Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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夏季講習会、婦人部大幹部会 賢明な婦人たれ

1966.8.7 「池田大作全集」第3巻

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1  多宝富士大日蓮華山富士大石寺におきまして、二十一回目の夏季講習会を、元気いっぱいな皆さん方と共に開催できましたことを、まずお喜び申し上げるしだいであります。(拍手)
 本日の講習会には、世界十八か国、合計八百八十八人の海外の同志が参加しております。どうか日本の同志の方は、心から歓迎の意を、拍手をもって示してあげてほしいと思うのであります。(拍手)
 皆さん方の浄財によって、事実上の本門の戒壇、すなわち正本堂が来年の十月十二日、一閻浮提総与の大御本尊ご建立の意義ある日に建立発願式をとり行なう運びになりました。外観等は、一切、委員会等で決定され、三年後、または四年後には、世界第一の宗教にふさわしい、立派な正本堂が建立されることは間違いない。功徳に燃え、喜び勇んで、再び、この正本堂の入仏落慶のときに、集まっていただきたいことをお願い申し上げます。(拍手)
 また、日本の皆さん方は当然、海外の方々も、安心して登山し、気持ちのよい講習会がうけられるように、総坊をあと二棟、本年秋に起工いたしますが、さらにもう二棟をできるだけ早く建設し、全部で六棟として、皆さん方の便宜を図るようになっております。
 なお、先日、御法主上人猊下は、白糸の滝の方面に、日蓮正宗の全信徒の墓地をつくるため、二十数万坪の土地を購入されましたが、この二十数万坪を第一歩として、さらに二十数万坪も購入する予定で進んでおります。このことも皆さん方にお伝え申し上げておきます。(拍手)
 念願の創価中学・高校も、来年十一月十八日、牧口初代会長の命日を記念して起工式をいたします。再来年の初春には、一切、完成いたします。引き続いて創価大学の建設も、すでに都下八王子市に十数万坪の土地を購入し、設立審議会等で着実に検討が進んでいることをご報告申し上げます。
 皆さん方のお子さんが、次の時代になんの憂いなく、日本の国の安泰と世界の平和のために、大御本尊の功徳に浴して、思う存分、大活躍ができるように、私は道を開ききってまいりますから、お子さん方を、立派な学会っ子に育てていただきたいことをお願いするものであります。(拍手)
2  上野殿後家尼御返事の一節を拝読します。
 「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし、此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり
 「夫れ浄土と云うも地獄と云うも云云」とは、浄土とは仏界であり、地獄とは地獄界であります。念仏等においては、西方十万億土に極楽浄土があると説いておりますが、それは爾前教の観念的な思想、哲学です。大聖人の仏法は、全くその考えを打ち破っております。すなわち仏界、浄土、霊鷲山といっても、同じく地獄といっても、外にあるのではない、ただわれらが肉団の胸中にあると説かれております。大聖人の仏法は、大生命哲学であり、生活の根本原理であり、全宇宙に通ずる哲学であります。
 「これをさとるを仏といふ」とは、三大秘法の御本尊に題目をあげることによって、肉団の妙法が涌現する、これを仏というのです。霊友会等の新興宗教では、地獄の相をしようが、畜生界、餓鬼界の相をしようが死んだ者がすべて仏であるといっております。こんな矛盾した話はありません。これに対して大聖人は、仏界を涌現したその生命活動を、仏というのであると仰せです。
 「これにまよふを凡夫と云う」――この根本原理、生命の本質を知らない人を凡夫というのであります。御本尊を受持し、題目を唱える人には迷いはない。いかなる学者たりとも、総理大臣たりとも、ノーベル賞受賞者たりとも、この根本原理を知らなければ迷いであり凡夫なのです。
 「これをさとるは法華経なり」とは、成仏の境涯をうる方法は、法華経以外にないということです。法華経とは末法の南無妙法蓮華経、すなわち三大秘法の御本尊のことであります。「もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」――どんなに貧乏であっても、いかなる罪業深い者であっても、いかなる苦しい境遇の人であっても、ひとたび大御本尊に題目を唱えるならば、地獄即寂光と変わってしまう。誰人も、根本的に人間革命ができる、成仏できる、大福運を積むことができる、宿命転換をすることができる御本尊であるとの仰せであります。
 「たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも」とは、どんなに長いあいだ方便の教えを修行しようとも「法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし」――末法の法華経、すなわち、大御本尊から離れるならば、大御本尊を知らなければ、誰人たりとも地獄界なのです。御本尊を持った者は仏界にはいる。御本尊を持たない者は、詮ずるところは、全部、地獄であるということです。いま、どんなに裕福そうであっても、いかに福運がありそうであっても、運よく商売が順調であっても、有名人の姿を現じておっても、御本尊から離れれば、結論は地獄に行ってしまうとのご断言であります。
 「此の事日蓮が申すにはあらず」とは、大聖人のご謙遜の言葉です。「釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり」そのことは私がいうのではない。釈迦仏が、多宝仏が、否、十方三世の諸仏が、そう断言していらっしゃるのである、との御文であります。
3  次に千日尼御前御返事に「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし、たとえば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し法華経の妙の一字は小火の如し、小火を衆草につきぬれば衆草焼け亡ぶるのみならず大木大石皆焼け失せぬ、妙の一字の智火以て此くの如し諸罪消ゆるのみならず衆罪かへりて功徳となる毒薬変じて甘露となる是なり」との一節があります。
 「法華経の師子王を持つ」とは、大御本尊を護持することであります。師子王とは、日蓮大聖人のことであり、即大御本尊のことであります。その師子王を持つ女人とは、皆さん方婦人部であります。「一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし」――御本尊を持った女人は、地獄界、畜生界等のあらゆる不幸を恐れることはない。全部、宿命転換することができるとの仰せであります。そのためにはあくまで信心強盛であり、信心純粋でなくてはなりません。
 「譬えば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し」とは、女人が一生のあいだに犯す罪は、たくさんの乾草のようなものであるとの意です。「法華経の妙の一字は小火の如し」――妙法蓮華経の妙の一字は、小さい火のようなものであります。もちろん妙法蓮華経は偉大な、宇宙の根本力ですが、ここでは大聖人は、妙法蓮華経の一字をおとりあそばされて、一遍題目を唱えても、その力はすごいのであるという道理を明かしていらっしゃるわけです。
 「小火を衆草につきぬれば衆草焼け亡ぶるのみならず」とは、題目を一遍唱えるという、そんな小さい火であっても、衆草は、いっぺんに焼けてしまう。それのみならず、一本のマッチの火力によって、大木も、大石も、皆焼け滅ぼしてしまうではないか。ということは、どんな重罪であろうとも、妙法に帰依すれば、いかなる罪業、不幸であろうとも、完全に宿命転換しきることができるとのご指導であります。
 「妙の一字の智火」とは、大御本尊の御智です。「智火以て此くの如し諸罪消ゆるのみならず衆罪かへりて功徳となる」――あらゆる罪が消えるのみならず、衆罪がかえって功徳となるのです。煩悩即菩提です。「毒薬変じて甘露となる是なり」とは、あらゆる悩みがあり、罪業があったとしても、毒薬変じて甘露となる、衆罪変じて功徳となるのが、大御本尊の功力であるという仰せであります。さまざまな境遇の人がいると思う。しかし、大聖人のご聖訓は、間違いありません。あとは、信心強盛にして、われ日本一の幸福者なりといいきれる信心を、どうか、していっていただきたいのであります。(拍手)
 参考のために、甘露ということについて申し上げます。「仏教哲学大辞典」には、甘露とは梵語で阿密哩多、また不死、天酒の意とあります。通途には、忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるといわれております。また、中国古来の伝説では、王者が仁政を行なえば、天がその祥瑞として降らすという甘味の液とも説かれております。日本においては、そういうことからだんだん変化して、お茶の上等なものを甘露といっておりますけれども、本来は、その意味ではありません。なお、大聖人が仰せの甘露とは、三大秘法の大御本尊のことであります。すなわち寿量品に「色香美味、皆悉具足の大良薬」とお説きあそばされているところが甘露となります。
 以上、講義は終わらせていただきまして、幾つか婦人部の最高幹部の方々に、これからの指導の指針を申し上げます。
4  一、最初に、生涯、女子部のように若々しく、明るく、はつらつと進んでいっていただきたい。その根本の源泉は、題目であるということを知っていただきたい。アメリカ民族は、世界の民族のなかでも若々しい民族です。日本で旅行中のアメリカの老婦人を見ても七十歳、七十五歳という年齢で、派手なワンピースを着て、朗らかに旅をしています。日本人は、封建性の流れをくんでか、五十代、六十代になると、もう自分は老人だと、自分で決め込んでしまっている傾向が強かった。最近では、いくらか変わってはきていますが、底流には、その傾向がまだ残っています。
 大聖人は四条金吾殿女房御返事のなかで「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給うべし」と仰せです。また「年は・わこうなり福はかさなり候べし」とも申されています。これこそ信心による生命力です。
 見栄っ張りな人は、お化粧ばかり一生懸命して、若く見せようと苦しんでいます。(笑い)根本的な若さ、品格、これは題目によって得られるのです。生命の奥底から泉のごとくわきいずる生命力を発揮して、そのうえで化粧した場合に、完璧な女性の若さと、品格が整う。これが人間革命であり、更賜寿命です。若々しく生きなかったならば、女性として最大の損失です。題目を心豊かに唱え、五十歳になっても、六十歳になっても、七十歳、八十歳になっても、お子さん方、お孫さん方、女子部の人たちと一緒に、時代に遅れず、生き生きと、はつらつと遊びたわむれ、語っていけるような土台をつくっていただきたい。(拍手)また、お子さんや、お孫さんと一緒に、老後は――老後でなくてもいいですけれども(笑い)世界の旅を楽しくできるような、人生の基礎をどうかおつくりになっていただきたいと思うのであります。(拍手)
5  二、信心即生活ということを、よく知っていただきたい。一家の革命、一家和楽の崩れざる建設のためには、大いに学会活動をしなさい。それと同時に家庭生活も立派にしぬいていく賢夫人であっていただきたい。学会活動をして、主人からとやかくいわれないように、賢明に家庭のことを成し遂げていただきたいのです。
 御本尊のおわします家庭であります。“あの人の家は、なんともいえない清潔さがある。質素で、地味であるけれども、安心できる”こういわれるような夫婦であり、家庭であっていただきたい。
6  三、信心根本に、あくまでもお子さん方の主体性を尊重し、しかも、お子さん方を学会に任せていけば絶対に間違いないという確信に立つ母親であっていただきたい。
 ある見栄を張った家庭ですが、自分の子供は、あまり早くから学会の世界に入れたくないといって、高等部や中等部、少年部の会合に出したがらなかった。御本尊は拝ませているといっておりましたが、何年かたって、子供が不良になてしまった事実も知っております。御本尊の功徳も、仏法の偉大さも、学会をとおしてでなければ絶対にわかりません。皆さん方はほんとうに立派な学会っ子を、お子さんを成長させていく一翼を担っていただきたいのです。それを学会から遠ざけてしまうような母親は愚かです。自分のうちがいちばん偉いと思って学会を避けていこうなどという根性では、子供自信を不幸にしてしまいます。
 皆さん方は、お子さんの信心をしっかりさせていきなさい。これが最高の財産です。何十万円、何百万円、何千万円残しても、それで子供が最高の幸せをつかめるわけではありませ。本当に子供がかわいかったら、根本的財産である信心を教え、確立させてあげるべきです。そして、立派な学会の跡継ぎとして、学会っ子として、育て抜いていただきたいと思うしだいです。(拍手)それが皆さん方の事実上の令法久住の実践になるのです。それを避けることは、仏法を破壊していく鬼子母神の働きです。
7  四、学会の世界では、見栄を張ったり、背伸びをする必要は絶対にない。信心の世界に、なんで虚栄や見栄が必要でしょう。世界にただ一つ、純粋な大仏法を奉じ、大聖人の子供とし、弟子として、五濁爛漫な社会にあって、不幸の人々を救うために、役者のごとく、あらゆる姿を現じて集ったのが学会ではないでしょうか。(拍手)
 婦人部の世界に、もし自分をさも立派そうに見せたり、自分だけは特別だという態度を示したりする人がいたとすれば、それは信心をむしばみ、学会の将来をむしばんでいく名聞名利の姿であります。幹部は、決してそういう人になってはいけません。いつまでも、いつまでも、水の流れるような信心に立って、大福運を地道に積んでいくことを忘れないでください。
 決してあせることはありません。たとえば大きい山があるとします。いちばん頂上が成仏の境涯であり、私たちはその山へ登っているのです。頂上へ行くには途中、坂も、谷もあり、その坂とか谷にはいったときに、御本尊を疑っては、なんにもならない。せっかく登ってきた山道を途中で引き返すようなものであります。それを乗り越えてこそ初めて高嶺に近づくのです。上から下を見おろしたときに、自分はこんなにも進んでいたのか、功徳をうけたのかということがわかるのです。
 入信してまだ十年たっていない人は、十年を目指しなさい。十年たった人は、二十年を目指して地道に福運を積んでいきなさい。否、御本尊を一生涯放さないという決意で、学会の大事な大事な礎となっていただきたい。学会っ子として生ききっていただきたいのであります。どっしりと、学会に地盤をおいて、たとえ陰でもよし、裏でもよし、広宣流布のその日まで、必ず学会のどこかにきちんと位していっていただきたいことをお願いするものであります。
8  五、社会的にも視野を広くもっていただきたい。学会も事実上、日本の第三勢力の位置を占める段階にはいりました。日本の動向を決めるのは創価学会です。そして世界にもたくさんの同志が活躍しております。世界の動向が日本の動向を決めていくし、日本の潮流が、また世界に反映して新しい世界の動向をつくっていく。したがって一流新聞等をよく読み、あらゆる勉強をしていっていただきたいのであります。その根本はなんといっても御書です。また学会の指導は、全部、咀嚼しきっていっていただきたい。
 多忙な日常生活のなかでも、着実に勉強を重ねていけば、しぜんに、実力はにじみ出てくるものです。いま婦人の世界において、学会の婦人ほど勉強しているところはないでしょう。なぜかならば、三百六十五日、常になにかを読み、なにかを聞き、なにかを見て、なにかを語っております。実際に自分自身が勉強し、成長していなければ、後輩の人になにも指導できません。結局、勉強せざるをえない運命にあるのが皆さん方です。(笑い)
 世間には、少しぐらいの知識を鼻にかけ、有名そうに振舞っている婦人がおりますけれども、それでは、その人に絶対の確信、信念があるかというと、意外にない。事実、生活のうえからにじみ出た品格、力、知性、教養、これは学会の婦人が最高である、と私は申し上げておきたいのであります。(拍手)
9  六、いざというときには、不自惜身命の決意で、御本尊を守り、学会を守り抜く信心に立っていただきたい。
 かの熱原の法難のとき、三人の勇士が死刑にあいましたが、そこにいたたった一人の女性は「男性を殺すまえに自分をさきに殺せ」といいきっております。この強信な姿、これこそ女人の信心の鏡であります。私たちは殺されるようなこともない。牢へ入れられるようなこともない。盤石な新時代建設の基礎はできあがっております。皆さん方に苦労などさせたくない。またさせません。しかし、学会の大事な戦い、広宣流布の大事な法戦の時には、学会を守り抜く強い強い信心で、身命を捨てる覚悟で私と共に戦ってください。(大拍手)
 その人が最後は成仏するのです。いざというとき、師子王の心を出せる人が仏になれるのであります。要領のいい人は、ふだん立派そうなことをいって、利口げであっても、重大な時には、パッと逃げたり、避けたりすることが多い。しかし、世間はそうであっても、信心の世界だけは、そうであってはなりません。もしそうなれば、永遠に地獄に落ちてしまう。
 太平洋戦争中、神道を奉ずる軍部の横暴によって二十一人の当時の学会の大幹部が牢にはいった。そのときにいちばん最初に退転したのは大幹部の女房です。牢へはいるまえまでは、立派そうな姿をしておった人が多いのです。それがいったん弾圧をうけると、牧口初代会長を憎み、戸田前会長を憎み、学会を憎み、御本尊を手離してしまった。なんたる醜態でしょうか。結局、そのとき退転した一家は、学会が戦後再建され、だんだん興隆してくるのに反比例して、不幸な、無残な姿を示しております。これは私がよく知っております。
 また最初の参院選において、三人が落選しました。このときも、何人かの中堅幹部が学会を批判して退転していった。そういう人間にかぎって、一生懸命やりもしないで、一生懸命にやっているような格好をみせるものであります。だが退転して三年たち、五年たち、みじめな姿になって「すみません。おわびしますから、なんとかもう一度信心させてください」とわびております。仏法は厳しい。師敵対しても、永久に栄えるのであったならば、皆信心をやめたほうがよいでしょう。そんなことは絶対にありません。大聖人の仰せは間違いないのであります。したがって、皆さん方は、永遠の福運を積むために、子孫末代までの繁栄を築くために、大事な時には厳然と戦ってください。(大拍手)
10  七、他人の悩みをよく聞いてあげてください。特に幹部の人々は、思いやり深い婦人であっていただきたい。決して意地悪であってはならない。感情的ではなく、本当にその人に信心を全うさせてあげようという気持ちがなくてはいけません。皆から親しまれる人であっていただきたいのであります。
 幹部になると、権威主義になったり、アゴで人を動かそうとしたり、一言なにかをいえば、もう自分の意思が通じたような錯覚に陥ったり、そんなことではいけない。他人の悩みをよく聞いてあげて、親身になって解決してあげていただきたい。その一念、信心が、幸いとして自分を飾っていくのであります。自分自身の福運を積んでいく大きい加速度になっていくのであります。否、その人の一念は、仏菩薩の所作になっているわけです。もし意地悪な人がいるとすれば、やはり、その人の顔には、そのような相が現われ、それが生活に全部、反映していくのであります。一家では、奥さん、母親が大事です。したがって、いつも目は涼やかに、福々しく、おっとりして、それであって信心は強盛で、明るく親切で、誰もが“あの婦人部長さんと会うと、安心する”といわれるようになってください。(拍手)
11  八、特に未亡人等の不遇な人を大事にしてあげていただきたい。全員いつかは未亡人になるのです。(笑い)
 未亡人の人を大事にすることは、信心をたもった地涌の菩薩を大事にしたことになりますから、自分が未亡人になったときに守られるのです。未亡人の人を軽蔑したりすれば、自分の主人が死んで悲哀のドン底に落ちたとき、初めて“あのときあの人を軽してすまなかった”と苦しむのです。
 御本尊からみれば、皆同じかわいい子供であります。生意気な言い方のようでありますけれども、私から見ても、全部等しい同志です。大聖人は「七子あり、その七子に対する慈悲は同じである。ただし七子のなかに一子病持つ者あり。その病持つ一子には、特に慈悲を深く垂れる」との意味の経文を示されております。学会は永久にこのような信心、指導でいきたいのであります。(拍手)
 また未亡人の人は、絶対に卑屈になってはなりません。自受用身の境涯でいくべきです。心の底から御本尊にお仕えする一念、一心でがんばりなさい。御本尊を主人と思う一念、一心で、子供の成長を願い、主人がいるとき以上に、幸福な人生を築いていただきたいのであります。(拍手)
12  九、怨嫉は絶対に禁物です。怨嫉は謗法の世界の延長であり、三悪道の生命であります。
 なぜ怨嫉が起きるのか。これは目的観がなく、戦わないからです。自分が成長しないところから起きてくるのであります。もしか怨嫉の気持ちが起きたならば、御本尊に題目をあげて“小さな心のわだかまりを消してください。私はもっともっと崇高なる広宣流布という目的に、王仏冥合という大目的のために働いています。どうかそれにふさわしい前進をさせてください”こうお願いしていくべきです。御本尊に直結すればいいのです。人間の世界のことですから、わざわざ怨嫉をさせるような根性曲がりの人もいるかもしれない。しかしそれに紛動されては損です。そこをもう一歩脱皮して、朗らかに進んでいかなくてはなりません。一歩脱皮してしまえば、今度は怨嫉をさせたほうの人に罰が出るのです。
 あくまで信心根本に、どんなことがあろうとも、すべて自分の信心を試し、自分の信心を向上させ、自分自身の人間革命のアドバイスをしてくれているのだと心に決めて進んでいくべきです。ただ南無妙法蓮華経です。もし本部の指導と違っていることを押しつけたときには、やらなければいいのです。御本尊にきちんとそのご報告をすれば、それですんでしまいます。
13  十、婦人部の皆さん方は、よき同志に、よき先輩になんでも話し合えるようになってください。話せば、さっぱりする。
 ある面からいえば、末法の女人は愚痴の衆生であり愚痴をこぼすのはやむをえないともいえます。愚痴の衆生の代表である竜女も、最後は成仏しております。ですから人の話はよく聞いてあげなさい。また皆さん方も話し、なんでも話し合える同志、先輩になっていただきたい。それが結局、悩みを解決する最も近道となるのであります。幸せは遠くにあるものではない。仏法による根本的解決の道も、自分自身を中心にした、すぐ身のまわりにあるものです。
 そこで大切なことは、相談をうけた人は、私的な問題を口外したりして後輩の人人が指導をうけるのをためらうようなふんいきを、決してつくってはならないことであります。私的な問題――たとえば「あの人の主人は失業中だそうよ」等々、そんなことをどうして人に話す必要があるでしょうか。誰人たりとも、全部、御本尊の子供ではありませんか。
 みんな幸せになればいいのであります。人間の世界です。そういうことを他人に口外されれば、いやな場合がいっぱいあります。どうか、あの人ならば安心して指導をうけられるという、賢明な婦人指導者となっていただきたいのであります。
14  十一、最後に申し上げたいことは、近所付き合いを大切にしてください。広宣流布の第一歩は、近所からです。ずいんぶん努力しても、信心がきらいで、皆さん方の誠意に応えないような人も近所にはいるかもしれない。それはやむをえないでしょう。しかし、わざわざ非常識な、道理に反した行動をとって、近所の批判をうけるようなことがあってはなりません。できるだけ礼儀をもって付き合い、遠い親戚より近い隣人という気持ちで、近所を大事にするように心がけてください。
 日常生活のなかで、隣近所の人たちを学会の味方にしていくということは、偉大なる広宣流布の推進であります。これからの革命は、隣人から始まるということをよく知っていただきたい。
 どうか一家のため、子孫末代のため、一国の平和のため、そして令法久住のために、来年の夏季講習会を目指して、堅い堅い団結と、明るい希望をもって、逞しく前進してまいりましょう。(拍手)

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