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日蓮大聖人・池田大作

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高知・徳島幹部会 清潔な信心貫け

1966.12.11 「池田大作全集」第3巻

前後
1  「仏法と申すは勝負をさきとす」と大聖人はいわれておりますが、仏と魔と、どちらが勝かということは、一時的に見たのでは、わからない場合もあります。しかし長く見ていけば、必ず勝負は明らかであり、個人の信心にも、また和合僧である創価学会の信心にも、勝利の実証をあてはめることができます。
 かつて牧口初代会長、ならびに戸田前会長は、太平洋戦争という背景のもとで、広宣流布の戦いを断固実践なされました。それは、今日の戦いに比べ、きわめて熾烈であり、悲壮であったと感じます。当時、創価学会は国家権力により弾圧をうけ、敗北の状態にしてしまった。しかし、二年間の弾圧で、誰が勝利を得たのかと振り返ってみると、弾圧した人々は、それから数年たって、人生の落後者となり、地獄の苦悩を味わったのであります。一方、戸田前会長は、元気いっぱい学会再建に立ち上がられ、そのもとにたくさんの地涌の菩薩が集い、今日の学会の繁栄を築いております。当時、誰が見ても、その勢力といい、神道が勝ったように思ったに違いない。しかし五年、七年たつうちに、実際は正反対であったことが明らかに実証されたのであります。したがって、少し長い目で見ていくと、信心した者と反対して誹謗した者との結果は生活のうえに厳然と明らかとなります。
 昭和二十六年、戸田前会長が、創価学会第二代会長に就任された当時の情勢は、自民党、社会党の二大政党の王国でありました。当時は、この自民、社会の合い間をぬって、大きく道を切り開く政党など誕生するとは、誰人も思ってはいなかった。そして彼らは、創価学会を、さんざん罵倒し、笑していたのであります。しかし、また十数年を経た今日では、保守、革新とも、創価学会の偉大なる発展、公明党の逞しい前進に驚嘆し、今度は反対に、恐れています。これに対し、公明党は、いまや躍進の一途をたどっており、参議院議員はすでに二十人います。衆議院議員も数十人当選し、議席を得ることは間違いないでしょう。この躍進こそ世界の脅威の的であり、それ自体が大きな動執生疑であります。また大折伏であり、大国家諫暁なのであります。一方は、伸びていく集団、他方は衰微していく集団――この姿に直面して、既成政党、政治家の心の中に、複雑な苦悩が充満しております。傲慢無礼であったがゆえに、その反動として、苦悩も大きいといわざるをえません。
2  私も信心して二十年になります。その間、様々な紆余曲折もありました。そのなかで、入信当時、戸田前会長の事業が、非常に苦境にあったとき、一部の人のなかには、戸田前会長の苦難な事業を見て、創価学会ならびに恩師を批判し、嘲笑した人たちがおりました。しかし、その人たちも、あとですべてそれ以上の苦悩にあい、やっと信心で再起し、自らの言動を懺悔しております。反対に、ただ一人戸田前会長のもとに踏み止まった私は特別に力があるわけでもありませんが、皆さん方の応援によって、悠々と指揮をとってまいりました。しかし、それが今日では、もう日本の運命を決し、世界の動向を決する立ち場になっています。この姿を見て、最初会ったときは、軽視していた人々が、最近会うと、驚嘆し、あわてて過去の言動を弁明している状態であります。一年ごとに、その態度は変わってきております。結局、学会を心から尊敬し、感謝し、そして清潔な信心で広宣流布のために、尽くさなければ功徳にあふれた幸福生活を実現しえないのであります。自分自身の私利私欲の我執にとらわれて、日蓮正宗、創価学会を利用して民衆のため、地涌の菩薩として尽くしていこうとしない場合には結果がどうなるか、仏法の鏡に照らし、仏罰は厳然たるものであり、無間地獄は疑いありません。私は、このような体験を積むたびに、妙法の偉大さ、大御本尊が絶対であるとの、さらに深い確信をもってまいりました。どうか、皆さん方も、長い一生涯において仏法の正しさ、御本尊の冥益を確信しきっていただきたい。
 妙法蓮華経の大宇宙のリズムというものは、すべて厳しい因果の理法以外の何ものでもありません。したがって「陰徳あれば陽報あり」との御金言を忘れず、たとえヒノキ舞台で派手なを浴びるような活動をしなくとも、御本尊に連なる広宣流布の大目的のために戦えば、どんなに陰であろうと、そこには必ず大功徳が生ずる、すなわち陽報があることを確信していただきたい。仏法には、不公平はありません。どんな境遇にあっても、御本尊に連なった戦い、広宣流布のために自分自身に悔いのない、真剣な、まじめな戦いであるならば、福運に満ち、功徳に満つるのであります。その証拠は厳然と功徳となって現れます。どうか、この大聖人の御金言を忘れないで、勇躍歓喜して前進していこうではありませんか。
 私が申し上げたいのは、第一番目に、あくまでも信心は、一時的なものでなく一生を通じて見ていくべきであるということであります。正しい信心と誤った低級な宗教にとらわれた信心との相違は、一生涯で見ていけば、必ず現証のうえで勝負が決まるという自覚をもっていただきたい。第二番目には、清潔な信心であっていただきたいということであります。学会組織を利用したり、そしてまた破和合僧の行動をとって多くの同志に迷惑をかけ、学会を傷つけることは不潔であり、魔の働きであります。そこには絶対に功徳は生じません。あくまでも洗練された指導で、学会を清らかに永続させていこうという、令法久住の尊い精神、美しい心情のうえに立った信仰であっていただきたい。
 こうした正信の人にこそ、御本尊の功徳を享受する資格があるのであります。それを組織を利用し要領よく立ち回って名聞名利を求めるような不純な人は、無言のうちに、学会を破壊し、濁らせていく魔の眷属であります。いつか、その現証が現れ大罰をうける結果になります。これは最も気をつけなければならないことであります。「陰徳あれば陽報あり」――御本尊は平等大であり、五年、十年、二十年と、まっすぐに信心していげば、誰人の生活にもその証拠は、厳然と現れてくるのであります。現在は目立たなくとも、将来において「やっぱり、あの人の信仰は正しかった」「あの人の信仰は大聖人の御金言どおりであった」「さすがに創価学会の最高幹部であり、幹部のありかたであった」と賛嘆されることは間違いありません。決してあせることなく、その確信をもって進んでまいろうではありませんか。

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