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日蓮大聖人・池田大作

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第30回本部総会 七周年期し王仏冥合の新時代へ

1967.5.3 「池田大作全集」第3巻

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1  本日は、もったいなくも、総本山により日達上人猊下のご臨席をたまわり、また多数の来賓の方々のご出席をえて、ここに全国の同志の代表と共に、次の新しい七年のへの輝かしき門出を飾りえましたことを、このうえない喜びとするものであります。(拍手)
 偉大な恩師戸田前会長の跡を継ぎ、第三代会長の大任を仰せつかってここに七年、短時日の間にこれほどまでに学会が発展し、そして王仏冥合の深いクサビを打ち込めたことは、ひとえに、未熟であり若輩である私を力強く支え、日夜ご奮闘くださった同志諸兄のご尽力をたまものであると、心から感謝申し上げ、深く敬意を表するものであります。(大拍手)
 ここに次の七年への飛躍を目指し磐石の体制を整えられたことを、深く感謝しております。理事、大幹部の人数だけを比較してみても、七年前の出発に際しては、理事十四人、大幹部四百人でありましたが、いまではその五十倍を上回って、理事七百九十二人、大幹部一万九千七百人の陣容となっております。この強力な体制を基盤として、次の七年間も、会長就任の日に日達上人猊下よりたまわった「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との御金言を胸に、宗教革命へ、平和と繁栄の新社会実現をめざして政治革命へ、さらにさらに、一歩前進の指揮をとってまいる決意であります。(大拍手)
2  戦いは、いよいよ王仏冥合達成への第二ラウンドにはいったわけであります。あらゆる教団、政党、団体が持久戦の様相を示しております。わが学会も、航海にたとえるならば、これまでの七年間は近海の航行であり、これからは、一切の訓練も終えて、一路偉大なる目標を目指し、太平洋の荒波に雄々しく乗り出していく壮挙であると思うのであります。(拍手)政治や選挙の面でいうならば、もはや、栄耀栄華に酔っている平家に対して、敢然と源氏が旗上げをしたようなものであります。ゆえに、ただまっしぐらに、まず日本の王仏冥合の実現を目指し、そして全人類の希求する世界平和実現のために、民衆とスクラムをガッチリ組んで、晴ればれした力強い船出をしようではありませんか。(拍手)
 なかんずく、これからの七年間は、これまでの創価学会四十年の歴史よりもさらに重要な時代であり、広宣流布達成の勝負を決し、広般なる基盤を築きゆく七年間であります。この七年間、末法万年の救世主・日蓮大聖人のご遺命実現のためにも、また民族の恒久的幸福と繁栄のためにも、平和と安泰を心から願うまじめな民衆のためにも、一歩も退くことなく“信心の英雄”となって、私と共に勇敢に戦っていただきたいのであります。(拍手)
 私は、世界情勢も日本の国内情勢も、いつまでも現状を持続するわけはないと思っております。特にこの七年間は、大きい激動の時期であることが予想されます。各国の指導者が交代することも必至であり、勢力分布も大きく変動することでありましょう。だが、そうした時代の激動、指導者の変動等も、その底流には、ことごとく日本の王仏冥合、そして世界の広宣流布へ向かっての激動であり変動であることは、絶対間違いないと思うのであります。所、新しき時代を築きゆくことは「一身一念法界に遍し」の原理に照らし、事の一念三千の仏法の哲理にもとづくわれわれの王仏冥合への実践にかかっていることを強く確信し、邁進していこうではありませんか。(拍手)
3  特にわが国においては、一九七〇年、昭和四十五年の安保条約の改定をめぐる時期を頂点として、保守、革新の未曾有の激突が予想されております。このたびの都知事選では、社共連合の革新勢力が勝利を収めました。都議会においては、革新系が与党となっております。全国的にみても、革新系が伸びて保守と互角に戦う機運をみせています。これは必然的に、1970年の安保改定問題をめぐる保守・革新の戦いが、かつてない激烈な衝突になることを意味するものであります。だが、保守が勝とうが、革新が勝とうが、真に新たなる時代に目覚めて立ったわれわれ一千万人の堅き民衆の団結があるかぎり、左右のいずれが勝利を得ようとも、それが決して最終的な完全なる勝利とはいえないということを知っていただきたいのであります。(拍手)次の時代の大衆の味方、真の大衆の代表は、創価学会・公明党以外には絶対にないという確信をもって、悠々と進んでまいろうではありませんか。(拍手)
 こうした保守・革新の激突の嵐のなかにあって、国民大衆は、中道主義を掲げて毅然として進む、第三勢力の出現を待望していることは明らかであります。これこそヘーゲルの示した正・反・合の真の方程式であり、時代の趨勢であると見きわめるべきであります。したがって、いざというときは、信心を妨げ、学会を阻止する反動勢力に対しては師子王のごとく立ち上がり、猛然とこれを粉砕してまいろうではありませんか。(拍手)
 王仏冥合の途上におけるこの七年間は、衆参両院はもちろん、日本全体の政治の動向を決定するキャスチングボートを公明党が握るか否か、勝負の七年であると自覚していきたい。この間に、参院選は、昭和四十三年と四十六年、四十九年の三回あります。都議選が四十四年と四十八年の二回。統一地方選挙は四十六年と、数多くの選挙戦がひかえています。最も中心となる衆院選は、恐らく最低二回ぐらいあると考えておきたい。私どもとしては、次の衆院選には、わが公明党が、自民、社会につぐ第三党の地位を確立し、キャスチングボートを握ることを目標に、磐石なる体制を建設しつつ前進したいと思いますけれども、いかがでありましょうか。(拍手)
4  そこで、来年度に行われる参院選に対して申し上げたいのであります。思えば参議院議員選挙は、昭和三十一年の第一回目のときに初めて三人が当選し、三十四年の第二回目のとき六人が当選、続いて第三回の選挙には九人が当選して、一躍その議席数は十五となり、一昨年の第四回目の参院選には十一人の当選をみて、議席数は二十となっております。
 したがって、きたる昭和四十三年度の参議院議員選挙には、さらにその議席数の増加を目指して、種々検討を進めてまいりました。だが本部長会および理事会等の情勢分析によりますと、来年度は相当に厳しい選挙戦が予想されます。また、党執行部でも、当初全国区の立候補数は十一人を予定しておりました。だが最近、選挙戦の様相は急激な変化をみせ、各党とも少数精鋭の態勢を固めております。そこで、最終的な検討の結果、来年度には地方区五人、全国区は前回と同じく九人という線で、候補者を推薦することに決定したいと思いますがいかがでしょうか。(拍手)合計十四人の候補者が全員当選できれば、現在の二十議席より御議席増加となり、計二十五議席となるのであります。「十一人でも大丈夫当選できる」という意見も当然あると思う。それは、やればできるかもしれない。しかし、現実がいかに厳しいかは、私がいちばんよく知っております。決して甘いものではないし、何事も順風万帆というわけにはいかない。また、広布の道はもっと峻厳であることを知っていただきたい。これまでが順調だったために、ともすると簡単に考え勝ちだが決してそんな容易なものではないのです。王仏冥合の戦いはまだまだ着実に進めるべきだと思う。私はまだ三十九歳でありますから、十年、二十年先を考えながら進んでいきたい。皆さん方が安心して、楽々と、幸福生活を確立しながら選挙を行っていただきたいのが私のお願いであります。(拍手)
5  本年は、着実に、人材の養成と組織の整備をしながら、一歩一歩着実に、勝利への布石をしていっていただきたい。創価学会は、常に、七年間をあたかも冬から春、春から夏と季節の変わりめのごとく、一つの大きな節としての発展してまいりました。いま就任満七年を終えて、次の七年に向かって、決して油断することなく、新しき時代の潮流としての仏法民主主義の確立のため、また新しい勝利への前進を開始しようではありませんか。(拍手)この七年間において、私は理事室三千人、大幹部十万人の大陣容を断じて整えたいと思っております。(拍手)この七年間において、私は理事室三千人、大幹部十万人の大陣容を断じて整えたいと思っております。(拍手)
 次の七年間の目標については、すでに昨年の総会で申し上げたとおりであります。最大の問題は、なんといっても総本山にご寄進申し上げる正本堂の建立であります。正本堂は、さる四十年二月の第一回正本堂県龍委員会において、日達上人猊下のご教示にありまたごとく、事実上の本門戒壇であり、世界平和祈願の根本道場であります。三大秘法妙にいわく「浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」と。三国とは、日本、中国、インドであり、一閻浮提とは全世界と訳します。大梵天王・帝釈とは、今日では、世界の指導者たちを意味するのであります。すなわちこの本門戒壇こそ、日本、中国、インド、否、全世界の人々が、懺悔滅罪を行うべき唯一の場所であると仰せなのであります。ただそれのみならず、世界の指導者たちが、世界の恒久平和を祈願する根本道場であることを明示された御文であります。
 この本門戒壇建立を、日蓮大聖人は「時を待つ可きのみ」と仰せられて、滅後に化儀の広宣流布として託されたのであります。以来敗戦まで六百四十四年、この時期到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命は、いたずらに虚妄になるところでありました。だが「仏語は虚しからず」のご予言どおり、地涌の菩薩が日本全国に涌出し、大法弘通に邁進し、ここにその誠意と熱意が結晶して、七百年来の宿願である正本堂建立の運びとなったのであります。(拍手)この壮挙を、御本仏日蓮大聖人はどれほどかお喜びでありましょう。また、三世十方の諸仏もどれほどか祝福し、諸天も勢力を増し、天鼓を打ち、本化の大士は舞いをも舞うことでありましょう。
6  かつて権力を象徴し、壮麗を誇ったエジプトの、あの有名なテーペの大神殿も、ギリシャのパルテノン神殿も、その他のローマの大建築物も、カンボジアのアンコールワットも、民衆の犠牲の上に建立したがゆえに時代の推移と共に滅亡し、いまはただ残骸のみとなっております。だが、世界の新しい根本道場である正本堂は、民衆の盛り上がる信心と熱意による建立なるがゆえに時と共に輝きを増し、末法万年尽未来際まで不滅の大殿堂となることは、絶対に間違いないと、私は訴えたいのであります。(拍手)
 思うに、現代の日本の、そして世界の人々が、この偉大なる壮挙にどれだけ心をとどめているかはわからない。しかし、この三大秘法の本門の戒壇たる正本堂の建立こそ、日本の柱の建設であり、世界の闇を照らす太陽の出現であり、この賛嘆と安の喜びこそは、後世の民衆と歴史家等が、必ずや証明するであろうことを、確信して止まないものであります。(拍手)
 この正本堂建立の予定を申し上げれば、まず、本年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊建立の意義あるその日を期して建立発願式が行われます。正本堂の設計、総本山の総合計画については、すでに聖教新聞等で発表されているように何回かの建設委員会を開き、慎重に検討して、今日、その基本設計はほぼ完了しております。
 正本堂の基礎に埋める世界の石も、世界百三十五か国のうち、あと三十数か国を残るばかりとなっております。工事については、先般の委員会において、設計者から、これだけ大規模な工事なので短時日の工事ではどうしても完璧を期することはむずかしいとの理由から、最終的な完成予定を四十七年度まで延ばしてほしいとの申出しがありました。委員会でも、末法万年のための大建築であり、一、二年延ばしても、見事なる建築にしたいとの理由から、これを了承いたしました。したがって、第六の鐘の最終の年であり、第七の鐘の出発の年である昭和四十七年に完成できることになったことも、これまた、意義深いものであると考えるものであります。(拍手)
7  正本堂建立の機が熟した今日、本門戒壇について、特にはっきりと確認しておきたい問題があります。それは、一部の無認識なジャーナリストや評論家が、以前、学会が国立戒壇という言葉を使っていたことを取り上げ「現在、民衆立の戒壇とか本門戒壇といっているが、国立戒壇のほうは取り下げたのか、教義の修正をしたのか」などと何の真意も理解していない程度の低い質問をしてきております。ゆえにこれについて、一言はっきり答えておきまたい。
 まず、学会の主張、実践はあくまでも日蓮大聖人の御金言どおりであり、一貫して芥爾ばかりも変わっていないことを断言しておきます。本来、戒とは「防非止悪」――非を防ぎ悪を止める――の義であり、戒壇とは、出家して仏弟子になる人のために、非を防ぎ悪を止める法義授与の儀式をとり行うところであります。したがって、過去の釈迦仏法において設けられた小乗、権大乗、あるいは法華経迹門の戒壇は、いずれも僧侶の授戒場でありました。その戒壇を建立し寄進したのは、大檀那、すなわち信者の代表でありますが、昔は専制時代、封建時代であったので、必然的に国王が信者の代表となり、戒壇建立の施主となったのであります。このため、戒壇といえばすべて国立戒壇というイメージが、仏教史上においては伝統的となっていた時代が多かったのであります。
 だが日蓮大聖人の仏法においては、戒壇は、三大秘法抄にあるごとく、三国のみならず一閻浮提の人々の懺悔滅罪の道場であります。しかも施主も、いまは民主主義の時代でありますから、民衆が施主となるのであります。したがって、かりに国立といったからといっても、その内容は全く民衆と同義になるのであります。
8  かつて、戸田前会長ときに国立戒壇という名称を用いたのも、真意は、あくまでも民衆立という意味であり、戸田前会長も自ら「民衆の純真な信心の確立なくして国家権力で戒壇を建立しても、それはかえって仏法を破壊するものである」と断言しております。七百年前、日蓮大聖人が一度でも、国家権力に頼ろうなどとされたことがあったであろうか。否むしろ国難を救わんがため、時の権力者たる幕府を諫暁し、謗法を戒め、そのために自身に大難をうけておられますま。しかも、時の権力者北条幕府に対しては一言も「戒壇を建立せよ」などとはいわれなかった。当時は一国謗法の時であり、そのなかで仮に戒壇を建立したところで全く無意味であったからであります。
 広宣流布はあくまで、人々を正法に目覚めさせることが、第一義の問題であります。戒壇とは、決して堂宇を造立することそれ自体に意義があるのではなく、戸田前会長は「民衆が純真に強盛に信仰し、功徳をうけ、幸福生活を実現することが根本であり、建築物自体は、豆腐のカラのようなものである」とまで極限されたこともあります。歓喜にあふれた民衆が、心から納得し要望するようになったとき、必然的に、その力が結集され建立されるところに、真の戒壇の意義が存在するのであります。
 大聖人が、三大秘法抄において「王臣一同に本門の三秘密を持ちて」仰せになり、本門戒壇建立の時を全民衆が一同に三大秘法の仏法を持つ時と定め、あえて「時を待つ可きのみ」と将来のその建立を託されたのも、このためにほかならないのであります。すなわち本門戒壇の建立は、たんなる一握りの特権階級のためでもなく、またそれら一部の人々のみによる建立であっても絶対にならない。ただ全民衆のためであり、全民衆の意思の結集によるべきものであることは、御金言に照らしても明白であります。このように、大聖人ご自身が、戒壇は民衆立であることを御遺命されているわけであります。その証拠に、大聖人の御書全集のなかに、事の戒壇、本門の戒壇とは仰せられておりますが、国立戒壇という語句は一か所もないのであります。
9  御書にいわく「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」と。すなわち、日蓮大聖人の仏法は、一対一の折伏により、全民衆の下から盛り上がりによって広宣流布を達成していく方程式であり、国家権力により上から信仰を強盛するものでは絶対ないという明確なる文証であります。(拍手)
 日蓮大聖人の仏法は民衆の仏法であります。全民衆が等しく平等であることを大前提として樹立された大白法であります。御書にいわく「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」と。またいわく「凡此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず故に皆成仏道とも云ひ又平等大慧とも云う」と。
 かかる民衆のための仏法が、なんで一部の国家権力者によって、上から形式的に戒壇を建立することを目論む道理があり得ましょうか。事実、近く起工される本門の戒壇であるところの正本堂こそ、まさしく、私ども八百万の同志の清純な御供養による建立ではありませんか。(拍手)この一事をもってしても、仏法に全く無知な評論家が論じている――国家権力による国立戒壇を建てられるのではないか、あるいは、日蓮正宗を国教化して国立戒壇を建てるのではないか等々の――論評は的はずれの感情論であり、ことごとく仏法を全く知らない盲評であり、憶測にすぎないことが明瞭であると私は申し上げたいのであります。(拍手)今日まで、世界的建造物は、いずれもその時代の権力者によって自己の権勢を誇示するために建てられ、その陰には、名もなき民衆の悲惨と懊悩のうめきがあった。これに対して、正本堂こそは、生命の奥底より目覚めた民衆の誠意と歓喜による建立であり、世界に誇るべき民衆立の本門の戒壇であることを、私は強調しておきたいのであります。
 なお、正本堂が完成すれば、日蓮大聖人の仏法の究竟である三大秘法が、ここに一応成就したものといえるのであり、「立正安国」の「立正」の二字が完璧となったことを意味するのであります。これからは、この「立正」を出発点として、原動力として、因果倶時、依正不二の原理で「安国」すなわち理想的平和社会を、そして世界を築いていくのが、私どもの次の使命であり目的であり実践となるのであります。私どもは、仏の軍勢として、真の平和勢力として、二十一世紀の平和の鐘、勝利の鐘を高く打ち鳴らさねばならない宿命があります。したがって、いかなる邪悪なる勢力、魔軍とも、断じて戦い、個人の幸福と社会の繁栄の一致する新社会を目指し、順縁広布の大波に乗って、さらに信心を古い起こして、勝利の前進を続けてまいろうではありませんか。(拍手)
10  折伏については、昭和三十九年の総会の席上で、昭和四十七年、第六の鐘の終わりまで六百万世帯を達成しようとの目標を発表いたしました。ところが、学会の前進のテンポが予想以上に早く、すでにその目標は悠々と達成してしまいました。したがって、あと、五年間は遊んでいてもいいわけでありますが、(笑い)それでは仏道修行にならないし宿命打開ができない。「進まざるを退転という」との御金言に照らしても、折伏は伸びのびと楽しく着実に、今後も進めていこうではありませんか。(拍手)
 王仏冥合の行き詰まりのない前進のためにも、当然、折伏をしなくてはならない。また、理想社会、平和社会、平和世界といっても、人間一人一人の生命を離れては存在しえない。三毒強盛で汚濁した人間生命の土台のうえには、いかなる建設も砂上の楼閣に終わってしまう。立正安国論にいわく「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」と。「鬼神乱る」とは思想の乱れ、思考の乱れ、人間生命の汚濁であります。これを正さずに、正義の社会、進歩の社会、平和の新社会など、絶対ありうるはずはない。
 あくまでも「立正安国」であり、「立正」を離れて「安国」の世界平和もあるわけがない。いかなる難問題の解決も、その根本はどうしても折伏以外、信心以外にないのであります。まさに折伏という無血の革命、道理と慈悲の大革命こそ、人々の生命の奥底を変え、社会の底流を変える奔流であり、新社会を築く最高の力であると確信するものであります。したがって、大聖人も、折伏する人が最も偉い人であり、最も尊い人であると申されております。王仏冥合達成の勝負を決するこれからの七年間、そして正本堂が建立される意義深き七年間に、私どもは再び草創期に立ち戻って、末法の慈悲たる折伏を断じて行ってまいろうではありませんか。(拍手)
 一人の人間を生命の奥底より変革させる人間革命、それがすなわち、崩れざる平和社会への最直道であります。したがって昭和五十四年の一千万世帯達成を目指して、また再び折伏戦をもう一歩、さらにもう二歩と駒を進めてまいりたいと思うのであります。ただし、幹部はあくまでも親切に、あくまでも誠実に、あくまでも礼儀正しく、そして常識豊かに、決して事故のない活動であっていただきたいことを、心からお願い申し上げるものであります。(拍手)
11  ここで私は、これからの折伏の一つの指針として、現在の世相および思想界の現状を分析し、さらにわれわれの立ち場と使命と明確にしておきたいと思うのであります。それは現在の最先端をいく心ある思想家、知識人の等しく憂えている思想の貧困、あるいは文明の行き詰まりの問題であり、究極するところは人間性喪失の問題であります。これを、学者等は人間疎外と呼んでおります。すなわち、現在は物質文明、機械文明の目覚めしい発達に比べて、精神文明が非常に立ち遅れてしまっております。その結果、人間が主体性を失い、生命の尊厳を忘れ、文明の発達がかえって人間の不幸を増大するという悲しむべき傾向を生じたということであります。
 その幾つかの局面をあげてみますならば、まず生活のあるゆる部門が機械化され、人間は機械にしたがって動いている形になってしまった。まるで機械が主人で人間は従者のような関係になったともいえます。企業等においても、機械化、合理化のために労働者が解雇され、犠牲にされるということも、身近にしばしば起こる現象であります。また、官僚機構にみられるこどく、組織が膨大となれば、人間一人一人はその歯車にすぎない。ここでは組織それ自体が巨大なメカニズムとなって個人の意思を越えて動いていき、個人はいいしれない無力感と虚無感におおわれているのであります。
 さらにまた、人間疎外を起こす要因として、マスメディアの発達があげられます。すなわち、テレビ、ラジオ、新聞等が無数の情報、ニュースを次から次へと洪水のように提供します。人々は一つのことをじっくりと思索したり自分なりの思考をまとめようとする余裕すらなく、ただそれらを受け取り分類し整理するだけで追われてしまう。こうした状態が続くうちに、人々は自分から意欲的に主体性をもって働きかけるよりも、いつも何かを待っているような、受動的で消極的な、弱々しい精神構造になってしまってるのであります。
 こうして、現代人は、人生、社会に対して、ただ消極的に反応するだけの生命力の衰えた弱々しい人間となりつつあります。あるいは確固たる基準がなく、理性的な判断をせず、その場その場で、衝動的、本能的に行動してしまう。人間同士の関係も、情緒ある美しい関係はかげをひそめ、義務的で機能的なつながりが大部分を占めるようになってきております。人間一個の生命の尊厳が無視され、時として家畜のごとく扱われる場合さえあり、なかんずく戦争において、最も組織的に近代兵器を駆使して、残忍無比な大量虐殺が行われていることは、人間疎外というより人間性否定の最たるものであると、深く憂うるものであります。
 まさに、現代人に特有な物質的豊富のなかの空虚さ、積極性のない受動的な生活態度、利己主義、無責任な場あたり主義、刹主義的な退廃ムード、無慈悲な人間関係等々が社会全体をおおっております。これらを一言にしていうならば、巨大な機械文明、物質文明に押しつぶされた弱々しき人間像というほかはありません。これらはたしかに、学者のいうごとく、物質文明の発達がその一つの原因であるとはいえましょう。だが、より本源的には、人生、社会の基盤となり支柱となるべき力強い正しい宗教の欠如こそ、その根本原因であると、私はいいたいのであります。(拍手)
12  世界で最も社会保障制度が充実し、物質的に恵まれ、安定した生活をしているといわれるスウェーデンや、デンマークで自殺者が世界一多いという事実。これはいかに環境、制度を整え、諸条件を改善しても、その精神基盤を欠くならば、絶対に真実の幸福はありえないということを、端的にあらわした現象であると思うのであります。
 また、わが国においても、かつてある新聞が大学生に対して世論調査を行なった結果、そこで出てきた回答は、ほとんどが小市民的な幸福を求めている傾向が明らかになった。彼らの大部分が美しい女性を妻に迎え、こぢんまりとした自分だけの幸せな生活であれば、それで満足だということだったというのであります。それだけでは、あまりにも寂しくわびしい、そしてまた、小利口な社会観、小さい人生観であるといわざるをえない。そこには、不幸な人をどう救っていくか、日本の国を背負っていくのだ、世界平和に貢献していこうという青年らしい生き方も意欲も、力強い建設精神も責任感もない。それでは小心翼々とした、生命力のないまことにあわれな小市民的幸福観であるといわざるをえない。
 こうした風潮を反映するごとく、今年の東大の入学式において大河内学長が「諸君は片すみの幸福を願うのではなく、日本の政治、経済、教育、科学等のあらゆる分野を担って立つ気概をもってほしい」との講演をしておりました。本来、東大生といえばそれだけの目的観に立ち、次代を担う気概と情熱があふれていたがゆえに、希望にもえて東大に入学したというのが本来の在り方ではないかと思うのであります。。しかるに大河内学長が入学式でこういわざるをえなかったほど、現在の学生たちが、さらには日本の青年たちが生命力を喪失し、希望を見失っていると考えるのは、決して私一人ではないと思う。
13  また、よく新聞等でも、社会的正義感の欠如が問題になっております。電車の中でぐれん隊にからまれたとき、周囲には青年や立派な体格の男性が大勢いるのに、誰一人として注意したり、助けようとしない。戦おうとしないで見て見ぬふりをしています。いったいこれで社会悪を追放できるのかと訴えている投稿等をよく見かけます。これまた自分さえ無事であればよい、騒ぎの渦中に巻き込まれたくないという卑劣な事無かれ主義というほかはない。
 さらに、いわゆる機械化の発達、仕事の合理化によって一般に労働時間がかなり短縮されてきた。会社によっては毎週土曜、日曜と週二日の休日にしているところもあります。こうして生まれた余暇を利用し、いわゆるレンジャブームが起こってきています。しかるにこのレジヤーブームで、山に登って遭難したり、交通事故で死んだり、犯罪を侵して社会に迷惑をうける青年が急激にふえております。人生と生活を豊かにするためのレジャーであるはずが、かえって人命を失い、あるいは自己の人生で一生取返しのつかぬ傷をつけるのはまことに愚かなことといわざるを得ない。これらも、レジャーを自分の人生を豊かにするために使いこなせない、生命力の減退した弱い人間の姿の一断面を現わしているともいえると思う。しかも、こうしたさまざまの憂すべき現象は、わが国のみならず世界的な現象となっております。
 このような青年次代をすごした人々が十年、二十年たって、社会の中核としてあらゆる分野における責任を担って立たねばならなくなったときに、いったい社会はどうなるか。それを思うとまことに寂しい気がするのであります。これを打ち破って、能動的で積極的な逞しい人間に変わっていくためにはどうすればよいか。それが現代文明に課せられた重要問題であると私は思う。機械文明の発達が原因だからといって、機械文明を排除して、原始次代に逆戻りするわけにはいかない。結局、物質文明に足をさらわれないだけの、そしてまたあらゆる機械文明を悠々と使いこなしていけるだけの、強い自己を築く人間革命以外に、解決の方法がないことは明瞭となってくるのであります。
14  大文豪トルストイは「信仰は人生の力である」といった。また大教育界ペスタロッチは「宗教は人間陶冶の根本である」ともいった。人間性を深く洞察した有智の人々は、ことごとく宗教こそ人格完成の根本であると叫んでおります。私はこの要求に合致し、個人を人間革命させ、さらには血のかよった制度、社会、文明を築き上げるものは、唯心主義でもなく唯物主義でもない、全く矛盾なき色心不二の大生命哲学であり、ただ日蓮大聖人の大仏法を強く信じ、そして行学に励んでいく以外には絶対にないと訴えたいのであります。(拍手)
 創価学会という名称も、このように自己を常に人間革命し成長させて、逞しい生命力を発揮し、人生、国家、社会に創価創造をしていくとの意味を包含していのであります。皆さん方自体の姿、その実践をした厳然たる実証であります。行き詰まり、惰性に流され、前途に希望なき入信前の生活が、三大秘法の御本尊を奉持してからは希望に満ち、喜びにあふれ、意欲的で知性にあふれた生活へと百八十度転換したではありませんか。(拍手)さらに深く人類の未来に思いをはせるならば、所、次の時代、そして次の世界は、大仏法を持ち、最も充実した青春を生ききっているわが学会の青年部、学生部、そして高等部の若き同志に一切を託す以外にはないと、心から叫ぶものであります。(拍手)
 ある世界的な学者は「物質文明、機械文明は日進月歩で進歩しているにもかかわらず、精神文明は本質的には西洋ならばキリスト以後、東洋ならば釈迦以後、一歩も進んでいない」と嘆いております。特にわが国においては、古来宗教界は神道と仏教とが混在し、いずれも形式化して、民衆の生活法の基盤とはなりえないまま今日に至っております。しかも敗戦による混乱から、民衆の精神的基盤がいよいよ空洞化してしまったのであります。
15  目を世界に転ずると、西欧諸国では、キリスト教的唯心主義が、一応、中世から延長で、人々の精神的支柱となっております。これに対して、ソ連、東欧、あるいは中国では、“神なき宗教”といわれる共産主義が民衆の社会生活の基盤となっています。しかし、キリスト教も共産主義も、機械文明が今日のように発達した現状に対しては、もはや力ある思想、宗教として人生の支柱とはなり得なくなってしまった。その証拠は、これらの思想が、人間性に対する物質文明の挑戦ともいうべき第二次大戦のあの悲惨な事態に対して、いかに無力であったかという歴史的事実をみれば、明らかであります。さらに現在から将来にかけてわれわれをおおっている大三次大戦の危機に対して、果たしてどれほどの力を発揮しうるか等を考え合わせてみれば、明白なことであります。むしろ今日の東西二大陣営の対立の原因は、これらの思想に狂信的にしがみたいている指導者の責任であると断じても決して過言ではないと思います。(拍手)
 第二次大戦後、人間革命の尊重が強く叫ばれ、人間性の回復が主張されるようになってはきました。しかし、従来のキリスト教およびそれを基盤とする西洋の資本主義も、ソ連、東欧の共産主義も、なんら人間革命の本質を解明しておらず、したがって、人間性を回復し人々を幸福になし得る大哲学とは絶対にいえないのであります。かえって戦争の危機を増大し、人間性を喪失する傾向を強めているといえましょう。なかんずく共産主義は、人間性をも物質に還元する唯物主義であり、人間性に対する背信の、時代逆行の哲学というべきであります。
 そこで人間性回復を唱えて、ドイツ、フランスを中心として、実存主義が一時盛んになりましたが、これもたいへんなる観念論にすぎない。その証拠に実存哲学は生活から遊離し、民衆に少しも浸透することができないではありませんか。すでにその限界が眼に見えております。二十一世紀への人類文化の発展のためには、どうしても新しい、力強い指導力をもった大哲学が出現しなければならない。私は、現在の世界情勢、そしてまた、世界の思想界の現状から考えても、われわれの主張する色心不二の大生命哲学をば、必ずや、全世界の民衆が、しだいに、心から求めてくる時代が到来すると信ずるのであります。(拍手)
16  日本は、経済的には、今後ともさらに発展していくと考えられます。世界の未来図の長期予想を専門とするニューヨークのハドソン研究所の発表によると、日本は今後十年間のうちに西ドイツを追い越して、世界で三番目の強大な経済力ををもつようになり、さらに二十世紀の末ごろになると、総国民生産が一人あたりでは米国を追い越して、世界第一位になるだろうとの結果が出ております。ハドソン研究所は権威ある調査機関であり、それほど根拠のない勝手な憶測はしていないはずと思えます。だが、仮に経済の面で世界一の国家になったとしても、そのときに日本は、世界の人々に、いかなる思想を与え、いかなる理念のもとに世界平和を実現するというのでありましょうか。現在のような思想的空白状態であっては、経済的にはどんなに発展をしても、その結果は、現在の「豊なる社会」といわれながら多くの問題を内包して苦悩するアメリカの二の舞いを踏むか、あるいはそれ以上の深刻な困難にぶつかることは必然なのであります。
 私は、いまこそ日本に大思想を樹立する時であると痛感しております。多くの心ある学者、思想家等が、同じように論じ、考えたとしても、彼らには、その解決を与える思想・哲学の実体がない。あくまでも抽象的にすぎない。真の思想的支柱をもった文化的な新しい日本が誕生するならば、私はやがては、かつての侵略的な行き方ではなく、平和的、文化的な手段によって、人類の文明のリーダーシップをとっていけることは、間違いないといいたいのでありますけれども、いかがてしょうか。(拍手)
17  そして、世界の民衆からは尊敬と信頼の眼で迎えられ、かつ永遠の歴史に刻まれていくことは間違いない。これが世界広宣流布の一断面であるという方程式を知っていただきたいのであります。アジア、アフリカ、中南米等の想像を絶する貧困と病苦にあえいでいる民衆、機械文明のもとに主体性を喪失し、無気味な空虚の深淵に立たされている欧米先進国の人々、これらを両者とも救いきっていけるのは、新しい世界の宗教たる日蓮正宗以外には、絶対ないと叫びきっていこうではありませんか。(拍手)
 インドの詩聖・タゴールは、かつて、日本に希望を託して次のように謳っております。「私は、目を東のほうに向けている。日はすでに夜明けを迎え、アジアの、最も東の地平線に太陽がのぼったのでないと誰がいえよう。私は、私の祖先がなしたと同じように、全世界を再び照らすべき運命をになう東洋の夜明けに敬礼する」と。タゴールがいかなる意味でそう叫んだかは知りません。だが、アジアの、最も東の地平線に太陽がのぼったとは、日蓮大聖人が顕仏未来記の「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」とのご予言のごとく、日蓮正宗、創価学会が、日蓮大聖人の仏法を奉持して、全世界のために立ち上がったことこそ、その実体ではないかといいたいのであります。(拍手)さらに西欧の心ある思想家のなかから、西欧物質文明の危機を嘆き、東洋に新しい偉大な思想を求めている声が、澎湃として湧き起こっていることも事実であります。東洋思想の最高峰は、いうまでもなく、仏法の真髄たる日蓮大聖人の大仏法であります。すなわち、後進国の人々も文明国の人々も、一同に日蓮大聖人の大仏法を、本質においては渇仰しておることを確信しつつ、私どもは、さらに勇気をもってこの人々に応えていこうではありませんか。(拍手)
18  最後に御義口伝下の安楽行品についての一節を申し上げたい。それは「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり云云、霊山浄土に安楽に行詣す可きなり云云」との御文であります。まず「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり」とは、安楽行品にある安楽行とは、その実体は釈尊より上行菩薩に譲り与えられたところの南無妙法蓮華経であるとの意味であります。だが、これは一往の解釈であります。再往、生命論から拝すれば、上行所伝の妙法の働きとは、苦に束縛されない自由自在の幸福なる生命活動のことであります。すなわち、この生命活動こそ最高の安楽行であり、その生命活動の奥底を流れる安楽行の実体こそ、南無妙法蓮華経であるとの意味になるのであります。
 それは、環境によって作り上げられる安楽ではない。機械文明から逃避して一時的に自己満足する安楽でもない。破壊や享楽や怠惰につながる安楽でもない。かつて世界を征覇したスペインにせよポルトガルにせよ、享楽のために衰退してしまった。また、虚栄のための安楽でもなければ利害のための安楽でもない。安直な一時的な気まぐれの安楽でもありません。妙法の安楽は、生命の内奥より湧き出でる安楽であります。最も生命力が強く清浄に輝き、生きること自体が楽しみであり、あらゆる価値創造をしていく最高の安楽なのであります。「霊山浄土に安楽に行詣す可きなり」――霊山浄土とは仏国土であり、広宣流布の幸福な社会、平和な世界のことであります。この達成のために振舞うことが最高の安楽であるという意味なのであります。
 広宣流布のため王仏冥合のために邁進して人生は、たとえどんなに苦難があっても、それ自体、最高の安楽に通じていくのであります。ゆえに、誰人たりとも安楽に行詣できないわけがないのであります。死身弘法すなわち安楽となり、不惜身命すなわち衆生所遊楽と変わっていくのであります。
 御書にいわく「此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし」と。私どもは生涯、いかなる三障四魔の嵐が吹き荒れようとも、地走る師子王のごとく正々堂々と、天空をる鷲のごとく自在闊達に、宗教界、思想界の王者と自覚して、御本仏日蓮大聖人に決して恥じない法戦を貫き通していこうではありませんか。(拍手)
 なお、最後に皆さん方のご健康とご一家の繁栄を心から願い、共に今日まで戦ってこられ、残念ながら中途で亡くなられた同志の方々のご冥福を心からお祈りして私の話を終わらせていただきます。

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