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日蓮大聖人・池田大作

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岐阜地区部長会 妙法こそ飛躍の因

1967.3.3 「池田大作全集」第3巻

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1  きょうは桃の節句です。早く家に帰って、楽しい一家だんらんをしてさしあげてください。長い長い広宣流布への旅路であるし、信仰即生活という流転ですから、あせらず、着実に豊かな生活を築きつつ、信仰の実証を示していっていただきたいのです。私どもは社会の落後者になってはいけない。社会の完璧なる勝利者として根を張っていかなかったならば、自分自身の負けのみならず、法を下げ、学会の敗北の一因をつくってしまいます。その点は皆さん方も重々自覚し、また同志の全学会員の方々にも、その自覚を植えつけるようにしていっていただきたいと思うのであります。
 なお、この学会の大組織のなかで信心している私どもは、どうしても組織にとらわれ依存して、自分自身の偉大な人間革命が、若干、惰性になる恐れがあります。それを反省し、戒めるために、また皆さ方が福運と力を積むために、一加速度として、きょうは一つ申し上げておきたい。
 きょうから一年間、今年いっぱいでもけっこうです。ある人は、もう一回、自分は百万遍の題目をあげきっていこう。自分自身、一家のため、自分の組織の会員のために立ち上がり、百万遍の題目をあげようと発心してほしいのです。二百万遍でもけっこうです。その発心をし、御本尊と直結した場合には、この一年間ないし今年十か月間、偉大な成長をすることは間違いありません。惰性と慣習に流された十か月と、一つの発心をした十か月とでは、何倍、何十倍の差がついていくのです。人間ですから、スランプに陥るときもあるでしょう。また惰性に流されるときもあるでしょう。疲れて休むときもあるでしょう。それはそれでかまいません。しかし、その根底の発心の一念の強さ、これが大事なのです。
2  またある人は、自分はこの一年間、必ず御書の一ページでも半ページでも読みきっていこう。それでもいいでしょう。またある人は、五座三座の勤行を一日も欠かさないでやりきってみよう。それでもいいでしょう。ある人は、組員のうちを全部、家庭指導して回ってみよう。これも偉大なことです。またある人は、一日も仕事を休まないで、信心即生活の模範を示しきってみよう。それもいいでしょう。またある人は、自分の直面したあらゆる指導、あらゆる事件を、悔いなく、完璧に乗りきる自分になっていこう。これもいいでしょう。またある人は、自分の地区から自分の支部から何人の教学部員、何人の大幹部、人材を輩出してみよう。これでもいいでしょう。またある人は、夜は必ず十二時前に寝て、全会員を逞しい、顔色のいい、功徳にあふれた一人一人にして、一度でもいいから支部第一の、総支部第一の、または総合本部第一の折伏成果を収めてみよう。これもいいでしょう。等々、なんでもけっこうですから、三月の三日すなわち、大聖人の御書によりますと、一月の一日が“妙”であり、三月の三日は“法”の立ち場にあたる意義のある日でありますが、この日を契機にして、全国の同志、幹部に先駆けて、きょう集まった岐阜の同志、幹部の方々が、その発心の第一歩を踏み出していっていただきたいと思うのですけれども、いかがでしょうか。(拍手)
3  大聖人の御書を一節拝読します。曾谷殿御返事の最後の数行の短い御書であります。「そもそも貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目がもく其の数有りしかば今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ、此れらは末代悪世には一えんぶだい閻浮提第一の仏事にてこそ候へ、いくそばくか過去の聖霊も・うれしくをぼすらん、釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり貴辺あに世尊にあらずや、故大進阿闍梨の事なげかしく候へども此れ又法華経の流布の出来すべきいんえん因縁にてや候らんとをぼしめすべし、事事命ながらへば其の時申すべし」の一節であります。
 これは、身延の沢におられた大聖人が御僧侶方をお集めになられて、ご説法、御法要の仏事をあげられたときに、曾谷入道が鵞目すなわち御供養をさしあげ、その御礼としていただいたお手紙の一節であります。「三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば」とは、三月の法要のときに、御供養をたまわりましたとのお礼です。「今年一百よ人の人を山中にやしなひて」とは、百余の僧侶方をその御供養によって養われたとの意味です。また百余人のお弟子が大聖人のもとに集合されていたという依文にもなります。
 それで大聖人が「十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」と。したがって、一日中、法華経を読み、勤行し、そしてまた一念三千の法門の講義をしました。あなたが御供養されたその費用によって、ゆっくりと、一日中、みんなが集まって法を説くことができ、食事もすることができたという意味だと思います。しかも「山中にやしなひ」――身延の寺などとは書いていません。大聖人には、きらびやかな殿堂など、必要ないのです。本当の仏の振舞い、末法の御本仏の振舞いに、形式はないのです。そして「此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ」なのです。ここに一つの意義があります。談義する相手はわずか百余人でありながら、世界第一の儀式であると仰せなのです。
 一身一念が法界にあまねく大聖人の御振舞いであり、一念三千、依正不二の原理のうえからも、そしてまた本末究竟して、大聖人が百余人を集められ、ご説法されたというご確信の一念が、末法万年までつながっていくとの御金言とも拝すことができます。したがって、個人指導においても、ブロックの集合においても、またいかなるところにあっても、ひとたび私ともが御本尊を拝し御本尊の威光に照らされ、事の一念三千の当体として、広宣流布の指揮をとるという場合には、これは一閻浮提第一の仏事に通ずるという確信がなくてはいけない。もったいない御書の拝し方かもしれませんが、末代悪世すなわち末法現在においては、わずか一人のためであっても、十人のためでも、大聖人の正法流布のためには大聖人のご遺命達成の振舞いであるならば、これは重大な仏事であり、立派なクサビを打っていることになります。またその一つの指導が、一波が万波を生むように、偉大な活動に、力に変わっていくのだと確信していくべきであると思います。
4  「いくそばくか過去の聖霊も・うれしくをぼすらん」とは、どれほどか過去の聖霊も喜んでいることであろうか。これは曾谷入道のお父さんに対する法事も含まれているがゆえにこう仰せなのです。私どもの場合、いまこのような決意で戦ったならば、大聖人がどれほど喜んでくださるかということを確信すべきであると思います。「釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり貴辺あに世尊にあらずや」とは、この孝養とは世間法の孝養とは意味が違い、釈迦は経文のなかで、仏法をもって孝養する人といっています。したがって、仏法の、上品の孝養をする人を世尊と名づけます。その振舞いは仏である、仏と呼んでいいという意味です。と同じように、曾谷入道にも「世尊にあらずや」と仰せです。御本仏に御供養申し上げ、そして上品の親孝行をしているのですから、あなたはもう仏であり、絶対にこわすことのできない幸福境涯になっているのだ、なんの心配もなく、人生を、社会を闊歩していきなさいとの激励と拝せます。
 そこで私は、次のことをぜひとも皆さん方に申し上げておきたかった。すなわち「故大進阿闍梨の事なげかしく候へども此れ又法華経の流布の出来すべきいんえんにてや候らんとをぼしめすべし」と。大進阿闍梨という人は曾谷入道と関係があった人なのでしょう。しかし、この人も死んだわけです。だが「此れ又法華経の流布の出来すべきいんえん」であると仰せです。たとえ、どのような間違った幹部が出て退転しても、あるいは選挙に落ちたとしても、またどのような難があっても、誹謗記事があっても、さらにそれにより内部からどのように退転者が出たとしても、そのようなことを恐れることはない。すべて「此れ又法華経の流布の出来すべきいんえん」すなわち大法流布の原因と考えていきなさいと仰せなのです。
 妙法を根幹にした場合は、変毒為薬、罰即利益の原理にもとづき、どのような罰でも利益でも、すべて次の法華経の流布の原因になっていくのだと確信しなさい。また勝利の原因に変えていくのだという意味です。したがって、いかなる障魔にあおうと、強い強い信心があるならば、それが「法華経の流布の出来すべき」原因になり、それを契機に一挙に発展していくのだ、自分自身も一挙に人間革命するのだと発心、決意することが大事なのです。その原理が三大秘法の南無妙法蓮華経であると確信しなさいとの指導であります。「事事命ながらへば其の時申すべし」とは、長い目でみれば、途中でどのようなことがあろうと、仏法は道理であり、立派にその現証がわかる、実証でわかるという意味に拝せます。
5  以上、簡単な御書ではありますけれども、わずか数行をとおしても、大聖人がどれほど変毒為薬ということを強調し、強い確信で述べられているかということを知っていただきたいのです。そして今度は皆さん方が、強い信心の一念をもち、実践していっていただきたいと思うのであります。どうか、今世においては汝自身のためであるのは当然のこと、お子さんのために、お孫さんのために、この国土世間を、私どもも正法の力によって、学会の力によって、新しい幸せな国土世間にしきっていくまで、悠々と、力強く、勇気をもって進んでいっていただきたいのであります。
 私も日本全体は当然、全世界の平和と繁栄のために戦いますけれども、なかんずく皆さんのことは忘れずに、陰に陽に激励にまいります。これだけきょうは堅くお約束申し上げまして、皆さん方の勇気ある楽しい前進、繁栄を心からお祈り申し上げまして、指導にかえさせていただきます。(拍手)

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