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日蓮大聖人・池田大作

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夏季講習会、全国女子部部隊長会 明朗で気品ある近代女性たれ

1966.8.9 「池田大作全集」第3巻

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1  一閻浮提総与の大御本尊のおわします霊鷲山において、百数十万名の女子部員を代表して、約七千名の方が、今回の夏期講習会に出席しているとうかがいました。まことにおめでとうございます。(拍手)
 最初に新池御書の一節を拝読します。「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまでいよいよ信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、たとえば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき、何としても此の経の心をしれる僧に近づきいよいよ法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」――非常に有名な御書の一節であります。
 「皆人の此の経」の「此の経」とは、末法の法華経、すなわち三大秘法の御本尊のことであります。その大聖人の仏法の真髄である御本尊を信心しはじめたときは、すなはち初信のころは、非常に歓喜をもって信心するようにみえる。
 「中程は信心もよはく僧をも恭敬せず」――信心が五年たち、七年たち、十年たち、または十五年たつということが「中程」にあたります。そのころ、だんだん信心が弱くなって求道心が弱まり、僧をも恭敬しなくなってくるというのであります。この僧とは、御本仏日蓮大聖人のことであります。大聖人を敬わない、すなわち三大秘法の御本尊を深く信じない。信力・行力がなくなると拝していいと思います。なお「供養をもなさず」とは、今時においては、折伏もしない、学会活動もしない、すなわち仏道修行をしないとのことであります。
 「自慢して悪見をなす」――自慢とは増上慢のことです。「自分は、これだけ力があるのに……」と、自分自身のみ自慢して「私を部隊長に任命しないのは……」「私を企画部員にしないのは……」「私を女子部長にしないのは……」等々、そういう増上慢の人は、自慢して悪見をなすことに通じます。結局「自慢して悪見をなす」とは、御本尊のお力も、学会というものもわかったつもりで、すべてのことを自分かってに判断し、同志の姿を批判したり、ついには信心を破壊し、和合僧を破壊していく姿のことをいうのであります。「これ恐るべし恐るべし」とは、仏罰は厳前とあるとの仰せなのです。
 「始より終りまで弥信心をいたすべし」とは、信心は一生涯のことである、死ぬ瞬間に成仏するための信心であるとの意です。長い人生にあって現世安穏・後世善処の証拠をつくるための信心なのであります。三年や五年で、それも、不惜身命の信心ではなく、半分疑いながら、半分批判しながら、やっとついてきたような信心で、どうして大聖人の不の奥底がわかるか、創価学会の本質がわかるか。わかるわけがありません。
2  先日、ある高齢な評論家が終戦記念日を記念して「戦争私書」という本を著わしました。そのサブタイトルには「彼らは何をしていたか」とあります。その本を読んでみますと、戦争中にある人は権力に迎合し戦争に加担した。しかし、戦後になって変節し、自分の主義主張を豹変させて、レーニン平和賞を受賞して平然としている。ある科学者は戦争中は軍部に日本的科学精神ということを鼓吹し、軍部にへつらっていた。それが、時代が変わるとノーベル物理学賞を受賞している。そのほか戦争中は、多数の人が、犬が尻尾を振るごとく権力にへつらい時流に迎合しながら、それでいてデモクラシーの時代になるや否や、まるで自分こそが昔から平和の使徒として、民主主義の先駆者として戦ってきたような顔をしている。これが主義主張に生きた人のとるべき道か。所詮は、その主義主張が弱い、その人の信念がないからそうなるのです。
 大聖人の仏法は永遠不滅の仏法であります。いかなる時代が到来しても、いかなる国においても、絶対なる幸福を確立せしめる原理であり、世界最高の哲学であります。私どもは、その三大秘法の御本尊を「始より終りまで」――すなわち、生涯、清らかな求道精神をもって、信じ貫き通していきたいと思うのであります。(拍手)「さなくして後悔やあらんずらん」――信心を退転した者は必ず後になって後悔すると断言しておられます。他の主義主張でも、それを権力の前に屈して変節すれば後悔はあるでしょう。自分自身の良心がとがめるでしょう。どんなに世の中を、民衆を欺瞞しても、自分自身の心の奥底は欺くことはできないのです。表面では平静をよそおっても、その人は仮面をつけているようなものであります。
 いま皆さん方に申しあげたいことは、生涯退転することなく、御本尊と創価学会を信頼しきって、私と共に進んでいっていただきたいということであります。(拍手)歴史をみても、また現実の社会をみ、世界をみても、いったい誰人を信ずることができるか。ノーと答える以外にない。立派な指導者といわれる人も凡夫であります。名聞名利を追っています。虚偽と謀略と、ただ権力のみに走り、有名という幻にとらわれ、多数の善良な人々をないがしろにしているのが現状です。
 末法今時において、御本尊を持った者以外に善人がいるわけがない。大聖人も、御書のなかで伝教大師の文を引かれ、末法において、世の中に、さも立派そうなかっこうをしている人は、まるで町のなかに、いまでいえば、東京都の人ごみのなかにトラがいるようなもので、これほど危険なものはないと仰せになっています。しかしそれでは、批判している人自身、その理念、民衆を愛する慈悲はどうかといえば、なにもない、その人の生活はどうかと追求していけば、不幸な人であり、他人の批判はするけれども、それ以上に、自分自身はだらしなく、批判されなければならないような人が、たくさんおります。
 詮ずるところ、宗教の正邪、哲学の高低を究明してそこから判断していくならば、御本尊を持っていない人に、信頼するに足りる立派な人がいるわけがないのであります。力のある人がいるわけがない。こう考えていくならば、究極は、仏法の真髄である三大秘法の御本尊を信心することが、最高に正しい人生であるということがわかると思うのです。(拍手)
3  「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり」とは、当時、鎌倉から京都へ行くのに十二日間かかったわけです。「それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をは詠め候べき」――つまり、鎌倉から京都へ十一日間歩いてきながら、あと最後の一日を歩かなかったならば、どうして目的を達成することができるか。都のあの美しい月をながめ、歌を詠ずることができようかとの仰せです。
 これは仏法においても全く同じであり、途中で退転したならばどうして人生の目的である成仏の境涯を会得することができるか。すなわち、人生の動かざる幸福を建設することができるかということであります。立派な建築物でも、九九パーセントできあがっても、あとの一パーセントができあがらなければ、完成とはいえません。たとえば雨漏りがする、またガラスがはいっていない、あるいは壁が全部できあがっていない等であれば、人が住むわけにはいきません。なんでも道理は同じであります。
 「何としても此の経の心をしれる僧に近づき」――「此の経の心」すなわち末法の法華経の心を知っておられる僧、これは日蓮大聖人のことであります。「弥法の道理を聴聞して」とは求道心です。自分から信行学を実践しなさいということです。「信心の歩を運ぶべし」――そして最後まで信心を貫き通して行きなさいとのことであります。信心とは、疑わざるを信というとあるとおり絶対に御本尊を疑わないことをいうのです。また信心とは実践ということであります。
 これらの御文に照らし、大聖人の仰せどおり実践しているのは日蓮正宗・創価学会しかありません。学会の実践は、信心は、大聖人の仰せどおりの信心であり、実践であります。かってに学会でつくったものでもない。私がつくったものでもない。ですから確信があり、功徳があり、勇気が出るのです。何ものも恐ろしくない。皆さん方は、まだまだ若い。ただ御本尊をだきしめて、大聖人がこの「新池御書」におしたためのとおり、最後の最後まで、一生涯、王仏冥合という指針に向かって勇往邁進していただきたいことを切願するものであります。(拍手)
 この全国部隊長会の席をお借りしまして何項目かを申し上げて、皆さん方最高幹部の信心の糧としていただきたいと思います。
4  一、最初に申し上げたいことは、福運豊かな女性であっていただきたい。またそういう女性になっていただきたいということであります。その福運の源泉は、いうまでもなく信心であり、題目の力によるのであります。
 一般の社会をみますと、むろん福運のありそうな姿をしている人もあります。しかし、その人たちの福運はきわめて根の浅いものであります。まるで蜃気楼のようにはかない。明治以来、主義主張のために生きた、多数の女性の社会運動家がおります。また、知名人といわれた有名な女性もおりました。しかし、その人々のことを本などで読みますと、五十人のうち五十人全部が、女性として不幸であります。人間として不幸な人生を送っております。
 皆さん方もおわかりでしょう。こうした人たちの身の上を調べてみてください。幸せに人生を送った人はおりません。ただ、信心を根本にして築いた福運だけは絶対にこわれない。それどころか、かえって、一年ごとに、その福運は輝いていきます。現在でも、信心していない若い女性たちが、なんとなく、幸せそうに遊びたわむれています。しかし、蜃気楼のようなものであり、根が浅いのです。ゲーテいわく「虹は十五分と続かない」と。それら若い人たちが、仏法ももたず、ただ無責任時代の世相にあって、浅はかに人生を送っております。五年先、十年先、二十年先にどうなるか。
 私もたくさんの人を知っています。学会外においても、学会内においても……。ある女性評論家は、結婚し、当初は幸せそのものでありました。しかし、ものの二、三年もすると、もう離婚するはめになったのであります。そして何回となく腹を切開手術されて、健康もすぐれず、まことに気の毒な思いがいたします。また、これは信心をしている人ですが、最高学付を出た人と結婚した人がいた。その当時は幸福そうでした。信心しない主人に引きずられ信心をやめてしまった。それが、五年、十年とたつうちに、罰の連続になって苦しみ、いま再び班担当員としてやっと立ち上がり、信心を退転した生活の苦しみ、 情けなさをかみしめています。そうした人も身近に知っております。また、ある有名な学校を卒業し、大臣級の人からも祝福されて結婚した人ですが、退転して、現在たいへんな生活に陥り、やっと奥さんが再び信心して、どうやら立ち上がりつつある、みじめな姿も知っております。等々、申しあげれば数限りがありません。長い目からみれば、信心をもった人の人生は着実に勝ち戦に向かっている。幸福に向かっております。これだけは信じなさい。(拍手)
 皆さん方は、他人の幻影のような福運なんかに惑わされてはいけない。御本尊が応援してくださいます。また私も一生涯、全面的に皆さん方を応援いたします。(拍手)また、理事室にも、壮年部の大幹部にも、全員が皆さん方を応援するように、私が激励しておきます。皆さん方は、同じ世代の人々に比べて、二十年先に、すなわち、四十代、五十代になったときに、本当の人生の勝負を決し、幸福の実証を示しきっていただきたいのであります。(大拍手)
5  二、次に申し上げたいことは、王仏冥合達成という偉大なる目的観をもっていただきたいということであります。愚痴の竜女が成仏した。これは大目的観に立ったがゆえであります。鬼子母神は爾前教においては悪鬼とされていました。ただし、法華経にはいって善鬼となります。これも、大哲学、大目的観をもった人生にはいったときには、境涯を開き幸福になっていくという方程式なのであります。皆さん方も、どうか自己の特性を思う存分発揮しなさい。そして朗らかに、部隊にあっても支部にあっても、同志に活力を与えきっていく源泉の人になりなさい。それだけ自分自身の福運をつんでいくことになり、自分自身の宿命打破の加速度が増していくのです。
 また、誰人たりとも悩みはあります。悩みのない人はおりません。天皇をはじめ、総理大臣でもどのような人でも悩みはあります。このあいだも、ある有名な新婚の野球選手の家で、主人の留守に強盗がはいりました。そのショックは尋常一様なものではなかったでしょう。有名になればそれだけの悩みがあるものであります。このように、他人にはいえない悩みは誰でももっているのです。こうした例は枚挙にいとまがありません。皆さん方も、年をとっていくと、だんだんとその実態がわかってきます。なんだ、こういうことが人生なのかと、こうわかってきます。同じ悩むのであれば、折伏のために、不幸な人のために、指導のために、仏法哲学の勉強のために、悩んでいったらどうでしょう。(拍手)われわれの世界は、何十万、何百万人という善意の人々や誠実の人々の団体であります。一人一人が孤独ではないのです。多数の人が、みんなで守り、見守ってくれているなかでの戦いではありませんか。これほど価値のある有意義な戦いはないでしょう。(拍手)
6  三、いざというきには、厳然と御本尊を守り学会を守って、一歩も退かぬ勇気と確信をもっていただきたい。いざというときに、その人の真価、信心はわかります。
 先日、朝日新聞に、中共の女性が武装している写真が掲載されていました。東南アジアの国々の女性も、同じく身を危険にさらしながら武器をとって戦っております。祖国をまもらなければ自分を守れないということなのです。いま日本の国は、あまりにもぜいたくであるし、無責任時代であるし、太平ムードに酔っております。私は、日本がいつまでもこのまま続くわけはない。十年先、二十年先には、いったいどうなるのか。重大な危機に直面し、あわてふためくのではないか。そのときになって後悔しないためにも、自己のため、子孫のために、我此土安穏の完璧な平和な国にしておきたいと願っております。
 クツ下がどうのこうのとか、髪の形がどうのといったことばかりにとらわれるような人たちは、いざ国家的な重大事件があったときには、最も脆く、最も悲惨な姿に変わるのです。われわれは、広宣流布のために、朝な夕な、職場では真剣にはたらき、仕事が終われば、また人間革命のために、民衆救済のために身を粉にして戦っております。これだけの最高善の行為をし、自分自身を築き、心構えができていれば、どのような時代がきても、いちばん安心して、そして自身をもって生きていけるのは皆さん方であります。ほかの人たちは、みんなそのときになって哀れな姿に変わるのです。そういう人たちを救ってあげましょう。(拍手)
7  四、次に申し上げたいことは、明朗で清楚な、気品ある、しかも逞しい女子部の幹部であっていただきたい。病気の人もいるかもしれない。経済的に困っている人もいるかもしれない。家庭問題で悩んでいる人がいるかもしれない。しかし、煩悩即菩提です。生死即涅槃です。われわれの悩みは、全部、妙法によって地獄即寂光に変え、一切宿命転換させきっていけるのであります。
 他の信心のない女性の悩みは、その悩みが、次の深い悩みにつながっていく悩みなのであります。そこに、われわれ信心した者と、そうでない人との根本的な違いがあります。どんな逆境にも負けてはいけない。どんな苦難にも絶対に負けてはいけない。そのときこそ逞しく題目をあげきりなさい。三年、五年、七年、二十年と題目をあげていけば、薄紙を一枚一枚はぐごとく宿命転換し、あとを振り返ってみて、本当によかったといえる人生、思ってもみなかった幸福境涯、幸せな人生にはいることが、御書に照らして歴然であります。私どもも、全部それを体験してきております。皆さん方の先輩もまた同じであります。
 先日、渋谷公会堂で芸術祭がありました。そのときに何人かの女子部の人が受け付けをしてくださった。私の知り合いのある博士の奥さんが、来賓としてきました。芸術祭が終わって二、三日たちましたところ、手紙がまいりました。その手紙は非常に長文でした。それは「本当に創価学会の女性の方々の受け付けの姿に、まず心を打たれました。あの明るい、清楚な、そして品格のある姿、振舞い、敏捷さ、私はつくづくと自分自身を反省しました。」という内容のものでした。芸術祭の中身のすばらしさももちろんですが、その受け付けの人の姿をより以上にほめておりました。
 また、きのうある総務の友人で出版関係の人がきました。そして、その人が皆さん方の姿を見て、何回も何回も「いいなあ」といってかえったそうであります。(笑い)明朗であって、品格があって、清楚な姿に心を打たれるものがあったのでしょう。これはなにもここだけではなくして、どこでもそういう声は聞きます。すごい女性革命です。世界一の品格と、そしてまた清楚で、気品があり、そのうえに勇気ある若き女性の団体です。世界に類例がない。この団結を一生涯、次の女子部にまたバトンタッチして、お互いに守りあって、世界の灯台というか、世界のダイヤモンドとして、進んでまいりましょう。(拍手)
 ほかの青年の集りなどに行ってごらんなさい。ひどいものです。そういう人たちも実は根本的思想、指針がないから、やはりなんらかの依処を求めたいためにそうした世界へはいっているのです。孤独な人は寂しい。いまの時代には深窓の佳人などはいないのです。そのような人は敗北者であります。時代は大きく変わっており、本当の近代女性は学会の女子部であります。
 かつてある殿下がイギリスへ行かれたときに、あるイギリスの女性とホテルで会ったその殿下は、うっかりイスにすわったままであいさつしようとしたのでしょう。するとその女性が毅然として「お立ちなさい。立つのが礼儀です」といったそうです。これが一女性の発言であります。
 大聖人は、末法においては「男女はきらうべからず」と仰せです。いつまでもいつまでも、男に従属しなくてはならないような、封建的な時代ではないのです。女性は弓であり、男は矢であります。また女性は身であり、男は足であります。月給をとってくるメッセンジャーのようなものです。(爆笑)女は身であり、男は羽です。どれほど大事かおわかりでしょう。
 私はある人から聞きました。それは「会長さんは、よく男子部を訓練しておられる。それだけではいけない。女子部を本当に訓練することが、いちばん大事ではありませんか。なぜならば、男性は女性の力でどうにでもなってしまう。いかに男性を未来の学会の礎、柱に、跡継ぎにしようとしても、女性がそれ以上に、立派な信心と聡明さがなければ、その築き上げた男性はろびてしまう。しかも力がでません」と。なかなかいいことをいったと私は思いました。(笑い)
8  五、次に申し上げたいことは、職場においては、生き生きと働いていただきたい。学会活動が遅いから休む、または居眠りする、そういうことは、皆さん方はないでしょうが、あってはいけません。なぜかならば、一つには自分自身のために、また一つには生活のために、また一つには広宣流布の布石のためにであります。
 なにも皆さん方が、男以上に働かなくてはならないとか、資本家の奴隷になって働いていてくださいなどということは絶対にいいません。ただ生き生きとというのは、そこで敗北者になって、職場を追われたり、休んだり、また、いられなくなってしまうことを、私は心配するのであります。せちがらい世の中です。物価も上がるし、なかなか生活を安定させることも大変です。ここまで育てたお父さんや、お母さんのことを考えると“娘は、元気で、明るく職場へ行っているかな、事故を起こさないように皆と調和をとってやっているかな”ということは、たえず心の中で思っております。そのためにも、申し上げたいのです。
 なお、信心の発露は、詮ずるところは、その現実の社会、境遇に現れるのです。信心が純真であれば、その境遇で勝ち戦の姿を示すことができます。信心のための信心、学会活動のための学会活動で終わって、職場ではしおれていて、他から批判されるようなことがあってはいけません。どこにあっても、他をリードしていけるぐらいの、明るい、シャープな、そして朗らかな女性になってもらいたい。(拍手)
9  六、次に申し上げたいことは、これもいつも話していることであります。人の幸・不幸は、結婚の年齢等で決まるものではない。信心根本に、あせることなく、どうか月々年々に福運を積みきって、成長していっていただきたい。そして、それが最後は幸福は結婚につながる源泉であることを知っていただきたい。
 いちばん最近では、前々女子部長がよき模範です。かつて私と同じ地区に所属していた時があって、昔からよく知っております。学会活動は昔から真剣にやってきましたが、体も弱かったし、境遇も不幸な人だった。あれほど不幸だった人はいないぐらいです。それが、いまではいちばん幸せではありませんか。
 皆さん方はあせる必要はありません。あせってへんな結婚をして、あとで笑われたり、離婚したり、一生涯、不幸の連続を繰り返すことになったりするならば、かえって失敗です。私は、いちばんそのことを心配しております。女性の幸福は、イコール結婚ではありません。それは過渡期です。四十代、五十代になった時が、女性としての勝負の岐路です。あせってはいけない。だからといって、いい相手であれば、これは当然、人間として踏むべき道でありますから、お父さんやお母さんや、また、経験豊かなよいお友だちや先輩に相談して、家庭をもち、それをまた土台にして、王仏冥合の法戦に進んでいただきたいのであります。
 ただし最後に決定する者は、ほかならぬ自分自身であり、自分自身の責任であるということを忘れてはいけません。あの人が決めてくれたからこうだとか、あの人がなんとかしてくれるだろうとか、などとということは従の問題であって、決めるのは自分であり、責任をもつのも自分であります。
 また、他の人の結婚問題等に意地悪であってはなりません。結婚問題等があったならば、暖かくその人の相談にのってあげなさい。その人の幸福を考えて、信心根本に相談にのってあげられる余裕ある幹部であっていただきたい。それによって、自分自身の福運を増すのです。
 真剣に御本尊のために、学会のために働いてきている人を、御本尊、また三世十万の仏菩薩が守ってくださらないわけはない。私も守ります。どんな境遇であっても学会のために戦ってくれた人が、宝ではないでしょうか。その人をいちばん私は守ります。私が知らなくても、御本尊がお見通しであり、守ってくださいます。誰が認めてくれなくても信心根本でいきなさい。そして冥の照覧を信じなさい。その人が最も美しく、最も偉いのです。最も尊い、崇高なる人生を生きている人なのです。
10  七、次に申し上げたいことは、女子部は永久に強い団結のきずなで進んでいっていただきたい。団結は力です。団結は人をも守り、自己をも守るものです。絶対に、あの人がどうのこうのと愚痴をこぼして、意地悪なことをいいあったりしてはいけない。信心根本、御本尊根本で、同志を退転させないように、そして自分も退転しないようにがんばっていくべきであり、皆で成長しよう、折伏しようという信心から出発し、また信心に結論をもっていけば、怨嫉や愚痴など絶対にありません。
 退転することは、自分自身の自殺行為に等しい。また団結を破る人も、同じく謗法の科はまぬかれることはできません。お互いに、生涯、退転することのないよう、堅い団結で進み、女子部時代にしっかりその基礎と福運を築くことです。その信心を貫けば一切が財宝に変わっていきます。そのためにも喜び勇んで、自らすすんで活動しなければ損です。
 わが創価学会には鉄の団結があり、なにも恐れるものはない。いわんや信心根本の団結です。日本の国を動かし、新しい時代をつくっていけることは、絶対に間違いないことだけは、断言するものであります。(拍手)一にも二にも“団結”を合い言葉で、女子部は進みなさい。(拍手)
11  八、次に申し上げたいことは、主体性をもつ女性であっていただきたい。すなわち肉団の御本尊を涌現することが最高の主体性です。
 女性は、特にお父さんがいない人は、逆境に負けずにがんばって育ってきてはいるけれども、男の人に粉動されてしまったり、いつも誰かに寄りかかって生きていったりする人がおります。それではいけません。やはり信心です。そして自分自身の肉団の妙法を涌現して、聡明に、強く自分を確立しなければいけません。そうでないと最後の幸せは消えてしまう。いつもいつも縁に粉動されてフラフラしていく人生は不幸です。堂々と誇りある世界一の信仰者らしく、近代女性らしく、学会の女子部らしく進んでいっていただきたいと思うのであります。(拍手)
 これはよくあることですが、恋愛してすぐに退転する人がいます。それではあまりにも目的観が低すぎます。恋愛して、または夫婦になって、それを次の信心、次の人生へ飛躍していく力としなくては無意味です。信心をもっていない人と一生懸命付き合って、信心のことなどいうときらわれるといけないと思って、隠して退転して、一緒になってから、不幸になってしまう人がいます。これほどみじめなことはない。相手に信心をさせることです。または、できることなら信心をしている人と結婚するほうが幸せです。だからといって強制はしません。お父さん、お母さんの立場もあるでしょうが、やっぱり皆さん方が主体性をもって、信心をさせ、信心を推進させるための恋愛であり、結婚であり、夫婦であっていただきたいと、私は思うのです。(拍手)
 なお、皆さん方は、将来、婦人部にはいるでしょう。そのときはお子さんもできるでしょう。そのお子さんは福子です。どんな大博士たりとも、科学者たりとも、自分自身の子供がどういう宿命で生まれてくるかはわからないのです。しかし信心をもった人の子供は、仏法に照らし、福子であることは間違いありません。そのお子さん方を、学会につけ、学会の跡継ぎにしていってください。私的なことをいうとはたいへん失礼でありますけれど、私も、三人の子供のうち長男は中等部へ入れております。次男も入れております。三男も少年部へ入れ、全部、先輩の方方から、他の学会員となんら変わりなく訓練もされ、信心の指導もうけております。本人も喜々として参加しています。こうならなければいけない。
 それが、自分の子供だけは特別にしていこう。自分の子供だけは、学会の高等部や中等部もいいけれども、もっと伸びのびとさせるために別にしていこうということ自体、鬼子母神の働きであるし、いいようであっても最後は不幸になるのです。この点も、将来のために、胸に刻んでいっていただきたいのです。
 九、最後に、どうか体を大事にしてください。若いのですから、色心共に、肉体的にも精神的にも、生き生きと前進していっていただきたいと思います。色心連持、これが真実の信心の姿であります。
 体をこわしてはいけない。広宣流布を達成していくうえで最後に問題になるのは体力です。やはり、体力がなければ戦えないし幸福にもなれない。
 女子部は、特に会合等の終了時間を厳守して、リズム正しい生活をしていただきたいと思います。そして全員がなんの悔いもない、最も有意義な青春時代を送っていただきたいことを心からお祈りいたしまして、私の話といたします。(拍手)

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