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日蓮大聖人・池田大作

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夏季講習会、高等部・中等部・少年部合同… 鳳雛よ君らこそ学会の跡継ぎ

1966.8.11 「池田大作全集」第3巻

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1  高等部十万人を代表して、今回の講習会に参加した諸君を、私は心から持っておりました。(拍手)最初に松野殿御返事の講義をいたします。
 「とても此の身はいたずらに山野の土と成るべし・惜みても何かせん惜むとも惜みとぐべからず・人久しといえども百年には過ず・其の間の事は但一睡の夢ぞかし、受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし、迹門には「我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」ととき・本門には「自ら身命を惜まず」ととき・涅槃経には「身は軽く法は重し身を死して法を弘む」と見えたり
 「とても此の身は徒に山野の土と成るべし」とは、この生命は詮ずるところは、山野の土と化す。すなわち誰人たりとも、死んで墓の中に埋葬される、すなわち土中に埋葬されるのです。「惜しみても何かせん惜むとも惜みとぐべからず」とは、その生命をどれほど惜んだとしても、惜しみきれるものではない。「人久しといえども百年には過ず」――いかに長寿であったとしても、百歳以上はそう生きられるものではない。「其の間の事は但一陲の夢ぞかし」――その百年間の人生といえども、結局は、ただ一陲の夢のようなものです。
 いくら資産家になり、百千万、幾十億の財産を持ったとしても、それを来世に持って行くことはできない。たとえいかなる有名人、社会的には高い知名人になったとしても、地獄に落ちたならば、その生命は、地獄という現実の苦しみであって、過去に人々から賛嘆されたことなど、一場の夢にすぎない。そのような人生より、はるかにすぐれた永遠の幸福という財産、財宝は何かと考えなければならない。それはただ一つ、三大秘法の御本尊に題目をあげ、折伏をしきった者の会得する境涯こそが、永久の財宝であることを、皆さん方は胸に刻んでいただきたいのであります。(大拍手)
 「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も」とは、人間に生まれてくることは、非常にまれなことであるが、福運あって人間として生まれることができた。同じ生命でも、動物として生まれる場合もあり、草木として出生する場合もあります。動物やヘビやカエルであったならば、題目を唱えることはできない。広宣流布を目指して進むこともできない。本当の人生の楽しみは望めません。民衆救済も社会に対する貢献もできない。しかし、私どもは宿縁あって最高に社会のために、令法久住のために、自分自身の所願満足のために、幸せになっていくために、人間としてこの世に生まれてきたわけであります。
 その人生をムダにしてはいけない。アッというまにに一生は過ぎてしまう。その尊い人生のなかでも、諸君は青年です。ある富豪のいわく「自分を、もしか、もう一度青年にしてくれるならば、自分の一切の財宝をあげてもいい」と。その青年のなかでも、われわれは永遠の生命を感得するために、根底から日本の安定、社会の繁栄、世界の平和を建設するために、共に自分自身の有意義な人生観を確立するために、仏法の真髄たる三大秘法の御本尊を持つことができたのです。これ以上の青年時代はなく、これ以上の人生は断じてないのです。
 「適ま出家せる者も」とは、一往は僧、再往は私ども御本尊を受持した地涌の菩薩と拝すべきです。「仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」と仰せであります。大聖人の仰せどおりに実践もせず求道心もない、すなわち自分自身が広宣流布のために、大聖人の真の子供であり、弟子であると自覚して成長しないで、不良になって、親不幸して遊んでばかりいるのでは、すべて遊戯雑談の類です。諸君以外の青年は、過半数がそうなってしまっており、まことに可愛想なことです。まして御本尊を持っていながら、そうなる人々は「法師の皮を著たる畜生なり」と仰せのように、悪人であると断定あそばされているのであります。
 諸君の立ち場で読むならば、大聖人が、あくまでも、生涯この大仏法を胸に刻んで人生を生きなさい、信心を根本として学業に励み、青春時代を歩みなさい、等々、指導されているところであり、これが大聖人の私どもに対する大慈悲の叱咤であります。
 したがって遊戯雑談に明け暮れて、まことの信心、求道心を忘れ、十年先、二十年先に自分が哀れな姿にならないためにも、一人一人が成長していただきたいと、私は心から願うのであります。(大拍手)世の中が無責任時代、太平ムードであるがゆえに、いたずらに遊び明かしている青年もいます。諸君に対して、尊敬せず、ふざけ半分に、批判している青少年もいるかもしれない。だが、因果の理法は厳然として厳しいのであります。十年先、二十年先に、まじめに信心した人と彼らの間に、どれほどの差がついたかということを、明確に事実をもって示しきっていっていただきたいのであります。(大拍手)
2  「迹門には『我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ』ととき・本門には『自ら身命を惜まず』ととき・涅槃経には『身は軽く法は重し身を死して法を弘む』と見えたり」――本門にも迹門も、また涅槃経にも身命を捨てて法を弘めなさいと説かれています。すなわち、求道精神の真髄を述べられているのであります。かのフランス百年戦争のときに、祖国フランスを救ったのは、一七歳の少女ジャンヌ・ダークであります。また、キリスト教を守るために、かの島原の乱で、三万八千人の同志、信者を統率して、幕府軍と勇ましく戦ったのは、弱冠十六歳の天草四郎です。諸君の年齢と同じです。かのジャンヌ・ダークにしても、天草四郎にしても、外道であっても、その主義主張のためには、法のためには、正義のためには、「身命を愛せず」――命を捨てています。これらの人たちは偉いといえば偉い。だが、一種の通力をもって、無知な人々を動かした。結局は悲惨な末路であった。一人は、はりつけになり、一人は火に焼かれています。その人々の人生の最後は残酷であり、悲惨です。
 しかし、大聖人の仏法は五重の相対すなわち内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対して究め尽くしたところの哲学の最高峰であります。まさしく三大秘法の仏法は、仏法の根本、究極中の究極、本懐中の本懐であり、無上道であります。無上道とは、有上道に対していう言葉であり、これ以上の哲学はない、これ以上の悟りの法はないということであります。諸君の場合には、近代青年として、大仏法を根底に、世界のあらゆる知識を全部生かしきって社会に貢献し、あらゆる階層の人々を救済し、ひいては社会の繁栄をもたらす偉大なる宗教革命を成し遂げる、近代的な若武者であっていただきたいのであります。(大拍手)
 「本門には『自ら身命を惜しまず』ととき」――最高の生命哲学をもち、最高の大目的をもって、社会のため、人生のため、大聖人の仏法流布のために、実践しきっていきなさいとの指導であります。創価学会に、絶対に迷惑をかけない。むしろ創価学会を守り抜いていく。たとえ乞食になるとも、法華経に傷をつけてはならない。自分の一切の振舞いは、全部、広宣流布に、創価学会の発展につながっている行動であることを自覚していただきたい。このように成長していける人が、大聖人のまことの弟子であり、創価学会の高等部の、真実の前進の姿であると私は訴えたい。(拍手)信心していても口で本門をとなえながら、心では、爾前・迹門という小目的、偏狭な考えをいだいているようではいけません。私は、諸君さえしっかりしてくだされば、それでいいのです。
 「涅槃経には『身は軽く法は重し身を死して法を弘む』と見えたり」――最も大事なことは、御本尊であり、大法流布であります。ゆえに諸君の成長が御本尊の賛嘆につながり、大法流布につながるのです。諸君の行動が、社会の人々の賛嘆するところとなり、認識を改めさせてゆくことになるのです。
 この高等部の最高幹部の会合において、高等部の諸君のために、将来の指針として何点かの指導を申しあげます。
3  一、第一番目に、諸君は日蓮大聖人の真の子供であり、わが創価学会の跡継ぎであります。その誇りを絶対忘れないで、前進していっていただきたい。(拍手)私も、諸君が、成長して、社会に巣立っていくまで、なんとか戦い道を開いていきます。また、それまでは長生きするようにして、あとは全部、諸君たちにバトンタッチをする決意です。ほかではない、諸君のために勇ましく戦います。どうか諸君は、創価学会の跡継ぎなのだという自覚で、世界にただ一つの、この清らかな学会に生き、そして末法万年尽未来際の衆生を救済し、恒久平和をつくる使命に立って前進していただきたい。
 したがって、現在はあくまでも勉強第一に進んでいきなさい。(拍手)そして、特に男子は、できれば全員、大学に進学するよう努力しなさい。勉強こそが諸君の本分であり、使命であると自覚してしかなければならない。勉強の世界で実力を向上させていくことが勝利の獲得に通じます。それが諸君学生の信心即生活の実証であります。
 明治以来、今日にいたるまでの、日本のあらゆる階層の指導者は、東大出身者が過半数であります。先日、女子部のキャンプ・ファイヤーのときに“一高寮歌”を大勢で歌いました。しかし、その“一高寮歌”の心意気は、現在の東大生には、残念ながらあるとは思えない。「一度起たば何事か人生の偉業成らざらん」との気概は、どこへいったのか。もはやその青年の実体はなく、歌だけが面影を残しているにすぎません。諸君は、まだ創価学会が完成していないので、いままでの大学に行く以外には方法がない。(笑い)どの大学に行くのも自由です。東大にも大勢受験していただきたい。その他優秀な大学にも、どんどん入学して全員が、かつての東大の卒業生が、あらゆる階層のポジションにはいって日本のキャスチングボードを握ったごとく、否それ以上に、信心をもった東大生、信心をもった東北大生、信心をもった慶応大生等々が、やがて新しい指導体制を整え、広宣流布のために、布石として活躍していっていただきたいのであります。(大拍手)
 最近の大学生の、しごき事件が問題になった。(笑い)気の毒なかぎりです。また大学生の中で応援団のケンカ、不良、盗人、また結婚の文書詐欺と(笑い)あまりに暗い事件が多い。そのようなことは、本来、学校で教えているわけではない。(笑い)教育の行き詰まりです。現在の大学は、この高等部または学生部の成長があって、初めて根本的にその本義に立ち返り生かされると思う。
 諸君は、まず題目をしっかり唱えていきなさい。題目には、諸君が勉強し、長い人生を戦っていくうえの最高の推進力です。これだけは間違いありません。どんなに勉強その他で忙しかろうが、題目だけは唱えていかなければ人生を勝利に導くことはできない。たとえ勉強偏重で東大へ入学したとしても、信心がなくなって、ノイローゼになったり、性格異常になったとしたら、なんの役にも立ちません。題目をしっかり唱えて、そのうえに立って勉強はできるだけすべきです。青年時代は、どんなに研鑽しても、これでよいということはない。勉強しておけば、おくほど、一生の基盤を確立したことになります。しなければ、それだけ将来、自分自身が損をし苦しまなければならない。
4  二、次に申し上げたいことは、求道心を旺盛に持てということであります。そのためにもよく先輩の指導をうけるべきです。自分一人で苦しんでいることは愚かです。青春時代は悩みが多い。しかし、仏法に透徹して、その観点から見るならば、私どもは全部、大聖人の子供として、末法に大白法を弘通するためあらゆる姿で出てきたのであり、それぞれに使命があるのです。御本尊に照らされてみれば、信心している同志は全部、兄弟であり、姉妹です。どんなことでも話し合えなくてはならない。虚栄の世界でもない。見栄っ張りの世界でもない。本当の心の奥底を語り合い、解決していくための仏法の世界です。これが学会の姿であります。したがって、先輩、そしてまた同志には、親にも相談できないようなことでも、なんでも話合って、指導どおり実践し、一つ一つ勇敢に戦って宿命打破をしきっていただきたいのであります。(拍手)
 ここでひとこと注意申し上げたいことは、学会の世界は平等の世界です。大幹部の子弟だからといって特別と考えたり差別をつけるようなことをしたら大いなる誤りであります。学会はあくまでも人材主義でいかなければならない。そうでなければかえって本人も可愛想であるし、学会の伝統も崩れてしまいます。皆が平等に先輩の指導もうけ、成長していかなければいけません。
 各部の最高幹部には、私が参謀本部当時から、今日を見通して手塩にかけて着実に訓練し、指導し、また信頼してきた人々を配置しております。また、今後もそのようにしてまいります。したがって、私が直接的に諸君といつも接近するわけにいきませんが、安心して指導をうけ、そのとおり実践していただきたい。せっかく指導をうけながら、実践しなければカラ回りしてしまう。そして日々、着実に信心のうえで、まずがっちりと基盤を確立していただきたい。勉強で忙しいときなどは、少しぐらい勤行も方便品、自我偈でいいのですし、(笑い)お題目も二百遍、三百遍でもかまいません。(笑い)その基盤のうえに、勉学に励んで、悔いのない、リズム正しい高等部の時代を送っていただきたいのであります。(大拍手)
5  三、次に申し上げたいことは、親に心配をかけてはならないということです。戸田前会長も、常に「親孝行をしない者は私の弟子ではない」と申されておりました。親不幸の者が、将来の立派な指導者になれるわけがありません。特に母親だけの人は、どうか、母親を大事にしてあげてほしい。そして、題目をあげ、勉強して、なにも心配かけないで、うんと偉くなって、最大の親孝行をしてあげていただきたいのであります。
 両親がそろっていない子供は可愛想だ。けれども不遇ななかから、逆境に負けないところから真の偉大な人物が出るものであります。その半面、非常に社会が悪いがゆえに、縁に粉動され、悪に引きずられて、不良化していくことも多い。そうした子をもつ母親の嘆きは、大変です。私も、いままで何人か、そうした母親と会っております。皆さん方は、将来、片親がいない嘆きをもった高等部員のためにも、立派な模範をつくっていただきたいのであります。(大拍手)
 そのためには、信心に励むことが、最高の親孝行です。信心しきっていけば、悪い、間違った方向へ進むわけがない。信心することそれ自体が、最高の親孝行になるのです。だからといって、信心を理由にわがままであっては決してなりません。細かいことでもなすべきことを、きちんとすることも大事な親孝行の一分であります。
6  四、次に申し上げたいことは、教学をしっかり身につけていただきたいことです。若い時代に、教学を身につけていれば、一生涯忘れません。学校で勉強することは、知識をうるためです。知識の目的は知恵を引き出すことにあるのです。大聖人の仏法は、知恵それ自体です。したがって、即座に使っていける知恵なのです。その意味において、御書を勉強し、教学力をつけていくことが大事であります。
 高等部員でまだ教学部員でない人は、教学部員になるために努力し、特に、高等部の幹部は助教授、教授補となり、教授になるまでしっかり勉強していただきたい。それが、また学校の勉強をしていく推進力になるのです。御書を勉強したから、学校の勉強が遅れたということはありえない。それを、学校の勉強が遅れるのではないかと、臆病になってしまえば、その一念で遅れてしまう。知恵は、知識を動かしていく力です。知識は、知恵を高めるためのものでなくてはならない。それを繰り返していくことが、正しい知識階層のあり方なのであります。
 御書は末法の経文です。教学力がないと、信心は行き詰まったときに退転してしまう。学会再建にあたって、戸田前会長は、最も教学に力を入れました。その理由は、戦争中、国家権力の弾圧で、二十数人の大幹部が牢でほとんどが退転してしまった。その原因は教学がなかったからです。教学力さえあれば、このような弾圧をうけるのも、御書の経文どおりになっているのだと確信できるのです。また、教学力がないゆえに、できるはずの友人の折伏もできなくなってしまった。結局、教学こそが、信心を向上させる推進力なのです。
 しかし、諸君の場合、毎日毎日、御書を拝読するというわけにはいかない。教学の行事や会合があるとき、御書をきちんと勉強しておけば、しぜんと身についていきます。私も、諸君の代表の人と、毎月一回、勉強しあっています。高等部員全員と一緒に勉強するというわけにもいかない。したがって皆さん方は、力のある先輩に講義を聞く機会をできるだけつくり、そして、いま基礎的な教学力を身につけていただきたい。
 基礎教学は、非常に大事です。大聖人の仏法は厳密であり、科学的ですから、基礎ができていないと、わからなくなってしまう場合があります。反対に、基礎ができていると、全部積み重ねていけるのです。ただし、高校三年生で、受験で忙しい人はしっかり受験勉強と取り組んでいきなさい。
7  五、次に申し上げたいことは、高等部の代表によって「鳳凰会」「鳳凰グループ」を結成しました。人数が限られていますから、全体としては不公平になるかもしれない。だが代表ということは、全員に通ずるということであります。その「鳳凰会」「鳳凰グループ」の目的は、高等部の目的と同じであります。諸君たちが次代の学会の骨髄となることを決めたい、そしてバトンタッチしていきたい。そのためにも、高等部の代表の人からいろいろなことを知っておきたいし、伝えておきたい。この意味で結成したのであります。諸君が、大きく学会の首脳として活躍する時は、学会の世帯数も実質一千万世帯を突破しているでありましょう。そうなれば学会即社会、即また日本であります。その時に思う存分働いてもらいたい。
 ただし、この席を借りて注意しておきたいことは、第四代の会長も、第五代も、これは一人です。諸君は、会長になろうなどという気持ちをもってはならない。なぜかならば、会長という役職を全員が目的にすることは、あまりにも愚かです。あくまでも、会長というのはご仏意なのです。なりたくてもなれない、なりたくなくても、ならねばならない宿命なのです。
 大事なことは、その一人の会長を中心として、全員が会長と同じ自覚と、力をつけねばならない。それが異体同心なのです。全員が横隊で、同じ目的で、同じ自覚で進んでいかなければ、世界の広宣流布は達成しえない。第四代の会長からそのような異体同心の行き方ができるように、いま私は真剣にその土台をつくっているのです。全員が、池田門下生であるということを最大の力とし、それを自覚して、異体同心で、最後の最後まで仲良く進んでいってほしいのであります。(拍手)
 将来は、決して他人が会長になったからといって、うらやましがる必要はない。会長になったから偉いのだとか、会長にならなかったから私は直弟子ではなかったのか、とかいったことで思い悩む必要はありません。現在はそういう育て方、訓練の仕方、指導の仕方ではないのです。会長を目的にしていく人があれば、その人は五老僧の眷属になってしまう。やはり名聞名利のそしりをまぬかれない。私が、全員の味方となり、兄となり親の気持ちで、ただひとすじに包容しきっていますから、それに応じて安心して進んでいっていただきたいのです。(大拍手)
8  六、次に申し上げたいことは、きたる十一月十八日に、創価高等学校の起工式を行います。この日は、初代牧口常三郎会長のご命日であります。この創価高等学校設立のあと、創価大学を設立する予定で進んでおります。これも、諸君および諸君の弟、妹たちのため、未来のための布石です。皆さん方は年代からいって、入学することはできません。いまの中等部の二年生から、入学できることになります。高等学校の収容人員は千二百人ぐらいです。あまり多くはありませんが、他の高校、大学を卒業した人もたくさんいてほしいのです。
 このように、広宣流布を目指して、着実に未来のための布石をしてきておきます。いまは、創価高等学校、創価大学のことだけを申し上げましたが、このあいだは、香港にも、立派な会館を購入しておきました。この夏季講習会が終了すると、ハワイへ一機チャーターして指導に行く予定でありますが、ハワイには、すでに寺院を一軒購入してあるのです。そこで開院式を行ない、使用を開始する予定になっております。このように、全世界に十何か所の布石がしてあります。この十倍、二十倍、五十倍と、国内においても、国外においても、私は、布石しておきます。全部、諸君の財産にしてあげます。大いに誇りをもって、この創価学会の財産を土台にして思う存分に振舞っていきなさい。
 御本尊は、世界一、宇宙一の福運をそなえた当体であります。したがって、その御本尊を奉持する創価学会も世界一の福運をもった団体です。諸君は、その学会の子供です。福運があるに決まっております。いまはあまり小遣いを持っていないかもしれないが、(笑い)あとになれば、いくらでも、福運がついてくるから心配はない。諸君のなかから、科学界に、政界に、経済界に、またはジャーナリズムの世界に、学者となり、または外交官、代議士、会社の社長、または官庁の首脳等々と、あらゆる世界に人材として育っていくことは間違いありません。そのためにもしっかり力をつけておいていただきたい。
 これから、第一回、第二回、第三回、第四回と、諸君の後輩が成長してきますが、私が最も力を入れ、会長就任六周年、七周年、この前後に訓練された高等部出身の人は、生涯、永久に団結して、諸君が、学会の全財産を譲られたとして、守り合っていっていただきたい。(拍手)その意味で私は申し上げているのです。
9  七、次に申し上げたいことは、日本の王仏冥合は、着実に進んでいます。衆院選も間近だし、やがて公明党が名実ともに第三政党になる日も近いでしょう。しかし、世界公布という道程は、まだまだ長いし、幾多の難関を越えなければならない。諸君の活躍の舞台は、大きいし、広い。しかも、日本も、世界も、いつ、第三次世界大戦が起こらないともかぎらない。非常に危険な時代であります。誰人も第三次世界大戦が起こらないと保証できないのです。
 では、どうすればよいか。全世界の指導者たちは、すべて困りはてています。解決の方法がわからないので暗中模索しているのが現状であります。今度、核爆弾が使われるようなことがあったなら、すべて吹き飛んでしまう人類の滅亡です。これだけは、絶対に防がなくてはならない。これを回避する道は、ただ一つ立正安国の理念、すなわち、絶対平和主義の思想をもった、日蓮大聖人の色心不二の哲学の力による以外に絶対にないのです。たとえ、他の法方で一時的に平和が訪れたとしても、それは恒久平和ではなく極めて不安定な均衡を保っているにすぎないのであります。
 広宣流布は御仏智です。しかし、諸君は、私ども以上に未来に生きなくてはならない。そのためにも、この大聖人の仏法によってのみ、日本の国の安泰はもちろん、世界の広宣流布、すなわち、恒久平和ができるのだということを胸に深く刻んで成長してください。(拍手)私は布石はしておきます。そしてその土台の上に諸君が世界平和を築く以外に、誰人も築けません。そこでまず、日本の安泰はつくっておきます。あとは諸君に託すからよろしくお願いします。(拍手)
 世界の国々は、学会が政治活動をするのではないかと恐れています。毎月毎月、学会員が、どんどんふえますし、日本に公明党がありますので、どこの国でも創価学会といえば、その国の政治に関係していくように考えてしまうのでしょうが、しかし、それは決して学会の行き方ではありません。政界へ出るのは、日本の国だけです。外国においては、政治活動はいたしません。あくまでも仏法の実践であり、一人一人の信心確立による幸福生活実現だけです。なぜなら、日本は邪智謗法の国であり、世界の国々は、仏法を全く知らない無智の国ですから折伏のうえの摂受でいくのです。したがって外国では、政治活動は絶対にしません。
 世界中の人が正しい仏法を持って仲良くなり、みんなが集まって「戦争をやめよう」「インドは食料不足だ、各国から応援しよう」等々、そうなれば世界は、恒久平和になるではありませんか。(拍手)私は、いまその布石をしているのです。そのときに、ヒノキ舞台で活躍するのは諸君です。したがって、諸君は、決してあせってはいけない。あせる必要もない。いまは、思う存分勉強しなさい。もしか諸君を苦しめるような者がいれば、私をはじめ理事室が総決起して打ち破っていきますから、安心して自己を磨いていきなさい。
10  八、最後に申し上げたいことは、明治十年、かの有名な西南の役のときに“右手に血刀、左手に手綱、馬上ゆたかな美少年”で知られる、かの西郷南州の私学校の少年のことです。彼らはもとより、低い主義主張、思想しかなく、そしてまた、はかない運命でしたが、最後まで戦いきった少年たちでした。あれは“右手に血刀、左手に手綱、馬上ゆたかな美少年”――これほどの活躍をしたということを、どうか故郷の母に伝えてください、という歌なのです。
 諸君は、これからも同信退転の人々の屍を乗り越えて進むときもあるかもしれない。多数の人が、さまざまな戦いや事件によって退転することもあるかもしれない。先輩が疲れて、不純になって前進の障害になることもあるかもしれない。長い長い広宣流布の旅路においては、さまざまなことがあると思う。しかし、そのときに、たとえ誰人がいなくなっても、誰人が権力や時代に迎合しても、諸君の一人二人でも、五人でも十人でもいい、本当の大聖人の仏法を、日蓮正宗創価学会の伝統を、代々の会長の精神を受け継いで、立派に戦いきっていただきたいのであります。(大拍手)
 その人がおれば、因果倶時で、また学会も日蓮正宗も、そしてまた大聖人の仏法も、拍車をかけるがごとく、発展するのです。どうか本門の“右手に血刀、左手に手綱、馬上ゆたかな美少年”で高等部員の時代と学生部員の時代、否、一生の広宣流布の時代を生きていっていただきたいことをお祈りし、私の激励といたします。

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