Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

神奈川総合本部大幹部会 純真に信行貫こう

1966.12.9 「池田大作全集」第3巻

前後
1  皆さん方の毎日のご活躍に対し心から感謝いたしております。事故のないように、楽しい一日一日の前進をしていっていただきたいと思います。神奈川は本年も悔いのない戦いをしてきたと思います。皆さんから、神奈川の会員の方々に、一年間のご労苦に対し心から感謝しておりましたとお伝え願いたいと思います。(拍手)
 皆さん方はいつも成長し、福運を積んでいけるような信心の向上に努力をしていっていただきたい。所詮は、幹部に歓喜がなかったならば、どんなに後輩を指導しても感応はありません。逆に幹部に魅力があれば、後輩は、その魅力にひかれてついてくるし、自ら信心を向上させていきます。また幹部が聡明であれば「あの人のいうことは理解できる」と安心して指導を受けにくるものです。幹部が元気はつらつといつも明朗で求道心にあふれておれば、少しぐらい苦しんでいる後輩でも、しぜんに、その幹部を慕ってついてきます。結局、幹部が自らの人間革命をしていく信心を励む以外に、学会の発展はありません。
 どうか、元気で明るく聡明であっていただきたい。常に向上し成長していただきたい。そして、楽しい福運ある一家を築ききっていただきたい。そのために要望することはたくさんありますけれども、その根本は信行学をまじめに実践することに尽きます。御本尊と境智冥合し、日蓮大聖人の仰せどおりの信心に立って、まじめに行学に励むならば必ず幸せになることは間違いありません。あの雪山童子のような命がけの求道心に立ったならば、どうして現状に対する愚痴がでることがありましょうか。また、大聖人の如説修行抄の「一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦ひ頸をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこ稜鉾を以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて……」云云との御金言を実践しようという決意に立った場合には、なにが恐ろしいことがありましょうか。また大聖人のご遺命である広宣流布を確信した行動であれば、心に歓喜が湧現しないわけがないはずです。結局、御本尊の無上最大の力を確信することによって一切が決まるのであります。
2  御書に「一切の法は皆是れ仏法なり」とあり、また「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」とあります。すなわち、一切の人生、一切の人間の活動を左右する根源であるものが妙法です。この妙法の力を確信して活躍していくならば、生活にも仕事にも価値創造しきっていけるし、衆生所遊楽の境涯になっていかないわけは絶対にありません。皆さん方は、今日まで信心をしてきて、多くの福運を積み、御本尊の力を確信しています。今後もさらに、より多くの福運を積み、永遠にこわれない金剛不壊の当体を確立しきっていくのが信心の目的であります。
 したがって、せっかく福運を積んできてもここで退転したら何もなりません。それは、どんなに大きな数字があってもそれにゼロをかけるようなもので、また結局ゼロへ戻ってしまいます。これまで積んできた福運のうえに、何十倍、何千倍、何億倍の福運を積み、子孫末代のためにも、そしてまた、まだ御本尊を知らない人々を救っていくためにも、いちだんと強盛な信心に励んでいただきたいと思います。決して惰性に流されてはいけません。それを、自分はもう生活が安泰になって心配事もなくなった、学会活動は、誰かがやるだろうという風に安逸に流されてしまって、大事な信心のもう一歩、もう二歩の前進を怠るようなことがあっては人間革命を成就しきることはできません。どうか、一緒に、さらに精進をしてまいろうではありませんか。(拍手)
 神奈川は学会にあって非常に大事な拠点であります。かの三国志において、曹操の「魏の国」と劉備玄徳の「蜀の国」とが戦っているときに、第三勢力として勃興しておったのは呉の孫権です。神奈川を第三勢力などと呼ぶつもりはありませんが、いま創価学会において、東京と関西に次ぐ大事な拠点であります。なかんずく東京の隣にあって大きな力を示し、東京を守ったり、東京をリードしたりしている本部が神奈川であることを自覚していただきたい。
 次に御書の一節を引用して、信心指導にかえたいと思います。諫暁八幡抄のなかに、次のような一節があります。「法華経の第四に云く「仏滅度の後能く其の義を解せんは是れ諸の天人世間の眼なり」等云云、日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天・世間の眼にあらずや、眼には五あり所謂・肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の五眼は法華経より出生せさせ給う故に普賢経に云く「此の方等経ほうどうきょうは是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五眼を具する事を得給う」等云云、此の方等経ほうどうきょうと申すは法華経を申すなり、又此の経に云く「人天の福田・応供の中の最なり」等云云、此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼・二乗・菩薩の眼・諸仏の御眼なり、而るに法華経の行者を怨む人は人天の眼をくじる者なり、其の人を罰せざる守護神は一切の人天の眼をくじる者を結構し給う神なり」と、この御金言を拝して、されに私どもの戦いに対する確信を深めたいと思います。
3  まず、法華経の第四の巻とは宝塔品です。「仏滅度の後能く其の義を解せん」の“其の義”とは法華経の義であり、末法今時においては三大秘法の御本尊であります。次に「是れ諸の天人世間の眼なり」のなかな、天人の“天”とは上流階層、“人”とは一般大衆、したがって“天人”で全大衆を意味するといえます。よって、以上の一節の意味は、三大秘法の御本尊を根本に信行学を実践しきった者が、全大衆の眼、すなわち指導者であり、指導者にならなくてはならないと拝するわけであります。
 「日蓮が法華経の肝心たる題目を」――ここは種脱相対です。法華経の肝心とは“末法の法華経”すなわち三大秘法の御本尊になります。日蓮大聖人がその肝心たる妙法を「日本国に弘通し候は諸天・世間の眼にあらずや」と仰せのように、大聖人は全民衆の大導師であられます。ゆえに大確信をもって、大聖人以外に日本の国の柱、日本の国の眼目、そして大船はないと断言できます。「眼には五あり所謂・肉眼・慧眼・法眼・仏眼なり」――これは、一念三千の法理のうえから、妙法の力によって、われわれの全生命が、事の一念三千の当体として、最高の活動がなされ、その原理によって、指導者としての力を発揮しきっていくことができるという意味であります。
 「此の五眼は法華経より出生せさせ給う」――詮ずるところは「五眼」といっても法華経より出生したものであり、全部御本尊に備わっており、御本尊を信じまいらせた場合には、最も人間らしく、平凡でありながら最も幸福な道を歩んでいけるのであります。また正しい人生観、社会観、世界観をもち大宇宙のリズムに合致した生命活動になっていくのです。法眼・眼だからといって、遠方を透視することができたり、俗にいう神通力が出せるとか、そういうことでは決してありません。また、泥棒やスリが、他人にわからない金の所在をつきとめる動物的な鋭い眼をもっているのは、眼・法眼とは違います。これは邪眼です。(笑い)
 「故に普賢経に云く『此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五眼を具する事を得給う』等云云、此の方等経と申すは法華経を申すなり」――「諸仏」といっても、全部この方等経(法華経)から出たものであります。「諸仏の眼」すなわち、正しい人生観、社会観、宇宙観は、全部法華経に説かれており、法華経によって、諸仏は仏になることができたという意味です。したがって三世十方の諸仏は、全部南無妙法蓮華経を唱えることによって仏身を得たのであります。このゆえに、妙法こそ永遠不滅の大哲理であると断言できるのです。
4  「又此の経に云く『人天の福田・応供の中の最なり』等云云」――人天とは大衆、福田とはその大衆に幸福を与えきることであり、応供とは仏の十号の一つで、人天の供養をうける資格があることをいい、仏の徳をたたえた言葉であります。今日でいえば、大衆を幸福にできる正法を持った人を指すのであります。すなわち別しては末法の御本尊であります。「此等の経文のごとくば妙法蓮華経は……」――ここで妙法蓮華経とは大聖人の法華経であり三大秘法であります。「人天の眼・二乗・菩薩の眼・諸仏の御眼なり」――さきほどの、法華経第四の巻では、天人世間の眼までで終わっています。大聖人の御観心釈においては、二乗、すなわち、いかなる大学者、評論家、科学者、教育者たりとも、三大秘法の御本尊を受持せずして、真実の指導はできないというご断言なのであります。また菩薩といえども、仏といえども、三大秘法の御本尊を眼にしなかってなら、同じく指導はできないのであります。「而るに法華経の行者を怨む人」――総じてわれわれは、末法の法華経の行者であり、法華経の実践者であります。別しては日蓮大聖人が法華経の行者であり実践者であります。誰がなんといおうとも、現在、人類三十億のなかで、私どものみが、あらゆる悪口雑言、笑、批判を浴びながら、大聖人の御金言どおりに、純粋に活動し実践しているではありませんか。これはわれわれが法華経の行者であるという証拠であります。
 「法華経の行者を怨む人は人天の眼をくじる者なり、其の人を罰せざる守護神は一切の人天の眼をくじる者を結構し給う神なり」――われわれを批判しまた迫害する者を罰しないような守護神は、一切の人天の眼をえぐる謗法の者を守る神であるとの意であります。大聖人の弟子檀、すなわち、大聖人のご遺命のために前進している創価学会員を必ず諸天善神が守る、もし守らない諸天善神があったとすれば、それは大衆の眼をえぐるような悪鬼魔神であるとの御文であります。したがって、皆さん方も、強い確信と、深い自身をもって、御本尊に題目を心豊かに、声高らかに唱えて、師子王のごとく指揮をとっていただきたいのであります。(拍手)
5  なお、大聖人は曾谷殿御返事の一節に「しかるに日蓮が一るいいかなる過去の宿しうにや法華経の題目のだんな檀那となり給うらん、是をもつてをぼしめせ今梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩・日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎ神祇は過去の輪陀王のごとし、白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし」とあります。
 「しかるに日蓮が一るい」――大聖人の正統学派、すなわち日蓮正宗の信者、創価学会員のことであります。「いかなる過去の宿しうにや」――「宿しう」は、現在「しゅくじゅう」と発音しています。通俗的な言葉でいえば、因縁によってということであります。「法華経の題目のだんなとなり給うらん」――どういう深いつながりによって、三大秘法の御本尊を受持し大聖人の弟子となることができたのであろうか。
 今日、創価学会員となり大聖人の弟子になったということは、測り知れない大福運なのであり、宿縁深厚なるを自覚すべきであります。ましてや日蓮正宗が、太陽の昇るごとくに栄えていくときに信心できえたということは、仏縁の深さを感ぜずにはおられません。
 米国の大統領も、日本の首相も、大変、多難な正月を迎えようとしております。また、いくら財産や地位があってもその人なりの悩みはあります。そのなかにあって、われわれは自分自身の力で、正しい宗教によって人々を救いながら、福運にみちたうるおいのある、自分らしい幸福な新年を迎えていくことができます。これこそ何の権力にもよらぬ無冠の帝王といえましょう。自分で働いて自分で人々に貢献して、正しい仏法のために活躍して栄えていく、これこそ最高の人生ではありませんか。(拍手)
6  「是をもってをぼしめせ今梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩」――ここに真実の神のことが書かれております。「日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは」――「じんぎ」というのは、天神と地神のことで、当時、三千一百三十二の神社があったわけであります。
 「過去の輪陀王のごとし」――この故事は、簡単に申し上げますと、白鳥の姿を見ると白馬がいななき、それによって輪陀王が生命力を増したという物語りであります。すなわち、この故事にたとえて、「白馬は日蓮なり」と、大聖人は白馬の立ち場であり、神々は大聖人の南無妙法蓮華経によって力を得て活躍する用の立ち場、すなわち「輪陀王」であるとの仰せであります。「白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき」――ここは大事なところです。結局、白馬のなくのは、南無妙法蓮華経を唱えることで、白鳥はわれわれ学会員です。われわれの強盛な信心、すなわち真剣な題目と祈りがあって、初めて梵天・帝釈・日天・月天・四天王等の諸天善神が色を増し光りを盛んにし、大活躍をするとの仰せであります。
 したがって、梵天・帝釈にしっかり守護をさせていくのも、一家の安泰を築いていくのも、わが身の生命力を増していくのも、大宇宙のリズムに合致し、無量の功徳を積んでいくのも、すべて自分自身の信心によるものであります。御本尊に直結していく純粋な信心が、一切の福運を積み人間革命を成就せしめてゆく肝要であります。要するに、諸天善神を駆使するかしないかは、われわれの信心によるのであります。「いかでか我等を守護し給はざるべきと」――どうしてわれわれを守護しないわけがあろうか。「つよづよと・をぼしめすべし」――絶対に確信しなさいとの意であります。世間の縁に紛動されたり、新聞や雑誌に載った学会誹謗の記事に紛動されるような、弱々しい信心であっては絶対になりません。
 「つよづよと・をぼしめすべし」と仰せのように、強い強い確信をもって信心即生活の戦いをしきっていけば、必ず人生、社会の勝利者となれるし、またわが学会に勝利がないわけは絶対にないと確信します。さらに梵天・帝釈とは、現代では為政者とか会社の社長等々、社会的に重要な地位にある人たちにあたるのであります。すなわち、われわれの信心が強盛であり、確信にあふれて実践してゆくならば、必ずそれら社会の指導的立ち場にある人たちが創価学会を守り、協力する働きをするという原理を示されているのであります。どうか皆さん方はそれだけの確信をもった幹部になっていただきたい。(拍手)
7  かつて、学会のことを軍隊的であるとか、ファッショであるとか騒いだ新聞や雑誌がありました。しかし、最近では、外国の一流新聞の特派員などがかなり学会本部にまいりますけれども、学会に対する評価は大きく変わってきております。そして、調査研究をすればするほど、創価学会、公明党の正しさが理解でき、いままでは、ずいぶん無認識の評価をしてしまったことを認めている現状であります。日本国内の学会に対する評価もだんだん変わってきていることは、よくご存知のことと思います。このように時代は変わり人の心は必ず変わるものであります。
 結局は正しいものを正しいと認めていくのが民衆の心であるし、そしてまた、それが民主主義の当然の帰趨するところであります。しかし油断はできません。ある哲人も「本当に勝ってこそ正義であるということが実証される。勝たなければ、いくら正義といってもそれは言葉だけであり、観念論であり、誰人も正義とは実証できない」ということを論じております。
 今回の私どもの王仏冥合の戦いも、正義の戦いであることは、文証、理証、現証に照らし、また、世の動向からみて間違いのない事実であります。だがそれが正義の戦いであることを、より正しくより深くより広く全大衆に理解させていくためには、勝利の証拠をもって示さなくてはなりません。あとは、常識豊かに、いつも朗らかに、伸びのびと進んでください。また、心身ともにすっきりとした誰からもうらやましがられる姿で戦っていっていただきたい。学会は美しい団結の世界の前進でありますから、小さな感情、偏狭な心を捨てて、太平洋のごとく広々とした境涯をもって、日蓮大聖人の御金言の万分の一でも実践しきってゆこうという、信心の眼を開いた活躍であっていただきたい。(拍手)
 なお、衆院選に勝利を博せば、いままでとは違った次元における批判が、学会に対してあるかもしれません。また世界中が、いちだんと注目することになるでありましょう。そのときには、学会一千万人が、創価学会の理念、公明党の政策、王仏冥合の根本的な目標、大衆福祉等々をよく理解し、大評論家になっていけば、全世界の間違った認識、批判、記録を、全部直してゆけるのであります。すでに学会は、それだけの力を有しています。
 そのことをしっかり自覚して、どんな中傷をされても一千万人の評論家が生きた証人であります。国内にも海外にもどこへ行っても同志は大勢おります。団結し、全体が一丸になっていけば十年先、二十年先は、誰人もとどめることのできない新時代の潮流として大きく世界を変えていくことは間違いありません。これからさらに確信をもって、大聖人の立正安国の大精神を人々に理解せしめていくために勉強をし、実践もする努力は怠らないようにしたいと思います。皆さん方がよいお正月をお迎えになるよう心から祈るしだいです。

1
1