展していく常寂光土と変えていっていただきたいのであります。(拍手)また、変えていくことが広宣流布であります。自分たちの国土世間であり、自分たちが一生、生活をしていくところです。子孫末代のためにも、繁栄させておかなければならない。現在、中央自動車道路の建設が進んでおり、完成すれば、この地方も脚光を浴びる時代がくるでしょう。山梨県も大きく変わることは必然であります。したがって、この山梨の地を、本当に住みよい、幸福に満ち、安定しきった国土世間とするために、勇敢に信念をもち、この依正不二の原理を基にして、前進しきっていただきたいのであります。(拍手)
5  そこで、次の衆院選には、勝敗は別としても、この山梨県から、初の候補を立てたならばどうかと、提案するものであります。(大拍手)それでは満場一致で決定といたします。(拍手)この戦いも、全部、山梨県人の幸福のために、山梨の地の繁栄のために、全力をあげることにしたい。
 皆さん方の住んでいる国土世間が幸せにならずして、なんで日本の王仏冥合、広宣流布といえましょうか。個人が幸せにならずして広宣流布はありえない。皆さん方の市、県、国土が幸せにならずして、また救われずして広宣流布とはいえません。この山梨の広布が達成されれば、日本全国の広布も達成されます。最も身近なところの勝利の一歩一歩の前進が、全体の広宣流布に通ずるということを知っていただきたい。(拍手)そして皆さんのお子さんたちが、この山梨の地を土台にして日本国中、否、全世界で思う存分戦っていけるようにしたい。そのためにも、基礎を築いておこうではありませんか。(拍手)
 現在はまだ広宣流布の途上であり、したがって、一人一人が大福運を積んでいくための信心を貫いていただきたい。常識豊かに、事故のないように、それであって、信心だけは生き生きとさせて……。信心が止まってはいけない。自動車は、エンジンが止まったならば走りません。同じように信心も止まったならば、功徳がでるはずがない。やはり「進まざるを退転という」との大聖人の御金言どおり、常に進まなくてはいけない。日々・月々・年々に、少しずつでも進まなければ、大福運は積めません。この正しい信心を粘り強く貫いていっていただきたいのであります。(拍手)
 そのためには、一つ一つの学会活動を、まじめに、着実に実践していくことが大事です。そして水ももらさない団結で、個人指導、家庭指導を中心に、折伏を一歩一歩推進していくことが、最も大事です。信心は歓喜であります。大聖人は、御義口伝下に「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せになっております。
6  不満をいだきながら題目をあげたのでは、結果はうまくいかない。自ら燃え上がる求道心をもって、宿命転換のために題目をあげよう。大福運を積むために折伏に行くのだ。不幸な人を救うのだと、大仏法の原理を説いていける自分自身の立ち場に歓喜していくところに、自分自身の偉大な人間革命があるということを忘れてはならない。そうなるためには、真剣に題目を唱えていくことが源泉です。そして歓喜に燃え、躍動しきった生命力を湧現しながら、まず自分自身が、喜び勇んだ人生を生ききっていただきたい。(拍手)
 土籠御書に、大聖人は次のように仰せになっております。「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」と。口では経文を読んでいるが、しかし、色心共に、身口意の三業で、すなわち全生命で妙法を読んでいる人、実践している人は少ない。その人には、それだけの功徳しかないという意味であります。所、信心は実践が第一義であるとの御文であります。
 大聖人は「疑わざるを信という」とも仰せのごとく、信ずるとは疑わず、大聖人の仰せどおりに実践しきることであります。だが、心で信じているといっても、題目を唱えない、折伏もしない、会合にも出ないというのでは偽りの信心であり、それでは観念論にすぎない。行躰即信心こそが、大聖人の仏法を、色読することなのです。そしてその人の功徳は偉大であり、成仏は間違いないのであります。いいかえれば、末法の実践とは、折伏行しかないというのが、大聖人の仰せであり、これが、行躰即信心となるのです。
7  最後に申し上げたいことは、今年の三月、山梨本部の起工式を行ないました。来年春には、地上四階建ての、立派な本部が姿を現わすわけであります。(拍手)また敷き地のほうも、当初よりよけいに購入しておきました。この完成の時を目標にして、山梨の皆さんは“仲良く”ということをモットーにがんばってください。(拍手)
 誰人たりとも、欠点はあります。しかし、私どもは兄弟以上に、大聖人の子供として、深く結び合い、進んでいる同志であります。欠点はお互いに補い合い、入信当時の、あのなにも知らないけれども、純粋な活動、打算でない真剣な信心を思い起こして、山梨の新しい第二期の出発をしていくという堅い決心で、きょうを第一歩とし、私と苦楽を共にしながら進んでいっていただきたいのであります。(大拍手)

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