Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

在京幹部会 信心強固に進もう

1966.12.7 「池田大作全集」第3巻

前後
1  毎日、大変にご苦労さまでございます。私は、皆さん方の真剣な、広宣流布達成のための努力を心から尊く思っております。現在の戦いは、日蓮大聖人のご遺命実現のための戦いであり、同時に自分自身の一生成仏のための勇敢なる実践でもあります。そう考えたとき、私は心から感謝申し上げるものであります。しかし、私がいくら皆さん方をほめてみてもしかたがない。大御本尊が一切、照覧されていることを確信していただきたい。また厳然たる因果の理法を信じていただきたい。
 私どもは、この末法濁悪の社会で、正義の法旗を高らかに掲げて戦っているのです。日蓮大聖人の子供であり弟子である私どもを、どうして三世十方の仏菩薩が守護しないわけがありましょうか。この強い決心に立たなければなりません。寝不足にならないように、いつも快調に、明朗闊達なる指導をとっていただきたい。将が疲れてしまったときには、知恵のある、力のある指揮はとれなくなってしまいます。毎日をリズム正しく、信心即生活のあり方を、考えながら進んでいっていただきたいと思います。戦いはまだまだこれからです。疲労のために敗因をつくってはならないし、事故を起こしてはいけません。
 なお、聖教新聞、公明新聞、大白蓮華、その他一般の雑誌等も、余裕をもって読んでいける行き方であっていただきたい。そうでなければいつも同じような内容の話に終始してしまい、新鮮さを失って人々をリードしていくことができなくなってしまいます。自分自身が王仏冥合の理念、政策を十分咀嚼しきったうえで、悠々たる指揮をとっていただきたい。ますます順縁広布の機熟した今日、常識豊かに、聡明な行き方を、皆さん方が身をもって示し、後輩のために共に細かいところまでよく考えて指導していっていただきたいと思います。しかし指導の根幹はあくまでも信心です。それも、具体的な指導、具体的な方針を明示しないで、ただ信心、信心と口だけでいっているのでは、戦いは進みませんし、組織はカラ回りするばかりです。そのようなときは自分自身もカラ回りしていることに気がつかなくてはなりません。
2  日蓮大聖人は四条金吾殿御返事のなかで、摩訶止観第八および弘決第八の文を引かれて「「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云、神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候、法華経はよきつるぎなれども・つかう人によりて物をきり候か」と仰せになっております。「必ず心の固きに仮って」とは信心強固の意味であります。この心は唯心論の心ではなくして、一念三千の一念という意味であります。信心が強固であることによって「神の守り則ち強し」です。諸天善神の守りがそれに相応して強いということです。
 諸天善神の守りが強いとは具体的にどういうことか。それは今日、創価学会の正しさ、日蓮大聖人の仏法の偉大さを知る人、また公明党の支持者が刻々とふえてきていることをさします。信心が強いゆえに私どもの仏法流布、民衆救済への努力が現証になって現れてきているのであります。信心さえ強ければ、順縁広布の上げ潮の時代に変えていくことができるのです。したがって今後も戦いに臨んでは、ますます信心強固でなければなりません。これは、とりもなおさず“一切の法は皆是れ仏法”の原理で、創価学会のあらゆる活動が人々の胸を打ち感銘を呼び、しぜんに諸天善神が、われわれを守り広宣流布の手伝いをするとの依文であります。この確信を忘れないでいくべきであります。
 「神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」――諸天善神が守るか守らないか、社会の人々が私どものがわにつくつかないかは、すべて心の強きによる。すなわち、正しい強い信心があるとき、神が守るということになります。これは依正不二の原理からいっても当然です。「法華経はよきつるぎなれども」――もったいなくも御本尊を剣にたとえて申されたのです。三大秘法の南無妙法蓮華経、すなわち末法の法華経即御本尊はよき剣であります。「つかう人によりて物をきり候か」――法華経の剣をつかう人によって、教育界においても、政界においても、文化界においても、最高度に価値創造することができるとの御教示であります。
 反対に御本尊を持っていてもその人に信心がなければ無価値です。否、日蓮大聖人の仰せどおりの強固な、純粋な信心がなければ大謗法になってしまいます。せっかく人々が御本尊に近づいていこう、恒久平和実現のために日蓮大聖人の理念に賛同していこうと思っているのに、かえってそれらの人々を遠ざけてしまう。これは恐ろしいことだ、との意味であります。また「法華経の御信心強盛なれば大難も・かねて消え候か」共仰せであります。法華経の信心が強盛であるならば、いかなる大難もしぜんに消していってしまうのです。
3  かつて、創価学会に対して、暴力団をもっておどそうとしたある保守党の有名な代議士がいました。しかし不思議なことに、その人物は、現在では最も不遇な立ち場で、寂しく暮らさざるをえない状態になってしまいました。また、ある財界人は、創価学会はやれ右に行くであろうとか、左に行くであろうとか嘲笑しておりました。その人も今日では「創価学会が成長する以外に、もはや日本の安泰はない、過去のことは申しわけなかった」と心からわびております。また、やはり保守党の大実力者で、創価学会がファッショになるのではないかと批判しておった人ですが、今日では「えらい勘違いをしていた。皆さん方のいうことを聞かないと、保守党は自滅を待つばかりである」といって頭をさげざるをえない立ち場に変わっています。
 これまで創価学会を迫害しようとした人々は、全部といってよいくらい牢にはいっております。信心の強さ――これほど偉大なものはありません。選挙の戦いも一つの大難といえるでしょうし、その他、広宣流布の前途に立ちはだかる壁も大難といえるでしょう。しかし「法華経の信心強盛なれば大難も・かねて消え候か」です。全部消すことができ、変毒為薬することができます。この強い確信だけは、皆さん方はもたなくてはいけません。
4  私は来年の五月三日で、会長就任満七年を迎えることになります。今日まで順調に広布への戦いを推進してこられたのも、ひとえに皆さん方のおかげであります。創価学会が立ち上がって戦後二十年、想像を絶する幾多の難がありました。しかし私どもは、それらをすべて悠々と乗りきってきました。そのときに退転した人は、みんないまになって悔いています。一度は地獄の苦しみに落ちて、心から悔い、再び信心に立ち上がってきております。今日では大難といえるほどの大難はありませんが、戦いはまだこれからです。強盛な信心、強盛な祈り、この日蓮大聖人の短い御金言の一節をば、胸の中に刻み込んで前進していっていただきたいのであります。
 創価学会を誹謗し、笑し、批判した人々は全部仏罰をこうむっております。みんな頂点から落ち、境遇が悪くなり、苦しんでいます。これは厳然たる事実です。これからもそういう人たちが出るかもしれませんが、悠々と見おろしていきなさい。日蓮大聖人は閻浮提第一の仏さまではありませんか。日蓮大聖人以外に、永遠に人々を救いきる哲学を残された人はおりません。どんな有名人であろうが、学者であろうが、日蓮大聖人からみれば、すべて子供みたいなものです。その幼稚な批判の言葉に、日蓮大聖人の真実の正統学派であり、生命哲学の奥底までを勉強して、信行学を実践している私どもが、紛動されたりこわがっていたらどうしますか。そんな人は日蓮大聖人の弟子ではありません。いかなることがあろうとも卑怯者になってはいけません。
 王仏冥合の総仕上げの最も大事な法戦に臨んで、幹部の皆さん方は「私は悔いのない戦いをやった。それは御本尊に誓って間違いない」といえる戦いをしてまいろうではありませんか。(拍手)

1
1