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日蓮大聖人・池田大作

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夏季講習会、壮年部大幹部会 壮年部は中核であり重鎮

1966.8.3 「池田大作全集」第3巻

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1  今回の講習会は、第二十一回にあたります。この講習会にさいし、五百八十余万世帯を代表して、参加できました皆さん方に、私は心から祝福を申し上げます。(拍手)
 有名な経王殿御返事に「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、さいはいは愛染の如く福は毘沙門びしゃもんの如くなるべし、いかなる処にて遊びたはふるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」との御金言があります。
 この御文に示された姿こそ信心を全うした、事の一念三千の当体であり、その実相であります。特に「さいはいは愛染の如く福は毘沙門の如くなるべし」と述べられているように、皆さん方、壮年部は、幸福の実証を示していくべき大事な人生の総仕上げにはいっている年代であります。末法今時において、福運を積んでいく道は、仏法の真髄である三大秘法の御本尊以外にありません。いままで福運のあった人もいることでしょう。だが、このような五濁の時代においては、福運は、たちまち消えてしまう。いわんや、日蓮正宗を、創価学会を、地涌の菩薩を、批判したならば、ますますその福運は消えてしまいます。
 この「さいはいは愛染の如く」の「愛染」ということは、梵語では「羅誐羅闍らがらじゃ」といい「愛貪染著」の意味をあらわしております。御本尊に向かって左わきに梵語の文字でしたためられているところが、愛染であります。これは、煩悩即菩提をあらわしております。「福は毘沙門の如くなるべし」――毘沙門天というのは「種種聞」または「多聞天」といいますが、仏法守護ならびに福徳施与の誓願をもっております。そして、俗にいう七福神の一人とされており、生死即涅槃をあらわし、御本尊の左上に位置しております。
 この御文のとおりに、信心を全うした妙法蓮華経の主体、すなわちわれわれの生命、ならびに生活のうえの活動は、こうならねばならないし、絶対にそうなるとのご聖訓であります。
 「さいはいは愛染」――これは、世間の小さい欲望や愛欲にとらわれるのではなくして、人間として最高の幸福境涯、ならびに色心共に満足しきっていけるという意義であります。小さい幸福や、また目先だけの欲望に左右されるのでもなく、永遠にこわれない幸福境涯、これが「さいはいは愛染の如く」という意味なのです。愛染明王については真言密教等において、さまざまな解釈をしていますが、末法今時において、大聖人の仰せは、成仏の境涯、絶対の幸福、なにもかも全部満足しきっていくという人間性をいうのであります。それから「福は毘沙門の如くなるべし」とは、三世十方の仏菩薩も、われわれを守り、福運を最大限に涌現することができるとの意で、これも同じく絶対の幸福境涯を示しております。
 その「さいはい」と「福」で幸福ということになります。これが仏法の説く究極の幸福であります。一般的にいわれている幸福は、抽象論であり、相対的な幸福であります。愛染のごとく、毘沙門のごとく、幸いと福運を積んでいくのが御本尊の功徳であります。これを獲得しなくてはいけない。
 そのためには、自転と公転との関係のごとく、心豊かに題目をあげきっていくこと、と同時に王仏冥合の戦いに進んでいくことであります。すなわち、御本尊に題目をあげきっていくということが自転であり王仏冥合、立正安国という崇高な目的に活動していくことが公転になります。この両者がマッチして、初めて、愛染のごとく、毘沙門のごとき、幸福生活ができるのであります。
 そして「いかなる処にて遊びたはふるとも」どんな時代がこようとも、どんな境遇にはいろうとも「遊行して畏れ無きこと」――幸福境涯、幸福生活であることは、師子王のごとくであると。非常に簡単な御文でありますけれども、この御文を色読して、皆さん方の福運、功徳善根を、奥さんやお子さんや、お孫さんに、堂々と、悠々と回向しきっていける皆さん方になっていただきたい。あと二十年、三十年、あるいは四十年ぐらい長生きする人もいるかもしれないけれども、どれだけ功徳善根を回向できるかは、この仏道修行によって決定されてしまう。せっかくここまで福運を積み、信心を重ねてきたのでありますから、もう一歩、御本尊に仕え、おのおのの今世の使命を自覚して、妻にも、子供にも、子孫末代にも、絶対に福運と幸福を与えきってみせる、また与えていく責任があるという決心で私と共に前進しきっていただきたいのであります。(拍手)
2  なお、有名な方便品の文に「是の法は法位に住して、世間の相常住なり」という御文があります。これは、御本尊のことを説かれた御文でもあります。ならびに、われわれの生命、その本質は無明法性体一で、仏の生命があるのだという哲学でもあります。しかし、これを生活のうえで、論ずるならば、次のようにも説けると思います。「是の法は法位に住して」とは、御本尊を受持して、われわれの肉団のなかの仏界を涌現するということになります。その人は「世間の相常住なり」――すなわち、世間とは九界です。現実の生活であり、社会であります。それが、常住であるというのです。一般的には、世間は諸行無常であります。けさ元気に家を出たその人が、帰りには、もう、交通事故で死んでいる。さきほどまで元気であった子供が、何時間か後には水死体となってしまう。全部、諸行無常です。きのうまで親しかった人が、きょうは凶器をもって襲いかかる。きのうまで立派な家をもっていた。しかし、夕方には、火事になって灰になってしまった。きのうまでは繁栄していた会社が、あくる日は、不渡りで、破産しなければならない等々、現実の社会を考えた場合には、全部が諸行無常であります。常住なものはなにもありません。
 しかし、大聖人は「是の法は法位に住して、世間の相常住」――現実の生活にあって、常住に幸福境涯を満喫できる、事の一念三千の当体として、福運を積みきり、幸せな一生を送っていくことができる、永遠に福運をもった人生として、生ききっていくことができる、との仰せであります。
 短い御文でありますが、御本尊を受持した誇り、確信、感謝、報恩等を忘れず、一生涯、三世十方の仏菩薩に守られているのだということを自覚していくことが根本です。また一般の人々が、個人も一家も一族も、全部、だんだん不幸になり、福運を消していくなかにあって、月々年々、栄えていける大仏法であるということを確信して、前進していっていただきたいのであります。(大拍手)
 誰が御本尊を批判しようとも、学会を批判しようとも、そんな縁に紛動されてはいけない。どんな有名人であっても、また偉人であっても、御本尊の功力はわからないのです。御本尊を受持していないし、ましてや実践もしておらず御書も読んでいない。したがって一般の人々は、誤った宗教観で御本尊を、学会をみています。これは、一応は、やむをえない。しかし、日蓮正宗の三大秘法の仏法だけは、いままでの宗教とは、本質的に違う。彼らに真実の宗教を知らしめるのは、私どもの役目であります。そのときに、勇敢に戦えるのは、地涌の菩薩であり、その人が、さきほど申し上げたように、愛染のごとく、幸いを積み、毘沙門のごとく福運を積んでいける人であり、また「世間の相常住」として、自信満々と、人生を勝ち取っていける人であります。
 壮年部の皆さん方に、特に、これから何項目かを申し上げて、責任ある指導者としての自覚をお願いしたいと思います。
3  第一番目に申し上げたいことは、壮年部は、学会の重鎮であり、中核であり、礎であるということであります。代々の会長も、全部、壮年部であります。もったいなくも、代々の御法主上人猊下も、そういう意味から申し上げれば、壮年のお立ち場でいらっしゃいます。私も、青年部でなくして、壮年部です。百六箇抄に「男は本・女は迹」という御文があります。この御文は、それこそ、甚深の法門を説かれた相伝書であって、どういう深い意味か、私はわかりませんが、信心のうえから拝するならば「男は本」とは、代々の御法主猊下は男がおなりになるのであるという深い意味が存していると思うのです。
 学会の会長もやはり壮年です。釈迦も、男ですし、天台大師も、伝教大師も、みんな男だ。壮年がどれほど大事であるかということを明示していらっしゃると思う。そして、その深い立ち場から考えるなら、壮年部は常に創価学会を守るという精神を忘れてはならない。
 創価学会を守ることは、日蓮正宗を守ることであり御本尊を守ることです。和合僧を守ることであり、じつめれば、最高の善に通ずることになります。学会を大事にした人は、三世十方の仏菩薩に守られます。御本尊を大事にした人は御本尊に守られています。学会は、世界にただ一つの清浄な和合僧でありその学会を大事にする、人柄のいい、純粋で、まじめな信心をしている人は福運を積んでいくことができます。
 信心をして年月がたち、大幹部になってきますと、だいたい学会とはこんなものだと、小バカにするような人も出るのです。同志を小バカにしたり、学会をへいげいし、それでいて表面ではまじめに信心しているような姿をしています。そういう人は結局、いつか、どこかで行き詰まります。
 自分の立ち場がかわいい、自分の会社がかわいい、境遇がかわいい、そのために学会を足げにする人がいれば悪人です。どこかで罰をうけます。そうなってはいけません。戦いの第一線に立っては、自分が創価学会を代表している、と自覚をしていただきたい。その人の功徳は大きい。「誰かがやるだろう。自分一人ぐらい負けても、欠けても、なんとかなるだろう」という心がある人は、結局、それだけ福運を消し、損をいたします。所詮、自らが創価学会を代表しているという、責任感と自覚に立って立派な名将として振舞い、指揮をとっていただきたいのであります。(拍手)
 皆さん方の先輩には、幾多の立派な人がおりますが、その人たちは皆、この決心で戦ってまいりました。ゆえに福運がついているのです。いま参議院議員として活躍している先輩の人たちを例にとっても、それだけの福運と実力を備えた人たちばかりです。いずれにしても、私の申し上げたとおりの信心をやっていけば必ず福徳がつくことは間違いありません。絶対にその人は最後は、勝利者になります。
4  第二番目に申し上げたいことは、幹部は個人プレーであってはならない、ということであります。おのおのの特色、個性、これは大いに発揮していい。しかし、人々を小バカにし、人々を押えて、自分だけ有名人になろう、自分だけいい子になろう、ということは「異体同心なれば万事を成ず」という大聖人の本義に反するのです。
 地涌の菩薩は、全部使命があります。一人として、ムダな人はいない。したがって、根本的には、尊敬しあい、助け合い、後輩が、伸びのびと成長していくための幹部である、自分であるのだということを自覚しなければいけない。その人が偉いのです。自分だけ偉くなり、ほかの人は偉くならなくてもよい――これは、邪宗教の行き方であります。
 先日会ったある評論家も「いままでの学者は、自分がいちばん偉いと思って、わけもわからないことばかり書いておいて、本当に、学生が、一日も早く立派に本を書けるようにしよう、また優秀な学生にしよう、という根性がない」といっておりました。そういう行き方は、正しい行き方ではありません。
 私どもは、お互いに善知識であって悪知識ではないのです。幹部と後輩との関係は、善知識であり、同志であり、後輩の信心を、より以上すすませ、より以上、立派にさせていこうということが、役職の存在意義であります。したがって、全支部員がはりあいをもって、喜々とし、伸びのびと活動していけるように、心をくばっていただきたいのであります。なかんずく婦人部、女子部等に対しては、心からいたわってあげねばなりません。婦人部を叱ったり、女子部とケンカしたり、小バカにしたりするような壮年部であれば、すでに、おとなとしても、指導者としても失格です。婦人部、女子部、そしてこれから伸びていく青年部等を心から包容して、その団結の中心に、どっしりと壮年部の皆さん方が位していただきたいと思います。婦人部や女子部からとやかくいわれること自体が、すでに壮年部の最高指導者として、敗北であり失格であります。したがって、四者が、それぞれ特徴を生かしきり、そのうえで全体を調和させていける中枢になっていただきたいのであります。
5  三番目に申し上げたいことは、正論は謙虚に聞いていただきたい。
 私たちは、お互いに凡夫です。万能ではなく、必ず欠点があり、知らないこともたくさんあります。したがって、多数の人に意見を述べてもらい、それを冷静に判断して、この人は学会のためを思い、信心のうえから申していることであり、全体の幸福のことを考えている正論である、これは皆で聞こう。こういう度量のある指導者であり、壮年部であっていただきたい。
 学会は権威主義、ならびに名聞名利であっては絶対にならない。それでは必ず行き詰まってしまいます。自分のたんなる感情で、下からの意見を抑制しては絶対にならない。伸びのびと皆が意見を述べられるようにしてあげ、それでよい意見は取り上げて、実行に移す。よい意見をいった人は、ほめなくてはいけない。なお、支部員や地区員を自分の部下のように思って、命令で動かそうと思ってはならない。それでは権威主義であり、信心ではない。学会の根本的な行き方でもありません。所詮、絶対に威張らぬことです。そして、特に陰で苦労している人に、暖かい思いやりをもっていただきたい。
6  四番目に申し上げたいことは、個々の指導に最大の力を注いでいただきたい。これが一切の戦いの勝利の源泉であります。全体観に立って指導をしなければならない問題もあるでしょう。それと共に個々の問題の解決は欠かすことはできません。この両方の指導ができて、はじめて本当の勝ち戦ができるのです。
 昔は、ほとんど個々指導で学会はまいりました。だから強かった。人数が少なかったということもあるでしょうが、幹部はほとんどの後輩の名前も顔も個性も、一家の実情も、信心経歴も、全部わかっておった。それが核になって、今日の学会の大発展があるのです。いくら膨大な組織になり、多数の同志が集合するようになったといっても、この基本精神、個人指導という根本の方程式だけは、忘れてはなりません。昔の大名のなかでも、優秀な大名は、一万人や二万人の家来の内情は、全部知っておったといわれております。もしも、組織のうえにあぐらをかいて、後輩が雲のように見えていってしまったならば、それでおしまいです。常に気をくばって、個人指導をし、また側面から、全体の指導というぐあいに、深くはいっていかなければ、自分自身の成長が止まってしまいます。
 私は、五百八十余万世帯の人たちに対し、一から十まで、なんでもして差しあげるというわにはいきませんけれども、私なりに努力しているつもりであります。一般会員の同志とも会って、意見を聞いております。理事室にも、いろいろな点で意見を求めて、また実際にも見てもおり、その戦いはいまだかつて止まっておりません。自分の成長を図っていくためにも、その最も大事な方程式は忘れないでまいります。
7  五番目に申し上げたいことは、壮年部は、特に豊富な経験をもっておる人々であります。したがって、豊富な人生経験を、後輩の指導に十分に生かしていただきたい。特に悩み多い人たちと、ひざ詰めで語り合ってもらいたいのです。
 形式などはいりません。学会はひざ詰めで話し合う民主主義の縮図を実践しております。参議院議員も都会議員も一般の人たちとひざ詰めです。また何千、何万の人を擁しておる指導者の皆さん方も、そうしております。それが最良の方法であり、いちばんよくわかる、いちばん尊い実践なのであります。何千人、何万人の前で、立派そうな口をきいて「あの人はたいしたものだ」「この人はえらい雄弁だ」「立派そうだ」などといわれても、それは幻影にすぎない。ひざを突き合わせて話し合ったときに、その指導者の真価がわかるのであり、それをやっていける人は偉大であります。
 特に考えていただきたいことは、いつも後輩を自分以上の人材に育てようという指導者、その自覚をもった幹部、この人は偉い人です。その人こそ、民衆の総大将としての貫録をもった人であります。自分が後輩に抜かれては困ってしまう、そんなヤキモチをやいているような人物は小さい、あまりにも小さい。後輩をどんどん偉くして、泰然自若とそれをニッコリ喜んで、送り、みていける人は、総大将でしょう。私は、その精神一本できました。皆をよくしてあげよう、適材適所で活躍させてあげよう、皆幸福になってもらいたい、これだけが私の本当の気持ちです。だから私は強いのです。内外共になにも恐れないし、なにをいわれても平気なのです。御本尊がみてくださっている。戸田前会長の指導どおりにやっている、これは私の最高の自負心です。
8  六番目に申し上げたいことは、きのうまでの功績に酔ってはならない。もしか、これまでの功績に酔うような人は、五老僧の眷属です。五老僧は大聖人のもとで、大聖人滅後まで活躍してきたという功労に酔って、日興上人に師敵対して、地獄へ落ちております。
 支部長になった、理事になった、総務になった、おれはこれだけの支部をつくったのだ、おれはまえは最高幹部だったのだ等々、過去のことに酔って、いまの瞬間を大事にしなかったならば「只今を臨終と思って、妙法を唱えなさい」という大聖人の御金言に反します。功績主義で、功績のみにとらわれて信心をなくしてしまうようになったならば、そのような人は成仏できない。むしろ、その人は、魔の存在に変わります。したがって瞬間瞬間、生命のあるかぎり題目を唱え、より以上福運を積んでいこう、広宣流布に、王仏冥合にご奉公しようという、その信心、その求道心を堅持しつつ、絶えず未来を目指して進む人が、最も福運を積み、成長しきる人であり、子孫末代に大功徳を回向しきっていける人であります。
9  七番目に申し上げたいことは、折伏をした人は、学会の宝であり、大事にしていただきたいということであります。折伏は非常に難事です。どんな有名人でも、どんな金持ちでも、折伏はなかなかできない。一工員であり、一お手伝いさんであり、一庶民であっても、折伏を立派にしきってきている人はたくさんおりますが、その人たちこそ地涌の菩薩として、最高の活躍をしておる人であります。地涌の菩薩ですから、あらゆる姿を現じて生まれてきていることは当然です。創価学会は折伏の団体であります。たとえ信心の新しい一般会員であっても、どんなに地位もなにもない人であっても、折伏をしている人を、絶対にバカにしてはならない。その人を心から大事にして、学会の宝として、守り抜いていただきたいのであります。
 なお、トントン拍子に理事になったり、議員になったりした人がいます。やはり折伏をしぬいてきた人と、折伏をしないできた人は、必ずあとで大きな差がついております。折伏をしないでトントン拍子にきた人は、メッキみたいなところがあります。折伏をしぬいてきた人は、非常に着実に、遠回りのようであるけれども、一年ごとに実力が発揮されております。
 特にこれから注意しなければならないことは、非常に政治に敵している、学歴がある等々で、私もときにはそのような人を抜てきする場合がありますが、折伏をせず、訓練等をうけずして、政治に適し、あるいは世間的、社会的に力があるから、その人を重要視する、ということは、いい場合もあるだろうし、それ自体が今度は学会を危険に落とし入れる場合もあります。そういう点を十分に考えて、どんな時代がきても、あくまでも折伏をしきってきた人、折伏の功労者を、決して見落とすことなく、その人たちを擁護し、大事にし、尊敬していっていただきたいことを心から念願するものであります。(拍手)
10  八番目に申し上げたいことは、遠く日蓮大聖人は大難四たび、小難数を知らず、日本民族の根本的救済のため、全世界の人々を救済するため、否、末法万年尽未来際の衆生を救済なさるために、難をしのんで、三大秘法の御本尊をお残しくださいました。私どもは日蓮大聖人の弟子であり、家来であり、子供であります。大聖人の遺志を全うするのは、弟子としても家来としても、また子供としても、当然の義務であるし、権利であります。
 二祖日興上人、また三祖日目上人も、代々の猊下方も、その大聖人のご精神を受け継がれて、幾たびか国家諫暁をなさり、他宗教が栄華を追っているなかにあっても、厳然と謗法から施をうけず、今日まで法灯連綿と大法を堅持してくださった。いま広宣流布の機熟し、大聖人も日興上人も、日目上人も、どれほどか喜んでくださっているかと確信いたします。(拍手)
 また牧口初代会長ならびに戸田前会長も、正法流布のために、大聖人のご遺命達成のために、一身をなげうって、どれほど戦ってこられたか。牧口初代会長は時の権力によって、牢死なされた。戸田前会長も大変な苦難のなかを、今日の学会の道を開いてくださった。その恩を断じて忘れてはなりません。
 昭和三十一年、最初の参院選の時には、あらゆる妨害のなかで、三名当選して、三名落ちました。世間では三名当選したといって、非常に驚いておった。だが戸田前会長は、非常に悲しんでおられました。このために広宣流布の構想が若干遅れてしまった。そのあくる年の大阪における補欠選挙には、戸田前会長もやはり死が近いことを予感しておったか、少しあせっておられたというか、早くいろいろな経験を積ませたいと思っておられたか、無理に補欠選挙をやって、見事にこれも敗北になりました。
 私は、戸田前会長がどうしても広宣流布をしなくてはならないという強い強い決心であられたことはよく知っております。しかし敵は多勢、味方は無勢でありました。敵はあらゆる権力と財力と陰謀、策略をもって、創価学会にかかってまいりました。学会は信心という二字で戦ってきた。あまりにも純粋であり、あまりにも清浄な戦いでありました。しかし私どもには御本尊があります。否、もはや五百数十万という同志がおります。これからは勝てないわけはない。その補欠選挙に負けたときに、私は戸田前会長とたった二人きりになって、私も泣いて恩師に申し上げた。「必ず自民党や社会党や民社党や共産党を、アッといわせるような戦いをいたしますから、先生どうか安らかに休んでください。いつか必ずいたします」と。(大拍手)
11  創価学会の力によって、日蓮正宗もこれだけ栄え、創価学会の力によって、日蓮大聖人のご遺命がやっと実現されてきた。今日の発展の大原動力となって戦われたのが戸田前会長であります。戸田前会長がおられたがゆえに、また牧口初代会長がおられたがゆえに、私どもが幸せな生活をし、社会的にも、人生にあっても、どれほどか誇り高く、裕福に、堂々と進んでいるか。その恩を報ずるために、地涌の菩は、創価学会の同志は、よく団結して前進し、悪徳議員やあまりにも悪い国家権力者たちに、愚かな民衆たちに“学会はすごい、真に民衆を救い、社会を救う力ある平和の団体である”といわせることが、遠くは日蓮大聖人、また近くは牧口初代会長、戸田前会長が、最も喜んでくださる道であるがゆえに、私は戦うのであります。(拍手)
 本当に大聖人の仏法を、御本尊を受持して、一生を全うしたい人は戦いきっていきなさい。戸田前会長のおかげで、創価学会の今日があり、その恩を報ずるところに学会精神の真髄があることを自覚して、共に、学会っ子として、人生を生ききろうという人は戦っていただきたい。(大拍手)
 江戸時代、島原の乱において、原城を守った天草四郎をはじめ三万八千人の同志は、板倉侯等の幕府軍十二万四千余人の攻撃に負けず、莞爾として、守りきった。最後は松平侯の策略等によって滅ぼされたけれども、寛永十四年十月から翌年の二月までの五か月間、それは命をかけるどころの騒ぎではなく、もう死ぬのはわかっている戦いでありました。全滅することがわかっていながら、天草四郎のもとに結集した信者は三万八千人で、そのなかには子供も、女の人も、老人もいました。しかし、そのなかで同志を裏切ったのは山田右衛門作という壮年ただ一人であったことがいまでもキリスト教徒の最高の誇りになっているのであります。
 外道であっても、これだけ純粋な同志の団結をもって、立派に生涯を飾っております。いわんや、われわれは独一本門の同志であります。幸福になり、偉くなり人々から尊敬されながら、それでなおかつ裏切るような者があったならば、無間地獄に落ちるのはあたりまえではないでしょうか。島原の乱のときに、三万八千人のなかで裏切り者はただ一人。わが学会の壮年部は一生涯、ただの一人も裏切り者も出さないという団結で進んでいくべきであると思います。(大拍手)
 私はまだまだ若い会長であります。未熟であり、欠点もあります。戸田前会長や牧口初代会長の遺訓を達成するために、会長になり、立ち上がったのです。あとはなにもない。これが師弟の道であり、同志の契りです。外道であっても、またどこの団体であっても、本当に人間らしい生き方をした、契りを結んだ師弟とか同志は、そういう姿を示しております。まして、最高の仏法に生きる私どもは、絶対に戸田前会長のご遺志を実現するのだという決意で進んでまいろうではありませんか。(拍手)
 したがって、皆さん方はまず御本尊を一生涯忘れず、学会を守りきって、日々、月々、年々に成長していただきたい。たとえかたわになろうが、半身不随になろうが、どのような立ち場になろうがその一念をもった人が立派であり、霊鷲山会において大聖人にお目通りがかない、おほめの言葉をいただける人です。だからといって、戦いに無理があってはなりません。体は大事にしてください。皆さん方がうんと長生きして、事故なく、そして福運を積んで、人生の最高の総仕上げをしていただきたいということを、朝な夕な私は御本尊に祈っております。
 次は青年部、学生部、高等部、中等部、少年部が待っております。その人たちに、個人においても、学会においても、立派にバトンタッチをして、あとは彼らが、伸びのびと、それこそ口笛を吹きながら、邪悪な謗法を見おろしながら、大手を振って勝ち戦の前進ができるようにしてあげようではありませんか。(拍手)
 事の一念三千の当体であり、因果倶時ですから、御本尊にこの決意で、異体同心の信心をもって祈っていくならば、必ず目的を成就していくことができます。いままで私が申し上げたことを、どうか忘れることなく、一緒に元気でがんばりましょう。(大拍手)

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