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日蓮大聖人・池田大作

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夏季講習会、全国男子部部隊長会 不惜身命の学会児

1966.8.5 「池田大作全集」第3巻

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1  最初に、総本山日蓮正宗富士大石寺におきまして二百万名の男子部を代表して、共に、大御本尊の照覧のもとに、夏季講習会ができましたことを、心からお喜び申し上げます。(拍手)
 大聖人の有名な御書のなかに閻浮提中御書があります。この御書は永遠の生命を明かされ、共に、われわれ弟子の決意を、信心の根本的自覚を説かれた御書であります。この御書の一節を拝読いたします。「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵のとがを顕せ・師子は値いがたかるべし、国主の責め・なををそろし・いわうや閻魔のせめをや、日本国のせめは水のごとし・ぬるるを・をそるる事なかれ、閻魔のせめは火のごとし・はだかにして入るとをもへ
 「我が弟子」すなわち私どもは、日蓮大聖人の弟子であります。日蓮大聖人は師子王です。即大御本尊は師子王であられます。唯心主義にも、唯物主義にも、実存哲学にも、絶対に破られない永久不変の宇宙の根本力であり、根本法則の縮図であります。その御本尊を受持した私どもは、難を恐れて退転し、「群狐に笑わるる事なかれ」――群がる狐に笑われることがあってはならない。いま、日蓮正宗創価学会を、すなわち地涌の菩薩である私どもを、利口げに批判し、無認識に偏見をもって悪口雑言をしている人々が多い。しかし、すべて大聖人のこの御金言を拝するならば、群狐にあたります。信念もなく、陰険で、そしてまた、ウソツキで、策略ばかりの指導者等が多すぎます。そんな連中に笑われるような弱々しい姿であってはならない。そして大聖人は「過去遠遠劫より己来」すなわち久遠元初以来「日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ」――大折伏をしていけ、なにも恐れてはいけないとの仰せであります。
 端的にいうならば、創価学会は強すぎるからいやだとか、罰論をいうからいやだとか、日蓮正宗もいいけれども、あんまり排他的だからいやだとか等々、全く的はずれの、浅はかな批判ばかりであります。そんな批判に紛動される必要はない。堂々と折伏に進みなさいとの仰せであります。その折伏行も、身命を捨てて強敵の科を顕わせ、追及に追及をしていけ、邪悪と不正に対して、批判に批判を浴びせきっていけ、破折に破折を加えていけとの大師匠のご命令であり、指導であります。したがって、根本精神においては、一生涯、身命を捨てて強敵と戦いきっていく決意だけは、もって進んでいこうではありませんか。(拍手)
2  現代でいうならば、われら正法護持の者を押えようとたくらむ権力者、指導者連中と堂々と戦い、戦っていけとの指導であります。結局は、王仏冥合という大革命を断行せよとのご命令であり、その一歩として、一人一人を人間革命させきり、民衆革命をなしていくのです。現在の民衆は、民主主義になったとはいえ、奥底はあまりにも無気力であります。宗教の正邪、善悪の基準も知らない。いわんや、権力と戦い、民衆のための政治を獲得することを、信念をもって推進していない。長いものには巻かれろ主義で、陰で批判はするけれども勇気ある実践を伴わない。また多くの評論家等が、さまざまな批判を加えてはいるが、その本質は、強い信念と理念、民衆救済の情熱が自己にあるわけでもない。言論の自由をカサにきて、恐れるものがないと思い込んでいる。幻影の雄弁にほかならぬ。(笑い)「多くが、自分の人気とりにすぎぬ」と自らいった正直な評論家がいました。(笑い)
 われわれは、この御文を骨髄として、まず、これらの人々を覚醒させゆくため、宗教革命を断行し、次に政治革命、教育革命、経済革命、文化革命を遂行し、民衆の真の勝利を獲得しようではありませんか。(拍手)
 「師子は値いがたかるべし」とは、師子には敵がない。あまりにも強く、恐ろしいがゆえに、師子の前には誰も向かってこない。だが大聖人は、自分から強敵を探して進んでいけ、破折していけとの仰せであります。結局、強いものに、ぶつかればぶつかるほど、堂々たる戦いをして、勝ち進んでいきなさいとのご指導でもあります。「国主の責め・なををそろし」とは一往、国主、国家権力の圧力、弾圧は、それは恐ろしいであろう。ただし、それ以上に、閻魔の責めのほうが、どれほど恐ろしいか知れない。無間地獄の恐ろしさは、まことに言語に絶するものです。その無間地獄に落ちないためにも、今世において、いかなる圧力も排して宗教革命、政治革命に、大聖人の弟子らしく戦い抜きなさいということなのです。
 経文に不自惜身命と説かれています。その半面、今度は、衆生所遊楽とも説いてあり、相反する指針であります。しかし、この御書の御文を拝するならば、不自惜身命即衆生所遊楽になるのです。煩悩即菩提、生死即涅槃と同じく、不自惜身命即衆生所遊楽なのです。したがって大聖人は「日本国のせめは水のごとし・ぬるるを・をそるる事なかれ」と仰せなのです。国家権力の弾圧など水にぬれるようなものであるから恐れる必要はない。ただし、現在は国家権力の弾圧などありませんし、いろいろ誹謗や悪口雑言をされ、策略を弄されることはあっても、それぐらいで恐れる必要は決してありません。あらゆる障魔を打ち破っていく、厳然たる創価学会の体制は、すでに完璧に成就しております。たとえいかなる批判、圧力、罵倒、評論家等の悪口罵詈等があったとしても、それは、水のようなものだ。「ぬるるを・をそるる事なかれ」――なにも雨にぬれたって、恐れることはないのと同じです。(笑い)これは大事な御文であります。
 むしろ水にぬれたほうが、あとはさっぱりします。(笑い)それをそんなささいな縁に紛動されて退転してしまえば、閻魔の責めをまぬかれることはできない。無間地獄を避けることはできない。すなわち「閻魔のせめは火のごとし・裸にして入るとをもへ」――退転して無間地獄に落ちることは、裸で火の中に行くようなものだ。それのほうが恐ろしいではないか。今世において、御本尊を受持し、堂々たる人生を広宣流布という崇高な目的に進んでいる私どもは、決して退転してはいけない、との仰せであります。
3  同じく大聖人の有名な新池御書のなかに「地獄おそるべし炎を以て家とす」との一節があります。大謗法を犯したり、退転して死んでいけば無間地獄にいく。地獄とは何かといえば、炎のなかにあります。また「餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食ふ」と。わが子を食うなど最大の苦悩であります。また「修羅は闘諍なり」――たとえてみれば海岸に打ち寄せる波です。ザーッと岩にぶつかって、自分自身を苦しめるのです。「畜生は残害とて互に殺しあふ、紅蓮地獄と申すはくれなゐのはちすとよむ、其の故は余りに寒に・つめられてこごむ間せなかわれて・肉の出でたるが紅のに似たるなり」――それほど寒い地獄であります。「況や大紅をや」――いわんや大紅地獄の苦悩はいかに大きいものであろうか。
 次の一節を私は特に申し上げたいのであります。すなわち「かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の時は争か名聞名利・我慢偏執有るべきや」の御文であります。総理大臣になろうとも、大博士になろうとも、日本中の人からどんなに尊敬された有名人であろうとも、大御本尊に師敵対し、私ども仏の使いを誹謗し、弾圧し、批判する輩は、この御文のとおりになるというご断言であります。「王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず」――猿がヒモにつながれて、グルグル回されているのと同じです。これこそ永遠の生命論であり、因果論であり、罰論です。
 「此の時は争か名聞名利・我慢偏執有るべきや」――現実に日蓮正宗創価学会を批判している者は、全部この大聖人の御書どおりになるということを断言し、確信をもって、諸君は一生涯、王仏冥合の法戦に進んでいっていただきたいのであります。(拍手)
 ウソといおうが、信じないといおうが、三世を通観なされた御本仏日蓮大聖人の御金言には、いつわりは断じてない。私は、それを確信いたします。否、現実に、いままで十年、二十年の広宣流布の歴史をかえりみて、確信を強めております。どれほど多数の王位・将軍等が、すなわち指導階層等が地獄へ落ちたか、これも厳然たる事実であります。
 大東亜戦争中、牧口初代会長、戸田前会長を弾圧して牢に入れた張本人は、絞首刑になったり、入獄したり、悲惨な最期を示しております。昭和三十二年の時、私はじめ多数の同志が、大阪事件、すなわち参議院の戦いにおいて、戸別訪問という無実の罪をきせられて牢にはいった。そのときの最高検次長検事は、満七年目に自分自身が、多数の買収による選挙違反に問われ牢にはいり、苦しんでいます。これも、この御文の一分の現証であると思わずにはいられません。これら、大なり小なり、厳然たるこの方程式を胸に刻んで、強い強い信心だけは貫き通していっていただきたい。(拍手)
 なお、この部隊長会の席をお借りしまして、諸君に何点かの指針を申し上げ、招来の青年部の大指導者として、立派な指導、指揮をお願いするものであります。
4  一、最初に申し上げたいことは、青年時代には、大いに力をつけていただきたい。そのために、大いに働き、大いに勉強していっていただきたい。それが生涯の最高の財産になるからであります。
 現在の日本の多数の青年は勉強せず、働かず、要領よく行動して、偉くなろう、金持ちになろうという考えでいます。なんと意気地のない、なんと打算的な、青年らしくない人生観ではないか。日本の国はベトナムとか、キューバとか、または、ハンガリー等のような、苦しい国情でないがゆえに、太平ムードに酔い、安閑としております。だがこのまま、十年も、二十年も、五十年も、百年も続くわけがない。時代は刻々と変遷し、世界は刻々と移り変わっていくものです。青年時代に基礎をしっかりつくっておかずして、なんでこれから十年、二十年、三十年を、楽しく、確信に満ちて送り、人生の総仕上げをしていくことができるでしょうか。これは、法爾の道理であります。
5  二、したがって、私は、さらに申し上げたい。青年時代においては、学歴、地位、財産、名誉、肩書き等に、決して幻惑されてはならない。素っ裸の人間として、人生の勝利を収めきっていただきたい。(拍手)
 私は七月の三十日ならびに三十一日に、六年ぶりに岩手県盛岡の同志の激励に行ってまいりました。日本のチベットといわれる国土世間であります。しかし、その日本で最も貧しい、疲弊しきっている国土世間から、多数の力ある人物が出ております。たとえば、平民宰相といわれた原敬、また後藤新平、文学者では宮沢賢治、石川啄木等々、相当数います。
 甘やかされて、坊ちゃん扱いされて、力ある人生が確率できるわけがありません。いま他の青年が映画に行ったり、ダンスをして遊んでいるあいだ、諸君は、厳しい信心の訓練をうけ、人間革命を目指し、大法弘通の尊い青年期を歩んでおります。絶対に諸君ら学会青年部が、全青年のなかにおいても、全民衆のなかにおいても、最期の幸福の勝利者になることは、当然であると私は断言したいのであります。(拍手)
6  三、次に申し上げたいことは、あらゆる苦難をば、信心で克服していっていただきたい。すべてが、変毒為薬されて、諸君の未来を飾ることは、必然であるからであります。外道であっても、過去の偉人といわれる人々は、皆、青年時代に戦っております。苦難と戦わずして、偉くなった人は、一人もいない。この苦難を克服して初めて、輝かしい人生を確立することができるのです。
 私も、十九歳の時に戸田前会長の弟子となり、おそばに、お仕えする立ち場となりました。当時、私は体が悪かった。いまみたいに多数の青年はいなかった。実際は数人であったかもしれない。そして、ずいぶん苦しい仕事もあった。事業も大変であるし、学会も、それこそ豆粒ぐらいの存在であり、何をいっても狂人のように思われていた時代であります。しかし、私は働きました。戸田前会長を信じ、学会を信じて御本尊を受持し、ただ峻厳に進んでまいりました。
 一段落し、二段落し、きっと戸田前会長は、家も建ててくださるだろう、また、私が悩んでいた体が少しでもよくなるために、ゆっくり休ませてくださるかもしれない、また、自分の思いどおりに大学まで月謝を出して行かせてくれるであろう等々と、甘い考えをもっておりました。しかし、全部してくださらなかった。体が悪いといえば、本当に心配はしてくださった。しかし、泣いて御本尊にお願いして宿命転換できないわけはないという指導でした。また、アパートの狭くるしい生活であった。それが生涯思い出になる、いまからいい家にはいって、安穏としていたならば、十年、二十年先にきっと困ってしまう。学校のほうも、おれが教える、なにもいく必要はない。本当の勉強をしなさい等々、私の甘い考えは、全部吹っ飛ばされました。それで鍛えられました。それが、今日の私の福運です。今日の栄光ある地涌の菩薩の先駆を切って、諸君を指導しきっていける力と変わったのであります。
 諸君のなかにも、経済力に苦しんでいる人も、たくさんいると思う、仕事のうえ、それから家庭のうえ、職場のうえ等々において、あらゆる点で、悩みの多い時代であると思う。だが、青年期だ。青年期とは、招来の人生形成のため悩みと戦っていく時代の異名です。その苦難をば、どうか信心一途に、堂々と打開し、変毒為薬し、未来に輝かしい実証を出してもらいたい。それを堅く信じて、邁進していっていただきたい。諸君の先輩も、その苦難の道を切り開いて今日の栄冠を獲得しております。これは絶対の事実であります。(拍手)
7  四、次に申し上げたいことは、常に時代の最先端を行くという誇りと自覚を忘れないでいただきたい。否、時代の先駆を行っているという誇りをもち続けていただきたい。
 日本の国にキリスト教がはいってきた当時、長崎のキリスト教信者は、誇りに燃えていた。度重なる幕府の弾圧にあい、ずいぶん、はりつけにもされ、牢にも入れられ、殺されもした。しかし、誰人にも、暗い陰はなく、みんな生き生きとして、誇りに燃えて捕えられていったし、戦っていったと記録されております。かつての自由主義者も、共産主義者も、同じ方程式であったのです。彼らでさえも、時代の先端、先駆を行っているという誇りをもっていたと思う。いわんや、独一本門の、色心不二の、末法万年未来際にわたる哲学です。「当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」と大聖人はお説きであります。
 その大思想、哲学を根底にして、新時代をつくっていくわれわれであります。民音の姿、公明党の姿、その他、文化祭、体育祭、芸術祭等々。この講習会の姿そのものもそうです。そこには、参議院議員も、都議会議員も、会社の社長も、重役も、八百屋さんも、そしてまた魚屋さんも学者もおります。この事実こそ新時代の縮図であり、生きた信仰活動の姿であります。
 壮年部の講習会の時も丑寅勤行のさいに、何千人も大客殿に集まり、みんな喜々としています。たいてい夜中は眠たいし、横着するのが、一般庶民のあたりまえの姿です。しかも丑寅の時刻といえば、丑満時などといって、いちばん寂しい時だ。それも東京から百何十キロもはなれた富士山のふもとで、本来ならいちばん寂しいといわれる「寺」において、幾千の人がいつも、このように快活に動いています。こうした有様を、心ある人が見たならな、びっくり仰天するわけです。(笑い)
 これも全学会からみれば一部の姿です。日本全国で喜々として、あらゆる階層が集まって会合を開き、人間革命をし、新時代の礎をつくっています。これこそ新しい時代への建設であり、その実証であります。この事実をいまの総理大臣等は、心の中では、わかっていると思う。しかし、それを本当に素晴らしいことだと賛嘆できない。本来ならば「ああ日本のためになんとうれしいことか、すごいものだ」とするのがあたりまえであるし、それを大勢の国民に指導するのが、当然の義務です。それをいまの指導者たちは衆議院の自分の地盤を取られるとか、檀家を取られるとか(笑い)感情的に怒ったり、学会の発展にヤキモチをやいたり、全く権力をカサにきた言語道断の振舞いであります。
 今回の内閣改造にしても、立正佼成会の推薦議員を次官などにして、学会を押さえるみたいな人事をしているが、これなどは公明党議員の笑いぐさになっています。全くヤキモチなのです。(笑い)学会の前進を押えようとしたり、悪口をいおうとする情けない指導者連中は、相手にする必要はない。そんな古い材木は頼りにしないで、われわれの新しい材木で、新しい日本の国をつくろうではありませんか。(拍手)
8  五、そのために諸君は、内外の動向を敏感に感知していっていただきたい。そこで、新聞の社説は必ず読み、また一流雑誌の論文等も必ず読んでいただきたい。そして諸君が強い信念と卓見をもった、庶民の力ある指導者となってこそ、次の日本民衆を先導する真実の指導者であります。大所高所から、日本の政治、社会等々が見おろしていけるようにならなくてはなりません。またそれを変えていくようでなくてはなりません。同じく世界も、そのように見おろし、世界の動向を変えていく。そのぐらいの見識と力をもっていっていただきたいのであります。
9  六、次に申し上げたいことは、あくまでも諸君は創価学会と生死を共にしていっていただきたい。すなわち、学会っ子として生き、学会っ子として振舞い、学会っ子として一生の幕を閉じていただきたいのであります。(大拍手)
 なにか外部の批判等がありますと、メッキがはげてすぐに退転してしまって、信心があるのだか、ないのだか、わからない人もいる。
 しかしこれではなりません。金それ自体はどこまでも金です。同じくどんなにしかられようが、ほめられようが、苦しもうが、学会っ子それ自体は学会っ子で変わりない。少しぐらい勤行をサボッた、少しぐらい折伏ができなくて苦しい思いをした、それだって学会っ子は学会っ子です。少しばかり幹部の批判をした、それでも学会っ子は学会っ子です。(笑い)たとえ、いかなることがあろうとも、学会を最も大事にして、否、学会それ自体は自分だという事の一念三千の当体として、私と共に王仏冥合の戦いを進めてまいろうではありませんか。(拍手)
 わが学会っ子は、右に大慈悲、左に大哲学をひっさげて、希望に燃え、確信に満ちて、世界にいまだかつてない信心の団結の青年部として、王仏冥合の勝利を飾ろうではありませんか。(拍手)
10  七、次に申し上げたいことは、青年は革命の主体であり、潮流であるということであります。先日、学生部に対して、過去のあらゆる革命は、学生が先駆となり、推進力となった、と私は激励した。しかし、いまここに、青年部に申し上げたい。それは、学生といっても青年であり、それらをも包括して、社会のあらゆる分野、あらゆる階層にあって、革命を成就するのは青年しかない。過去に革命を成就したのは、青年であり、青年部が革命の潮流であり、主体であることはなんら変わりがありません。
 青年とは、逞しき建設の息吹きであり、革新の生命であります。戸田前会長は「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」といわれた。まことに青年の革命の熱たるや、熱の太陽のごとく激しく、また一切を動かしていく原動力であります。もしもこの力が誤った方向に向けられたならば、いかに不幸なことか。色心不二の大仏法を持った青年こそ、あらゆる階層をリードし、日本、世界の現状を打破し、新時代の到来をもたらすことは絶対であります。その自覚、決意をもって、さらに私と共に前進しようではありませんか。(拍手)
11  八、私は、いつか猊下に、天理教では跡継ぎの息子が東大生だと吹聴していると申し上げたことがあります。猊下いわく「ああ、もう天理教はダメだ」と。(笑い)おもしろいお言葉です。私も、そう思った。というのは、一流の商社は、語学が必要でしょう。また、芸能界では、芸というものが最も大事となりましょう。東大生、東大出というのは、一つの学問、知識をもっているということであって、天理教の教義ならびに信念を弘めることには、直接的にはなんら関係がない。東大出が、なんで天理教に関係ありますか。
 創価学会は信心の世界です。革命遂行の目的、使命をもった団体であります。その革命は、もとより無血革命であることは論をまたない。学会では、信心の強い人、実力のある人が、いちばん偉いのです。私は、次の会長も、その次の会長も、そんな大学を出たからどうのと、そういうことを基準には考えていないのです。そんなことは、みんな見栄です。信心が強盛な人、不惜身命で学会を守り、広宣流布を進める人が偉いのです。(拍手)
 だから、次の会長、その次の会長、大幹部等々も、本当のことをいえば、大学などを出て弱々しい格好をしている人よりも、夜学ぐらいでもいい。高等学校ぐらいでもいい。否、一職工でもいい。そういう人のほうが、私は本当に未来を託す創価学会の烈々たる信心、崇高なる使命に命をかけていく人が、いるのではないかと期待しているけれども、どうでしょうか。(大拍手)もちろん、知識を軽視してよいというのではありません。前にも申し上げたとおり、青年は大いに勉強すべきです。信心が透徹してくれば“一切の法は皆是れ仏法”と変わり、あらゆる学問が生かされてきます。詮ずるところは、広宣流布のために戦った人が、最も偉い人であるということを、どうか心に銘記していっていただきたい。(拍手)
12  九、なお、次に申し上げたいことは、学会始まって以来、初の衆議院議員選挙があります。この衆議院選においては、青年部出身者が相当数立候補する予定です。本来、私の気持ちは、まだまだ私も若いし、諸君を苦しめたくもない。じっくりと着実に指揮をとっていきたい。また時をかせぎたい。これはいまでも変わりありません。しかし、日本の国情、世界の様相等々から考えて、どうしても時代の要求として、創価学会が一歩前進しなくてはならない。そうしなければ悪です。知っておって行なわなければ、それもまた悪です。やむにやまれず一歩、二歩前進せざるをえない。
 戸田前会長の本意、そしてまた日蓮大聖人のご本意も当然、王仏冥合実現でありますから、日々、月々、年々に戦いを深く、広く、勝ち戦にもっていかなければならない。大聖人のご遺命、ならびに恩師戸田前会長のご精神にかんがみても、どうしても、私も戦わざるをえないし、諸君に苦労をさせざるをえないのです。この気持ちをどうか感じ取っていただきたい。(大拍手)
 遠くは日蓮大聖人は、時の執権ならびに良観房や平左衛門尉等に、ずいぶん迫害をされた。まことにもったいなく、またあまりにも痛々しいお姿であります。ただし大聖人は佐渡の国に流されても「喜悦はかりなし」と仰せられ、苦難に少しも屈せず、堂々たる戦いでした。よく戸田前会長は「大聖人を一般の人はほめるが、それはあんなに難をうけて、強盛に最後まで戦ったから偉いというがそうではない。難をしのばれて、三大秘法の御本尊を全人類にお残しくだされたから偉いのだ」とおっしゃっていた。全人類の救済のために、御本尊を残すために、大聖人は難をしのばれたのです。それは国家権力との戦いでありました。また牧口初代会長ならびに戸田前会長も、結局は国家権力との戦いでありました。
 いま、われわれも、政府・自民党の策謀によって、どれほどいじめられてきたかしれません。彼らは、他宗教と結託し、学会を葬らんとしたり、力ずくで学会の発展を押さえようとしてきたのであります。幾多の正宗の信徒が、どれほど苦しい思いをしてきたことであろうか――。権力ほど恐ろしきものはない。善良な民衆が、ただ苦しみ、悔やんでいく歴史は、断じて繰り返してはならない。われら青年の手によって、本当に、これが理想の政治だ、これが本当の民衆のための政治であり、議員である、といわれる国会をつくりあげようではありませんか。(拍手)われわれの力で、正しい平和な理想社会を、建設しようではありませんか。(大拍手)
 心ある民衆はそれを待っております。理念も信念もない横暴は政治家連中を、放置しておいたのでは、永久に民衆が苦しんでしまう。いまこそ、まじめな民衆の先駆を切って、大仏法を奉持した民衆が決起していくべきです。(拍手)これこそ時代の要求であると確信し、妙法の革命児として断じて戦い、勝ち進もうではありあせんか。(拍手)われらには、大御本尊があり、また、後ろには、二陣、三陣、四陣と続く同志がおります。
 かの明治維新を成し遂げた青年たちは、革命を成就し、政権獲得後は、横暴と上慢の姿と化していった。国会の委員会室には、彼らの大きな肖像画が並んでいるそうですが、勲章をさげ、偉そうな姿で民衆を欺瞞してもらった勲章に、なんの価値があるかといいたい。(笑い)皆、名聞名利の姿といわれてもやむをえないでしょう。
 われわれの戦いは、民衆の一人一人が、全部、幸福になっていく革命であります。したがって、もし御仏智により、諸君の力によって、広宣流布が実現したとしても、決して勲章なんかさげたり(笑い)タスキをかけられたりしないでいただきたいと思う。創価学会から選出した大臣や委員長の肖像画などが、国会内に掲げるようなまねは永久にしないことを、誓い合いたいと思う。(笑い、拍手)どんなに諸君が偉くなっても、また、われわれの黄金時代がきても、今日と同じく、開きんシャツと白ズボンで、総本山の講習会に集まろうではないか。(拍手)
13  十、最後に、一言申し上げておきたい。というのは、諸君は、いつも壮年部の方方と共に戦っていかねばならない。壮年部も、立派な人がたくさんおります。また壮年部の方々には、諸君が、戦いをしやすいように、成長していけるように、何回もお願いしてあります。諸君は壮年部の方を尊敬していっていただきたい。否、壮年部から尊敬される人になっていくべきです。
 諸君と壮年部とは、肉体的にも違いますし、昭和生まれと明治、大正とは時代も違うのです。ゆえに、諸君と同じく、敏捷に動けないのは当然であるし、頭の回転も違う場合のあるのはあたりまえです。言葉づかいもていねいに、礼儀を重んじていける若き指導者として指揮をとり、調和をとっていっていただきたい。
 来年の夏季講習会のときに、あらゆる前途の苦難を悠々と切り開いて、いちだんと功徳に浴し、また成長した明るい姿をもって集い、再びお目にかかりたいと念願するものであります。これをもって、私の激励とさせていただきます。(拍手)

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