Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学生部部旗返還授与式 最高に自己を発揮

1967.5.6 「池田大作全集」第3巻

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1  五月三日の会長就任七周年を終了して、初めて正式に会合をもったのが、本日の学生部幹部の任命式であります。いつも申し上げているとおり、この学生部が、学会にとっても広宣流布にとっても、どれほど重要な存在であり、一切を双肩に担ってもらう中枢であるかということを深く胸に刻んでいただきたい。創価学会のため、広宣流布のためだけでなくして、学生部の諸君は、全社会、全日本、全世界の平和と繁栄のためにも、あらゆる分野、階層で新時代の潮流となって戦っていかねばならない。その意味において、一人、学会の会長だけはでなく、全日本、全世界の人々も、同じく諸君の信心の門出と未来に対して、本質的には大きな期待をかけ、心から祝福していると思うのであります。
 現在、諸君のなかには、経済的に大変な人もいるでしょう。家庭問題で悩んでいる人も、異性問題で苦しんでいる人も、また勉強のこと、試験のこと、論文のこと、友人、学校のこと等々で、悩んでいる人もいるかもしれない。人間には、みんなそれぞれに、なんらかの悩みがあるのです。信心をもったから、悩みがなくなるということはない。煩悩即菩提であり、民衆救済という大煩悩を燃やしてこそ、それを菩提と転じていくことができるのです。それでは、学会もなく、折伏もなく、広宣流布という偉業もなくなれば、悩まないかといえば、そうではなく、もっと低次元の問題で悩んでいるのであります。
 いまは新緑の五月。ちょうど諸君の季節であります。学生部の諸君は五月のような季節であると思う。花が爛漫と咲き、新緑が映えるこの大自然の姿。これを仏法に「起は是れ法性の起・滅は是法性の滅なり」と生命観の実相を説き明かしております。時に応じたこの新緑の生命力、桜でもレンギョウでもツツジでも、思いきり自己の個性を発揮し、花を咲かせているこの実態、いずれも大自然の生命に本然にそなわる妙法の法則であります。しかし、枯れた木には花が咲かない。季節がきても自分自身の生命力を発揮できず、木という存在はあるけれども花を咲かせることはできない。それが生きた木も、枯れた木も冬のときには、同じように見えても、四、五月になると、一方は花か満開となり、緑がさえわたるが、他方は花も咲かず、暗い感じのまま取り残されています。
2  諸君がこれからの長い人生において、妙法をたもったことは「起は是れ法性の起」であって、自分自身の人生が満足感のある、悔いのない最高の生命活動になるのです。妙法をたもたない場合には、生命の濁り、宿命に支配されて、自己を最高度に発揮できず、どうしても満足感のある、充実しきった人生を送ることはできない。これは道理であります。ですから、諸君はいま悩みも多く、いろいろと大変でしょうが、信心だけは、すなわちこの三大秘法の御本尊だけは放してはならない。この御本尊は、東洋仏法の真髄であり、唯一絶対の当体であります。相対的なものの見方で、自由主義、共産主義、実存主義等々の思想哲学と同列にみなしていたのでは、正しく理解することはできない。
 それは、一般の人たちにはたくさんの宗派がありますから、日蓮正宗もそのなかの一つとして、宗教の形態、儀式のうえから形式的に同じであると見てしまう。だが、形式的に見るなどとは、爾前迹門の仏法観、宗教観であり、きわめて低い誤った見方であります。宗教の本質、法の浅深を究めなければ真実を知ることはできない。そこで釈迦の哲理の究極、天台・伝教の論釈の究極を追究していったとき、すべて日蓮大聖人の色心不二の大哲学を指向しておることがわかります。そして大聖人の仏法は、その生命哲学の奥底を妙法の御本尊として帰依の対境として実践的に、現実的に確立し、総仕上げした大哲学であることを知り、究明してみれば、そういう形式的な見方は、実に低劣なものであることがわかるのです。したがって、その仏法の根幹、大哲学の完全無欠な、完成しきった実体を、諸君は学び、信じ、実践しているということを、生涯忘れてはけないし、失ってもいけない。この哲学だけは一切の本源であり「無量義とは一法より生ず」と説かれたその一法にあたる絶対的なものです。
 妙法蓮華経の開覚は、宇宙の法則それ自体に生きることであります。それ自体の体得も実感も自分自身がもつ以外にはないし、主体性も自分自身が発揮する以外にない。その絶対的な哲学のうえに立って、あらゆる学問、思想、哲学を生かし宣揚していく。さらに自分のあらゆる生活、職業等においても、あくまでもその哲学を源泉として、知能、知識、才能、技術を思う存分に使っていく。こうした確固たる悔いのない人生が「起は是れ法性の起」であり、時がくるにつれて、必ずや緑を増し、花を咲かせ、実をつけることになるのです。そして自分の一生に本当に満足しきって、自分自身のためにも、社会のためにも貢献し、正しい人生を歩んだということになるのであります。
3  私は先日「信心の英雄となってもらいたい」といいました。諸君は、その信心の英雄のなかの新しい信心の英雄として、育っていってもらいたい。これまでの学会は第一ラウンドでありました。いまはそれが終わり、第二ラウンドにはいっています。この七年間で諸君の、すべてが大学を卒業し、学会の大幹部にもなるでしょう。また社会のあらゆる階層でも活躍することでしょう。結局、全分野にわたって諸君が大活躍する時代となるのです。ただいかなる時代になろうと、根本の学会精神と伝統だけは堅持し、そのうえに立って、化儀の広宣流布、順縁広布の推進のため、より効果的に価値創造をなしていく一切これからの企画、運営は、すべて諸君に任せていくつもりです。(拍手)
 いま公明党の地盤をつくり、第三党になった。また文化会館等の第三文明建設への城も全国各地にできています。すべての点で、私は布石を打っております。今度はそれを基盤に、諸君が活躍していくのですから、これほどの楽しく、戦いやすいことはないと思うのです。したがって、いまのうちから信心の堅い決意をもつことが大事です。それを臆病になったり、相対的な気持ちをいだいたり、縁に粉動されたりする人は、どこまでいっても寂しい。どこまでいっても顔色がすぐれず、なんとなく苦しく、リズムに乗らない人生になってしまうのです。わずかの期間でも、その差はつく。長い一生を考えたら、どれほど大きな差がつくかはかりしれない。この点だけは、自覚していただきたい。
 私が結論として申し上げたいことは、自分自身との闘争に勝ち、そして大聖人の弟子とし、子供としての決意と、信心を堅持し、令法久住ために学会の前進だけは、どんなことがあっても遅らせてはけません。一生をけての長期戦であり、その過程においては、様々なことがあり、スランプになることもあるだろう。しかし、これだけは、生涯を貫く根本精神として自分たちが絶対にたもちきり、伝えきっていくことを、約束していただきたいのであります。(拍手)
 諸君がそれだけをわかってくだされば、私はもう安心です。みんな仲良く、同志愛をもって進んでいってもらいたい。なかには夜学に通う人も、アルバイトに行っている人もいるかもしれない。だが、みんなお互によく理解しあって、がっちりスクラムを組み、守り合っていってもらいたいのです。また王仏冥合の正義を樹立する理論闘争においても、断じて負けてはいけない。妙法の信心を根幹とした理論闘争の英雄になってもらいたい。
4  いままで英雄といえば、国家権力にへつらい、それをバックボーンとしていた。現在は時代が変わって、民主主義の世の中です。ゆえに財力、権力などをバックボーンとし、自分自身を強く見せようとすること自体が、小心であり、臆病であり、民主主義の原理からすれば、軽すべきものであります。人間にそんな強い者があるはずがありせん。世襲制に寄りかかるとか、権力、財力をバックとするとか、ジャーナリストのように、自分には力がないくせに、新聞社をバックにするとかなどありますが、信心の英雄とは、民主主義のうえから考えても、真の人間性の発露によるものであり、縦に見ても永遠にこわれない妙法、横に拡大しても全人類を救っていける大仏法哲学の実践によるのです。
 個人の幸福と社会の繁栄の一致のために、久遠元初以来の本有の妙理である妙法蓮華経をもって、自分も人間革命し、人々をも根幹的に救い、そして社会にも偉大な価値を創造させていく、この英雄こそが、新時代の、未来にわたる“信心の英雄”であると思うのです。過去幾千年来を顧みても、また未来を考えても、この信心のうえに立つ人生ほど、偉大で尊いことはない。諸君も根本の人生観においては、信心の英雄として、不幸の人を救い、弱い人を守り、そして民衆をリードしていけるような力ある指導者に成長していただきたい。さらに、いかなる人をも納得させる道理正しい信仰により、哲学によって、不幸の根源たる邪悪、欺瞞、傲慢と戦い、正義の真実の人間性あふれる闘士として進んでいっていただきたい。(拍手)
 世界の恒久的平和を意義づける大聖人ご遺命の本門戒壇・正本堂建立の日を目指して、一年ごとに成長し、一年ごとに信心の年輪を増して力をつけ、そして学会を支え、守り、大きく推進していっていただきたいことを心からお願いして、私の激励とさせていただきます。諸君の健康と健闘とを心からお祈り申し上げます。

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