Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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男子部幹部会 信心の大指導者に

1967.4.1 「池田大作全集」第3巻

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1  私は、この七年間、本当に諸君にお世話になりました。このことを五月三日の総会のまえに、一度お礼を申し上げたくて、本日は、ここにまいったのであります。(拍手)これからの七年間は、私も、いつまでも、同じように指揮がとれるかどうかわかりません。もちろん、全力はあげてまいります。あらゆるものに挑戦し、日蓮大聖人の教えどおり指導をとっていくことは、変わりありません。しかし、諸君は成長してきているし、年も若い。私一人が達成するのではなくて、諸君が大きく大指導者と育って活躍していっていただきたいことが、私の望みであり、それが私の幸せなのです。
 大聖人は、法体の広宣流布をなさり、化儀の広宣流布を現在に残されました。戸田前会長は、化儀の広宣流布のレールを敷かれ、機関車を走らせることを、私たちに残されました。それゆえ機関車もレールも、すでにできあがっております。私は、その機関車の運転を諸君に全部教えて、自分自身で、楽しく、広宣流布の戦いを実践しきって、最も有意義な、歓喜に満ちた人生を生きていけるようにしてあげたい。私だけが運転して、ほかに誰も運転の仕方を知らなければ、私がもしか倒れた場合には大変です。いまのうちに、全部教えておきたいという気持ちですから、どうか、その自覚で前進していただきたい。(拍手)
2  四月十一日号の聖教グラフに、七年前の五月三日、会長就任式のさいの総会の写真が掲載されております。その一枚に、総会終了後に、私が青年部の中堅幹部に胴上げされたときの写真があります。わたしは、その胴上げをしてくださった人たちの顔を、一人一人見ながら、いまどうなっているか考えてみたのです。後ろ向きになっている人も大勢いて、三十数人だけが顔がみえます。この人たちの現在を照合してみますと全員、健在であり、ただの一人も落伍者はおりません。(拍手)こういうことは、他の世界には、ほとんど例をみないところです。しかも全員が、学会内の立ち場では総務、副理事長、理事等の大幹部であるし、社会的には、国会議員、都会議員等々、それぞれ、重要なポストで活躍している人たちばかりです。これは、大聖人の仏法に力のある証拠です。まことに偉大なことではないでしょうか。(拍手)後ろ向きになっていたり、反対側にいて顔の見えない人たちも、よく調べてみれば全員が、大幹部に成長し、また議員や、その他、相当の社会的地位に立って活動していることは、間違いないと断言できると思うしだいです。
3  同じように、きょう、会長就任満七年を目前にして展開されている、統一地方選挙の闘争の最中に開かれた、この幹部会に集まった諸君が、七年先の五月三日前後には、どのようになっているか、私はそれが待ち遠しい。これまでの激烈な七年間に比べれば、いまは準備も一切整い、あらゆる点で恵まれた戦いです。私が会長に就任したときは、諸君のいまの立ち場以上に大変でありました。しかし、妙法は冥益であり、戦いきった人は、必ず勝っております。きょう集まった諸君は、次の七年目を目指し、一人も退転することなく、名実共に、学会を根本的に担う責任者、主力となっていただきたい。王仏冥合の推進力となっていける、信心の大指導者、社会の大指導者、そして、信心の英雄になって活躍していっていただきたいのであります。(拍手)
 きょうは、久しぶりで、高等部の人たちと本部で会いました。相当数の人が、優秀な大学にはいりました。また、不合格だった人もおります。就職した人もいます。全部のひとに、私は“おめでとう”と申し上げました。進学した人もおめでたい。落ちた人も、長い目で見れば、進学がスムーズにいった人よりも、もっと深い、指導者として育っていくうえの意義があるかもしれない。憲政の神さまといわれた尾崎咢堂さえも、落第したことがあるし、進学でずいぶん苦しんでいます。大宰相のチャーチルも、試験に落ちたことがあり、落第しかかったときも、ずいぶんあります。ノーベルもなかなか進学できませんでしたし、落第もしています。そういうわけで、たとえ一回の入試に失敗したとしても、長い目で見れば、その人が、どれほど力ある指導者になるかもしれないのです。また家庭の都合などで就職した人も、坊ちゃん育ちより強い人間となり、いざというときには、人生にとって最も幸せな生き方ができるかもしれない。それでお祝いしてあげたのです。
4  その席上で質問が出た。「蓄のう症で手術したが、そのとき麻酔が、なかなかかからなくて、大変痛かった。このぐらいで痛いのでは、如説修行抄の最後の段で仰せになられている厳しい御文を思ったときに、自信がなくなり、信心をどうしようかと思った」というのです。純真でかわいい。(笑い)痛いのは痛いにきまっています。(笑い)それでどうしたかと聞きましたら「お題目をあげます」と答えていました。(笑い)それでいい。それ以外に道はないでしょう。
 なぜこのような話をするかといいますと、大勢のなかには性格の強い人も、弱い人も、頭のいい人もいます。また明るい人も、度胸のある人も、小心の人もいるかもしれない。神経質な人も、穏やかな性格の人もいるかもしれない。いろいろな人がいていいのです。全部が一律にいかないのが実相です。ただ、御本尊を一生涯持ち続け、学会と離れないという、信心の一念が大事なのです。学会は、崇高なる王仏冥合を実現しようとする、日蓮大聖人門下の集まりであり、和合僧です。それから離れるのは退転です。学会についているということは、列車に一緒に乗っていれば目的地に行けるように、間違いなく進んでいるということです。それ自身が、最高に勇気ある人の行動となるのです。
 自信とか、強い信心とか、勇気とかは、一朝一夕にできるものではありません。本当の自信、力、強い信心は、七年、十年、二十年と信心していったとき、しぜんに身につくものといえましょう。相撲にしても、初めから関取の人はいない。野球やラグビーの選手でも、いくたびとなく戦い、負け、勝ち、やがてその道の雄になり、自信ある人間になるのです。信心の世界も同じであります。一切の世界が、皆そうです。まだわずかのあいだしか信心していない高等部員なのに、手術で痛くて、がまんができないから、信心の自信がなくなった、などというようではいけない。
5  そこで私は、如説修行抄の最後の段にあるような、暴政の時代、権力をもって信仰の自由を迫害し、民衆を苦しめていくような時代にしないために、われわれはこれだけの戦いをしているのではないですか。また、おのおのが、生命力をつけているのではないですか。もしか弱い人がいれば、われわれが皆で守り合おうではありませんか。正しい者が力をもっていかなくてはいけないのだ、と懇々と指導したのです。諸君のなかにも、いろいろな性格の人がいるかもしれないが“自分には使命があるのだ。自分でなくてはできない使命があるのだ”と自覚していただきたい。そうでなければ、一生苦しんでしまいます。
 本当の功徳、力については、大聖人が開目抄に「疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と仰せです。つくろうとして、できるものではない。自分に課せられた目前の宿命転換、人間革命、使命達成に、まっしぐらに進んで、その結果として、しぜんにできあがった自分が本物なのです。そのことは、さきほど話した、七年前の三十数人の今日の雄姿が如実に物語っており、これが現実の証拠です。これほど科学的な実証はないではありませんか。(拍手)
 諸君はいままでも、長い、大変な戦いをしてきたかもしれない。しかし信心二十年以上の人は少ない。次の七年間もスランプのときがあるかもしれない。しかしスランプだから退転とはいえないと思います。人生に波乱万丈はあるかもしれないが、信行学という信心の要、生命綱をしっかり守り、弱い自分と戦っていっていただきたい。ある画家が出版した本の第一ページに「自分自身との戦いが人生だ」と書いてありました。一般世間ですらそうです。それを、もっと楽しく、価値創造しながら、幅広く人を救いながら、本源的に歓喜に燃えて、福運を積んでいくのが信心であり、結局、自分との戦いになります。その道理をわきまえて、一人の落伍者もなく、これからの七年間、一緒に前進していこうではありませんか。(拍手)
6  私は戸田前会長のもとで戦ってきました。諸君も私のそばで戦っていければいいけれども、いまはそんな時代ではありません。遠くであっても、近くであっても、信心のある人は、おのおのが使命をもって、合理的に、民主的に活躍していく近代的な方程式を、私はつくっております。最も近代的で、最も合理的で、価値的な世界をつくっており、学会は時代の先端を行っているのです。私は学会再建当時、朝な夕な戸田前会長のそばにいましたが、それは幸福といえば、非常に幸福であり、また大変といえば、大変でありました。私は諸君には、むしろ大変でないようにしてあげたいと思っています。
 戸田前会長の偉大さは、世間では、なかなかわからなかった。最期にいたるまで批判の連続でした。私は、恩師ほど力のある人、人間的な方はいないことを、よく知っておりました。そのときの社会は、見栄っ張りの指導者ばかりで、病気でくるしんでいる人、貧乏人など、社会の日陰にいる人間を、遠ざけてしまい、そうした人たちを、本当に救おうとする人などは、一人もおらず、見向きもしなかった。戸田前会長は、ご自身の事業をしながら、日蓮大聖人の仏法によって、見栄っ張りの指導者と戦い、その不幸な人々を救っていったのです。これほど尊い偉業はないと確信します。
 会社なども、悪い人はやめさせてしまうし、かたわの人などは採用しないでしょう。本当に不幸な人々に、救いの手をさしのべもしないで、一流の指導者ぶっている人が多い。こんな不合理なことはありません。本当の指導者というのは、かたわの人であろうが、どんな人であろうが、不幸な人を、どのように守ってあげ、幸せにしていこうかを考え、実践している人です。これが真の人間性でなくてはならないし、指導者の資質であると思いますけれども、どうでしょうか。(拍手)今日は、すべて矛盾の世の中です。私は資本主義がいいとか悪いとか、あるいは共産主義、社会主義がいいとか悪いとかは、次元が違うからいいません。私は大衆福祉を根底とし、大仏法による中道主義を貫きます。相対的ではなく、絶対的な立ち場から一人一人を救っていく、無血平和革命を行なっていくものであります。ゆえに王仏冥合の戦いは流血革命や暴力的デモなどのような大衆を犠牲にする矛盾はないのです。
7  それで、当時私は“よし、もう戸田前会長と離れるわけにはいかない。そばにいつもいなければならない”と決意したのです。戸田前会長は軍部の弾圧をうけ、学会も弾圧されました。そして滅亡にしたとき、終戦になり、戸田前会長は牢を出られたのです。それから見栄も外聞も捨てて、不幸の人々を救うために戦ってこられたのです。だが戸田前会長が戦っても批判ばかり盛んで、仏法はなかなか弘まっていかなかったのです。しかし、大聖人の仏法、御書のなかには「大地を的とするなるべし」と、必ず広宣流布ができることが述べられています。
 当時の評論家の多くは、仏法を知らないにもかかわらず、この大聖人の仏法を“中世の宗教だ”と批判しておりましたが、キリスト教などは、もっと以前の宗教であり、そのキリスト教が、アメリカであろうが、欧州であろうが、西洋の文明の基盤になっております。真実の宗教、そしてまた仏法の真髄は、時代にかかわらず、永遠不滅の原理なのです。あとはその応用であり、価値創造であり、そこから花をたくさん咲かせていくのです。その「大地を的とするなるべし」という大聖人の仰せに、間違いはないと、恩師は確信しきっておられた。その恩師の確信、信心を、今度はどのように時代に生かしきっていくか、私はそれを実践してきたのです。
8  世間がなんと批判しようと、大聖人は末法の御本仏であります。釈迦、天台、伝教が厳然と、そのご出現を予言しています。またその哲理にしても、時代にかなった哲学であり、世界最高の色心不二の哲学ではありませんか。いま、唯心主義と唯物主義がみにくい藤を重ねていますが、大聖人は七百年前に、色心不二の生命哲学を根幹とすることを教示されているのです。道理のうえから、時代の趨勢から大聖人の仏法に間違いはない。それを虚妄にしてはいけない。したがって行き詰まったときには、この根幹に戻って、末法の御本仏日蓮大聖人の弟子であり、御聖訓は絶対に間違いないという大確信と情熱をもって進んでいこうではありませんか。(拍手)
 諸君は、今後、壮年になり、老年になって、広宣流布の長い旅路の指揮をとっていかなければならないし、そのさいに、この確信を、脈々とした一念の流れにしていっていただきたいのであります。(拍手)どうか諸君は、大聖人の子供であり、王子であるという誇りをもっていただきたい。そしてまた次の七年間、思う存分に、おのおのの境遇、おのおのの立ち場で、この使命を自覚して、明るく楽しく、見事な同志の団結をつくって前進してまいりましょう。(拍手)諸君の健闘、そしてまた健康を、心からお祈り申し上げて、私の挨拶といたします。(拍手)

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